第五十三話 反撃
薬が抜けるまでの間、楚乃芽は信じられないぐらいの痴態を晒していた。
もし、あれが根取の前だったらと思うと、背筋がぞっとする。
抵抗の一つも出来ずに身体を許していたかもしれない。
それを想像するだけで、僕の心が壊れそうだ。
病院に運ばれ、そのまま楚乃芽は一晩入院することになった。
それぐらいに症状が酷かったのだけど、今は静かに眠っている。
検査の結果、数値も異常なし、いつでも退院できるとのことだ。
一番心配していた覚せい剤の可能性も無いとのこと。
今は、彼女の目が覚めるのを、ただ静かに待っていればいい。
「……ん」
しばらくすると、楚乃芽は可愛らしい声とともに瞼を開けた。
「……あれ、大樹?」
「うん、おはよう」
「おはよう……え? あれ? 私、ん? ここって沖縄、だよね?」
「そうだね、沖縄の病院だよ」
「病院……え、待って、全然分からない、何があったの」
身体を起こすも、楚乃芽は両手で頭を覆い始める。
「楚乃芽、昨日のこと、覚えてる?」
「昨日のこと? えっと……確か、ホテルに泊まれなくて、あちこち回ってどこかの酒場に入って、それで……」
「それで、根取に薬を飲まされたんだよ」
「薬……あ、思い出してきた」
「でも、その成分とかが全然楚乃芽の身体に残ってないみたいなんだ。だから、薬と言っても本当かどうかは分からない。でも、それぐらいなまでに、昨日の楚乃芽は別人だったよ」
「別人って……どういう?」
「知らない方が良い」
「えー……」
「でも、知っているのは僕と看護師さんだけだから」
「……うぅ、それって全然良くないよ」
布団をかぶって顔を隠す。
とても可愛らしい仕草に、頬が緩む。
「でもさ」
「ん?」
「ここに大樹がいるってことは……助けにきてくれたって、こと?」
「……うん」
「えへへ……ありがとう、ちょー嬉しいかも」
僕一人じゃ、何も出来なかった。
情報を流してくれた古木さんに砂渡さん、それと。
僕の背中を後押ししてくれた、天音のおかげだ。
「ねぇ、楚乃芽」
「……?」
「僕、ずっと考えてたんだけどさ」
「うん」
「もう、僕達結婚しない?」
「え? うん、する。……え?」
可愛い楚乃芽は、突然のプロポーズにも呆けた顔のままで返事をしてくれた。
でも、その意味を理解し始めると、またしても両手を頭に持っていくんだ。
「でもそれって、お父さんの承諾が必要になるんだよね?」
「別に、父親の承諾が絶対って訳じゃないさ」
「そうだとしても、お父さんを無視して結婚なんて出来ないよ」
壮志郎さんと楚乃芽は父子家庭だから。
そう思ってしまうのが当然なのだけれども。
「壮志郎さんが僕と楚乃芽の結婚を認めることはないと思うよ。だって壮志郎さんは、根取との婚約を認めていたみたいだからね」
昨日、根取が言っていた言葉。
壮志郎さんは根取にも、楚乃芽との婚約を認めていた。
それが意味することは、悔しいけど、根取の言う通りなのだろう。
僕よりも、根取の方が、楚乃芽を幸せに出来る。
「……うそ」
楚乃芽は信じられないみたいだけど。
僕は、あの人の本性を知っているから。
だから、ああ、そうなんだろうなって、心のどこかで納得できてしまうんだ。
「じゃあ、なおのこと結婚なんて」
「だからさ、会社、辞めちゃおうかなって」
「……辞める?」
「退職してしまえば、壮志郎さんの影響なんて及ばなくなるでしょ? まぁ、ちょっとムカつくから、しっかりとやることやってから退職するつもりだけどね」
人間、こうと決めてしまえば、思っていた以上に前向きになれるものだ。
楚乃芽をこんな目に合わせた、根取だけは許しておけないけど。
「大樹が決めたのなら、私は付いていくだけだよ」
「ありがとう……じゃあ、そろそろ行く?」
「うん。あ、でもその前に、ちょっとだけいいかな?」
「いいけど、どこか行きたい場所でもあるの?」
「地主さんたちに勘違いさせたままだから、しっかりと訂正しておこうかなって」
聞けば、地主さんたちにまで、根取は嘘を付いていたらしい。
将来の伴侶として楚乃芽を紹介していたというのだから、悪質極まりない話だ。
十年後にはショッピングモールが立つとは思えないほどにのどかな風景は、僕の故郷を思い出させる何かを感じさせた。そこに建つ平屋の一軒家、入り口の所にシーサーが飾ってあるところが、なんとも沖縄らしい。その家の主人の下へと向かうと、さっそく僕達は説明を始めた。
「あんれぇ、じゃあ、根取さんは全然違うってことかい?」
「はい、僕が彼女の婚約者です。神山大樹と申します」
「なるほどねぇ……ああ、でも、なんか分かるわなぁ」
地主のおじいさん、僕と楚乃芽を見て、しわくちゃな顔をもっとしわくちゃにさせた。
「綺月さんの笑顔が昨日と全然違うもんなぁ。こりゃ幸せになる女の笑顔だぁ。うんうん、お幸せになぁ」
こんなことを言われ、楚乃芽の頬がりんごのように真っ赤に染まる。
ぴっと背筋を伸ばすと、楚乃芽は大げさにお辞儀をした。
「ありがとうございます、他の人達にも、宜しく言っておいて下さい」
「あいよぉ、あんた等ならいつでも遊びに来てくれてかまわねぇからなぁ」
お辞儀をし、地主さんたちと別れようとした、その時。
「あの、すいません」
僕達と同年代ぐらいの女性から、呼び止められることに。
「昨日いた根取さんは、今はいないのでしょうか?」
「……はい、根取とは別行動を取っておりますので」
「そうですか、良かった。あの、ちょっとご相談したいことがあるのですが」
眉をハの字にしながら胸の前で手を握る。
不安気な仕草を取る彼女から明かされたこと。
それは、彼のやらかしに、他ならなかった。
彼女との相談事を済ませ、僕達はその足で飛行機へと乗り込んだ。
新婚旅行のように手を繋ぎながら、二人して目を瞑る。
幸せな時間、それは二時間もすると、あっという間に終わってしまった。
「このまま会社に行くの?」
「うん、善は急げって言うでしょ?」
鉄は熱いうちに打てとも言うし、早いに越したことは無い。
今日は金曜日だし、土日をまたぐと根取が逃げるかもしれない。
今なら本来出張のはずだから、根取はまだ沖縄にいるはずなんだ。
「おろ? 神山君に綺月係長? どうして出社を?」
出社するなり、ビルのエントランスにて古木さんと出くわした。
手にジュースやお菓子を持っている辺り、これから三階の給湯室へと向かうのだろう。
「古木さん、今日って用地部の部長さん、いるかな?」
「おりますけど……でも、根取課長もいますよ?」
「え、いるの?」
「はぁ、理由は知らないっすけどね」
アイツが一足先に戻った理由。
思いつくのは、たったひとつだ。
楚乃芽の用地部への異動。
確固たる理由を得たのだから、喜び勇んで申請しているに違いない。
「失礼します」
フロアが違う用地部へと、楚乃芽と二人で向かう。
沢山の人が出入りしているんだ、僕達が入ったところで、注目を浴びることもない。
「あ……、綺月係長と、神山君」
カウンター近くに座るワンレングスの女性、おそらく彼女が砂渡さんかな。
「砂渡さん、いろいろとありがとうね」
「い? いや、私は別に……というか、今はちょっとヤバイかもよ?」
「ヤバイ?」
「今まさに、そこで根取課長が綺月係長に関する話を部長にしてるんだけど」
見れば、フロアに入ってきた僕達のことを、向こうも気づいたみたいだ。
それを契機に、フロアの注目が僕達へと集まる。
「おや、ウチの砂渡君を、今度は誘っているのかな?」
口を三日月に歪ませて、勝者のごとく歩み寄る。
彼は僕の目の前までくると、ようやく足を止めた。
威圧でもしているつもりか、別に、全然効かないけど。
「まったく、お盛んなことだ。昨晩も一体どこで何をしていたのやら。丁度今、ウチの部長を通じて査問会議にでも掛けようかと思っていたところでね。業務をほっぽりだし出張を無断で取りやめた綺月係長に、同じく無断欠勤の神山大樹君をね」
「……僕は有給のはずですが」
「有休申請は一週間前、最低でも所属長のハンコが必要なんだよ。残念なことに石田課長は押印していないそうだ。よって、お前は無断欠勤により懲罰を受ける可能性がある。まったく、手続きはちゃんとしないとダメだぞ? まぁ綺月係長に関しては、俺の方でしっかりと再教育することになるだろうから、同じミスは起こさないと思うがな」
クックックッと、肩を揺らしながら笑う。
周囲の視線も、僕たちへと向けられた憐みの視線ばかりだ。
(……)
頭の中を整理する、壮志郎さんが設けている独特の間の意味を、今になって理解した。
拳を握る、大丈夫、僕には味方が沢山いるんだ。
「根取課長」
「何かな? 平社員の神山君」
「貴方、近々訴えられるみたいですね?」
僕の言葉に、根取だけじゃなく、周囲の人達も動きを止めた。
「……急に何を」
「地主の娘さん、ご存じでしょうか?」
「娘? ……そんなの、これまで一度も見たことがないが」
「ええ、そうでしょうね。貴方に薬物を飲まされ、強引に乱暴され、その恐怖から貴方と会うことを恐れてしまったのですからね。彼女はすでに、警察へと被害届を提出されましたよ」
目に見えて、根取の表情が変わった。
「またそんな、デタラメを」
「根取課長、私も、彼女と共に警察へと行き、被害届を提出してきました」
「綺月係長……」
「昨晩どこに行っていたのかと聞きましたよね? 答えは病院です。お陰様でしっかりと記録を残すことが出来ました。昨晩、犯罪者を見るような目で見ないで欲しいとおっしゃっておりましたが、どうやら無理なようですね。私には、貴方が犯罪者にしか見えません」
嘘は言っていない、薬物反応が無かった、という記録が残されているだけだ、
でも、今の根取を追い詰めるには充分すぎる程の脅し文句だ。
「根取課長、失礼ですが、着用しているスーツが昨日と同じままですね?」
「……何が言いたい」
「いえ、まだご帰宅されていない様子ですので、鞄の中に薬物があるのではないかと思うのですが? 宜しければ手荷物検査をさせて頂ければと思うのですが」
記録が残らない以上、現物が欲しい。
言うと、根取は一瞬の間を開けた後、視線を自分の席へと向けた。
机の上にはセカンドバッグが一個、丁寧に置かれてある。
あの中に、薬が――――
「はい取ったー!」
その場の雰囲気にそぐわない陽気な声と共に、彼のバッグが掲げられる。
「砂渡君、一体何を」
根取課長のバッグを手にしたのは、誰でもない砂渡さんだった。
カウンターにいたはずなのに、一体いつの間に。
「丁度いいじゃないですか、中身を見せれば全部解決ですよね? むしろこれは二人を追い詰める最高のシチュエーションだと思いません? こんな下らない疑いをパパっと払いのけて、綺月係長をウチに異動させればいいんですよ!」
「ちょ、ちょっと待ってくれ、それは」
「はい、じゃあ開けますからね!」
「待て! 待ってくれ!」
「それー!」
セカンドバッグを全開にすると、砂渡さんは中身を盛大にぶちまけた。
財布や手帳、ハンカチや名刺入れ、一見すると特に問題は無さそうだけど。
パサっと、錠剤が入った透明な袋がひとつだけ、テーブルに落ちる。
砂渡さんはそれを手にし、楽し気に口角を釣り上げた。
「これ、なんですかねぇ?」
「そ、それは、酔い止めだよ、酔い止め」
「へぇ……じゃあ、これを警察に提出すれば、全部解決って訳ですよね?」
「――――、砂渡、お前」
拳を強く握りながら、根取が砂渡さんへと歩み寄る。
「すみませぇん、私さ、お前のことずっと嫌いだったんだよねぇ」
「それは初耳だ……嫌いで構わん、それを寄越せ」
「嫌です。絶対に渡しません」
「この……クソ女が!」
握った拳を、根取は砂渡さんへと向ける。
根取に殴られたらケガじゃ済まない。
止めないと――――
「そこまでだ」
弓なりに引かれた腕を、用地部の部長さんが掴んだ。
年配だけど、体格は根取以上の部長が抑えると、根取は身動きが出来ず。
「全て私が責任を持って対応する。綺月係長も砂渡君も、ここは一旦抑えて欲しい」
職場での暴力事件は、警察が問答無用で介入する。
部長としては、それだけは避けたかったのだろう。
ただ、既に根取が逮捕される時点で、捜査のメスは絶対だ。
今後会社が受けるダメージは、僕の想像を遥かに超える事になるのだと思う。
「警察入ったら、業務改善命令、入札指名停止措置ってところっすかねぇ」
「安全配慮義務違反、再発防止策、しばらくは本業そっちのけだろうね」
「根取は逮捕、不同意性交等罪ってところっすかね。えっと、懲役何年かな……スマートフォンで検索……うはっ、懲役五年から二十年、ざまぁ」
用地部のフロアから離れた僕達は、三階の給湯室に一旦身をひそめることにした。
本来休みだし、自分の机に戻るのも憚られる以上、ここが一番休める。
「にしても砂渡っち、なかなか凄かったっすねぇ」
「当然、だってアイツのせいで私の仕事どんだけ増えてたと思ってんの? 何か知らないけど勝手に味方扱いされてさ、ほんっとウザかったんだから」
お茶を片手にケラケラと笑う。
ここに古木さんが入り浸るのも、なんか分かるかも。
「にしても、お二人さんはまだ帰らないんっすか? 今日はお休みですよね?」
古木さんの質問に、楚乃芽と目を合わせる。
どうしようか? と目で話しかけると、無言のまま彼女は微笑む。
隠す必要もない、ここには味方しかいないのだから。
「実はね、僕達、会社を辞めようと思ってるんだ」
「……、え、マジっすか?」
「うん、今ここにいるのはね、一番大事な人と、これから会う為なんだよ」
「一番大事な人って……まさか」
普通なら、直属の上司が一番適当なのだと思う。
でも、楚乃芽の場合は違うから。
「綺月専務っすか」
「正解」
終わりにする。
楚乃芽を縛る、一番の束縛を。
最終話『間違った幸せ』
明日の朝、投稿いたします。
なお、最終話投稿後、一時間後にエピローグ『メンヘラ彼女との出会い方』も投稿予定です。
最後までお付き合いのほど、宜しくお願いいたします。




