15 extra track サブレは軽やかにさえずる 2
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基盤を取り付け外装を閉じると、イオルムがこちらを振り返った。
「ここから予熱して焼いてみて。ちゃんと焼き上がるか僕も見たいからね。
商会長、移転したらオーブンも増やすよね?」
「その予定です」
わたくしの後ろにいた商会長が答える。
「おじさん、新しいオーブンは、使い始める前にクセとか把握するのに試し焼きするよね?」
「当然だ」
工房長が力強くうなずいた。イオルム、いつの間に工房長とそこまで距離を詰めたの……。
「移転前に休業期間を取る?それとも、工房は普通に回しながら並行して試したい?」
「……できれば製造と並行でできたら良いが、なるべく無理はしたくないな。みんなにも迷惑がかかる」
工房長の答えを聞いて、イオルムはうんうんと二度うなずいた。
「さすがおじさん。それすごい大事だよねーわかる。僕も熱中しすぎてリリスに叱られるんだ……」
イオルム、それは今いらない情報ではなくて?
「フルメンテするから三日……いや、二日でいい、この子を僕に預けて欲しい。
移転直前にするのか、すぐやるのかは工房移転の進捗次第になるだろうけど、この子の修理中に新しい子を持ってくるから、その二日で試し焼きを少しでも進めてもらいたいな。できそう?」
「できるかじゃねえ、やるさ。任せな王子」
「よーしじゃあそれでいこう!大物作るの久しぶりだから楽しみだなぁ。どういうのが欲しいか、焼き上がり待ちながら聞いても良い?
あ、リリス、しばらく待ってて。この前の話もしといてくれる?」
「わかったわ。ごゆっくり、イオルム」
イオルムとしていた話を工房長夫人に提案すると、夫人は少し戸惑われた。
「……新味、ですか」
それはそうだろう、これからオーブンを修理して増設するとはいえ、この忙しさなのだ。
「ええ、イオルムが食べてみたいと申しまして」
「ココア生地のサブレにミントのアイシング……確かにイオルム王子殿下はチョコ味がお好きだとは聞いていましたが」
工房長夫人がイオルムからわたくしに視線を移し、「ああ!」と声を上げた。
「……イオルム殿下は本当にリリス妃殿下のことがお好きなんですね」
「ふふ、すぐにわかりますわよね。チョコとミントの組み合わせにはまっている方も多いようですので、売れ筋のひとつになると良いのですが」
ココアの黒はわたくしの髪色。そしてミントの青はイオルムの髪色。
つまりはそういうことである。
「ココアサブレはレシピがあるので、まずは今の二つを組み合わせて試作してみますね。たぶん材料の割合をそれ用に作ったほうがより美味しくなると思うので、少しお時間をください」
「問題ありません。是非よろしくお願いいたします」
そんな話をしているうちに、バターの香りが工房内に漂い始めた。
「いい香り!」
思った以上に大きな声が出てしまった。隣に座っていた商会長が驚いた顔をしている。
目の前の工房長夫人は嬉しそうに笑ってくださった。
「そうでしょう?この香りがすると本当に幸せな気持ちになれるんですよ」
三人でオーブンの方に向かうと、みんなで焼けたサブレの天板を作業台に乗せて焼き上がりを確認していた。鳥たちが天板でたくさん羽ばたいている。
「……どう?いけそう?」
イオルムが工房長に尋ねる。
「焼色は問題ない。あとは食べてみて、だが」
工房長がまだ熱い焼き立てのサブレを手に取り、手で割って火の通りを確認してから口に運んだ。
咀嚼して飲み込むまでを、一同が固唾をのんで見守る。
「……うん、クセは少し前の状態に戻った感じだな。これならガンガン焼けそうだ。ありがとよ王子」
「ううんー、大丈夫だよ。色々話を聞けて良かった。仕様をまとめたら持ってくるね」
予定外に忙しくさせてしまっているお詫びも兼ねて魔道具を作ってきて欲しい、というノエミ叔母様の無茶振りにもイオルムは応えた。
購入商品の登録とお会計をスムーズに行うレジスター用の魔道具。これは既存のレジスターに取り付けるだけのキットが、既に商品として売られているらしい。これの取り付けと、工房に合わせた魔道具師ならではのカスタマイズをしてみせた。
「手が汚れていてお金をすぐに触れないことが多いから本当に助かります」と工房長夫人が感動しきりだったので、ミッションはクリアしたと言って良いだろう。
「すっかり工房長と仲良くなったのね、イオルム」
帰りの馬車の中で、上機嫌のイオルムに話しかける。
「うん!あの工房長は良い人だよ。
それにオーブン、今日は出て来てくれなかったけど、たぶん精霊が憑いてる。火の精霊」
「まぁ」
「ふふ、基盤とインクは何を使おうかなぁ、今から楽しみ。そういえば商会長、工房の移転したら新しく入れる魔道具もあるよね?全部作れるかはわからないけど、せめてセレクトはやるよ」
「ありがとうございます殿下。それをお願いしようと思っていました。よろしくお願いいたします」
同乗している商会長が嬉しそうに答えた。
「移転場所の候補も教えてね。確かめてくるから」
「おや、そこまでされますか」
「一応ねぇ。その土地の精霊の個性ってあるから。メルシエファミリーとして挨拶もしておきたいし」
「はは、なるほど、わかりました」
「さてと――ちょっと頭の中をまとめるね。二人は話してて」
そう言うとイオルムは目を閉じて左手を顎に当てた。
「クレマン叔父様。移転後の規模はどれくらいになるのでしょう」
「工房の規模は二倍まではいかないくらいかな。でもかなり大きくはなる。カフェ併設店にする計画なんだ。ティズリーのケーキは店舗で焼いて毎日転移で届ける計画だよ。あと、あの工房は夫人も職人なんだ。だから規模を大きくするならメニューも増やそうという話になってる」
「なるほど。移転先はこのお近くですか?」
「いや、距離は少しあるんだ。通えなくはないんだけどね。だから今の工房の奥に転移陣か転移箱を置いて、通勤手段と輸送手段として使うことにしてる。あそこは馴染みのお客様も多いから、販売機能だけは残す予定だ」
「そうなのですね。教えてくださりありがとうございます。わたくしたちにできることがあればお手伝いさせてくださいませ」
「もちろんだ。たくさん宣伝してもらうよ」




