序章「死にたがりと、世界のバグと、少女」
今日は晴天。走るように風が頬を撫でる。青春を代表するような雲ひとつない空。
蝉の鳴き声は贅沢な伴奏だと思う。
蝉の存在意義はなんだろうか。夏を表すことだろうか。数を増やすことだろうか。
ただ、そんなものはただ人間が勝手に考えたものであって、実際は意義などない。
屋上から見下ろす街は、いつもと違って見える。びっしりと並んだ家々は、まるで“無駄を嫌う人々の思考”そのもののようだった。
まだ日が登って間もない早朝。空気は澄んでいて、美味しい。
これが“最後の晩餐”なら悪くない。
いつも食べていたインスタント麺よりも、よっぽど喉越しがよく、健康にもいいだろう。
そしてなにより、3分待つ必要がない。これは大きい。
3分がなければ、1日のより多くの時間を無駄に過ごすことができるだろう。
僕の背後には錆びた金網。足元には雨風にさらされ汚れたコンクリートの淵。
一歩先は——空。
僕は今日で、全てを終わりにするつもりだった。
僕は生まれるには早すぎた。もっと未来に、もっと進んだ技術の中に、僕でも暮らせる世界がある気がした。時間が経てば、あいつらも朽ちていなくなる。
だから一旦中断するんだ。
もちろん、恐怖心がないわけじゃない。これは来世のための必要犠牲だと自分に言い聞かせた。
何週間も考えたんだ。考えた結果だ。これは僕の意思だ。
よし...と再度覚悟を決める。何度もシミュレーションした。僕は、効率的に動ける人間だ。
ゆっくりと、目を瞑る。
そのまま......足を前に出し――。
......落ちた。
――はずだった。
恐る恐る目を開けると目の前には乗り越えたはずの金網が見えた。
――どういうことだ......?
僕は覚悟を決めて、飛び降りたはずだ。なのになぜまだ屋上にいる?
しかも、金網の手前。安全地帯。
僕の覚悟は偽物で、あまりの恐怖に幻覚をみたというのか?
しかたない。もう一度だ。幻覚と同じ通りにするだけだ。いいシミュレーションになっただろう。
えーっと。どうするんだっけ。
そうだ。まずは、金網を超えないと。
金網の穴に手足をかけ慎重に登る。
あと2回。手を動かせば上り切れる。
「待って」
しまった。後ろから知らない女性に声をかけられた。
右肩は白く華奢な手で抑えられている。朝6時台だぞ。誰がこんな早朝に。
僕の意思や覚悟を知らないで。
「どうして邪魔をするんですか」
相手の顔を見るために振り向く。
するとそこには奇抜な衣服をきた、おそらく同年代であろう少女が無表情で立っていた。
肩にかかるほどのセミロングの美しい黒髪を揺らしている。
「まだ死なないで」
「そんな無責任な。君は僕のこと何も知らないでしょう」
「私は君のことをよく知っている。君はまだ死ぬべきじゃない」
無責任だ。すごく無責任だ。僕のことを知っている? 口だけだろう。知り合いでもないのにどうやって僕のことを知るというんだ。僕は活発的な人間でもなく、交友関係も狭いのに。
高校だって......長いこと行っていないのに。
「口だけだろ。僕は君のことを知らない。邪魔をしないでもらえるかな」
「死ぬぐらいなら私に人生を貸して。この世界には君が必要なの」
この世界には僕が必要......? あまりに大げさすぎて僕は笑いそうになる。
”私は君のことをわかってるよ”の次は”君は特別だ”と来た。
だけど、その言葉を馬鹿にする言葉は思いつかなかった。
彼女の表情はとても冗談を言っているような表情ではなく、真剣に見える。
もし本当に、僕に存在意義があったのなら、僕のことを知ってくれているのなら――どれだけ、嬉しいことだろうか。
ずっと探していたものが、目の前にある気がして僕の覚悟は揺れる。
僕の覚悟は、そんな言葉に風で散る枯葉みたいに吹き飛ばされていた。
僕は金網に掛けていた手を下ろし、ゆっくりと降り、地面を踏み締める。
なんだか、とても長い間空中に止まっていた気がした。
久しぶりに感じた地面は、とても安心感があった。
大きくため息をつき、後ろを振り返る。
僕の行動をみて安心したのだろう。彼女は安堵の表情を浮かべている。
意地の悪い僕は、負けたくないと思った。
「決して、君の言葉に心を動かされたわけじゃないからな」
「それでもいい。詳しく話したいからついてきてくれる?」
そんな言葉を彼女はさらりとかわす。
どうやら渾身の威嚇は伝わっていないらしい。
安堵の後から無表情のままで、眉ひとつ動いていない。
「言っただろう? 僕は君の意思を汲んだわけじゃないんだ。ただ、邪魔が入ってやる気を失っただけだ」
「そうなんだ。でも君、また時間かけてここに戻ってくるでしょう。目的がないから。だから私が目的をあげるから、死ぬぐらいなら、私についてきてよ」
確かにそうかもしれない。僕はまた少しずつ枯葉を集めて木を育てるだろう。
少しだけなら、拾い損ねた死なない理由を探すために彼女についていってもいいのかもしれない。どうせ、覚悟は散ったんだ。また部屋にこもって、ただ生命活動を繰り返すよりかは幾分マシだと思った。
「……わかった。ついていく。でも、僕なりの意味を探すだけだ。その意味がくだらないと思ったら、すぐに帰るから」
「わかった」
そういうと彼女は振り返って歩き出した。まるで僕に興味ないみたいだ。
全く僕に構う理由がわからないまま、僕は彼女についていった。