第五十二話 彼女がくれた警告
楚乃芽がいなくなった後の部屋を、とても広く感じた。
ずっと一緒にいるのが当たり前なのに、いないことが不自然だと思える。
この感覚は、天音がいなくなったあの夏の日と似ていた。
焦燥感に苛まれる。
動かなきゃいけないんだという何かが、ずっと、頭の中から離れない。
「今動かなきゃ、絶対後悔するよ」
突然聞こえた声に、僕は反応する。
でも、当然だけど、この部屋には僕しかいないんだ。
幻聴かもしれない。
誰もいない部屋のはずなのに、彼女の声が聞こえてきた。
それが何を意味するのか。
(羽田から沖縄……チケット、ほとんどないのか。あ、でも、最終便だけまだ残ってる)
最終便で向かったところで、一体何が出来るのか。
いや、そもそも僕が行く意味なんてあるのだろうか。
(でも、さっきの声)
間違いのない声、それはつまり、彼女がくれた警告なんだ。
「明日休みたい? 有休を使うってことか?」
「はい、急で申し訳ありません」
「……いや、別に構わんぞ。何なら残り全部使っても構わんしな」
お前なんかいてもいなくても変わらないんだからな。
そんな心の声が聞こえてくるけど、今はそれでも構わない。
石田課長へと頭を下げて、さっそく溜まっていた仕事に取り掛かる。
「ホテルは……うわ、空いてるの五つ星ホテルだけか」
「あー、明日ジョニーズの再結集コンサートやる日ですもんね」
「え、古木さん」
「なんっすか? 急に沖縄とか行くんっすか?」
ショートの髪をかき上げながら、猫みたいな目を僕へと向けてくる。
彼女は味方だ、だから、包み隠さず真実を伝える。
「うん」
「それって、コレ関係っすか?」
古木さん、小指をピンって立てた。
「ちょっと、会いたくなってね」
「たはー、なんっすかそれ、デレデレのマシマシじゃないっすか。まぁ、そんな感じの方が神山君も楽しそうでいいっすけどね。ああそうだ、もし本当に今日の夜から行くのなら、コンサート行けなくなった友達がいますから、その子のキャンセルホテルでも回してあげましょうか?」
「え、本当?」
「ただし、今度また一緒に飲みに行きましょう。それが条件っす」
「あ、ありがとう、助かるよ」
「いえいえ、アタシに出来ることなんて、これぐらいしかないっすからね」
もしかしてキャンセルホテルって、古木さんのなんじゃ。
いや、さすがにそれは無いか、彼女の友人関係は広そうだからな。
★
「はぁ……まぁ、再結集したところですぐに解散だろうし、別にいっかぁ。あーあ、アタシも恋したいっすなぁ。……あ、二人部屋だって知ったら、さすがに勘ぐるっすかね? んー……まぁ、その時はその時で、またネタにすればいいっすか。さってと、今日の夜はやけ酒でも飲みに行くとするっすかねぇ!」
★
羽田空港を二十時丁度に出る飛行機に乗り込んだところで、到着は二十二時三十分。
飛行機に乗っている間はスマートフォンも使えないし、格安便だからWi-Fiも入っていない。
完全に何も出来ないならばと、目を閉じ背もたれに体を預ける。
(そういえば……昔もこんなことあったっけ)
楚乃芽を驚かそうとして、一人新幹線に飛び乗ったんだ。
結果、僕は渡会を彼女の恋人を勘違いし、その場から逃げ去ってしまった。
また同じようなことがあったとしても、もう、逃げたりはしない。
楚乃芽が僕を裏切るようなことは、決してないのだから。
空港に到着したあと、楚乃芽からの不在着信がいくつも入ってきた。
さっそく掛けてみようかと思ったところで、古木さんからの着信が入る。
「あ、空港着きました?」
「うん、どうしたの?」
「ちょっとヤバイっす、砂渡さんが教えてくれたんっすけど、今日のホテル、根取課長一人分しか予約してないらしいんっすよ」
「根取課長一人分? 楚乃芽の分は?」
「それが、ツインを一部屋しか予約してないみたいで、係長の分は予約してないらしいっす」
「……それで、今、ホテルに二人でいるってこと?」
「それを心配して、アタシの方から電話してみたんっすよ。会社経由じゃないと個人情報教えて貰えないと思いまして。それで聞いたんですけど、どうやら係長は宿泊を拒否、それを追いかけて根取課長もどこかに行ったみたいなんっすよね」
「どこかって、どこ」
「さすがにそこまでは……ただ、昼間伝えた通り、明日物凄いライブがあすんっすよね。なので、カラオケとか漫画喫茶、ホテル民宿は多分全部満席になってると思うんっすよ。空いてるとしたら朝までやってる居酒屋がありますんで、可能性だけで言うならそこかと」
「ありがとう、そのお店の名前は?」
「生涯酒場っすね、他にも何かあったら連絡しますから」
「本当にありがとう、感謝する」
すぐさまタクシーを拾って、生涯酒場へと向かう。
途中何度も楚乃芽へと連絡を取ろうとしても、全然繋がらない。
空港から四キロ、わずか八分の道のりなんだけど、とても長く感じた。
そして見つけたんだ、根取課長に抱きかかえられた、僕の楚乃芽を。
「ちょっと待って下さい」
肩を掴むと、根取課長は信じられないほどの目で、僕を睨みつけてきた。
「彼女、僕の恋人なんです。離してもらえませんか」
でも、だからといって逃げない。
いや、この世の中、恋人を見捨てて逃げる男なんてどこにるよ。
「君は……」
「事業企画課の神山です」
「……ああ、僅かにだが見覚えがあるね。そうか、君が彼女の」
「はい、恋人です。僕と彼女は同棲もしていますから」
根取課長は抱いたままの楚乃芽を見て、そのまま目を閉じた。
楚乃芽、酔っぱらっているのか? でもなんだか、普段と違う気がする。
「ひとつ聞くが、同棲していることを、専務は承知なのかな?」
「はい、専務との付き合いは、もう十年以上になります」
「そうか、ならばなぜ、専務は俺にもチャンスを与えてくれたのだろうね?」
壮志郎さんがチャンスを与えた?
「今回の件、俺も専務へと直に話をし、そして綺月さんとの婚約を了承してくれている。それが何を意味しているか、君でも分かるだろう? つまり、君は見限られたという意味さ。ちなみになんだが、君の役職は?」
「……何も、与えられていません」
「だろうよ。それが全ての答えなんじゃないのかな? 君じゃあ彼女を幸せに出来ない、俺なら出来る、とてもシンプルで分かりやすい答えだ。さて、先の質問に答えてやろうか、彼女を離してもらえませんか、答えはNOだ。これから二人でホテルに行くんだ、むしろ、邪魔をしないでもらえないかな?」
僕の手を振り払うと、根取はそのままタクシーへと楚乃芽を座らせた。
そのまま乗り込もうとする根取の肩を、僕はもう一度掴む。
「……何かな?」
「楚乃芽を返して下さい」
「だから、君もしつこいねぇ」
「しつこくて当然です、僕は彼女の恋人であり婚約者なんですから」
「ったく……ああ、そうだ、これ、返しておくよ」
根取が放り捨てたもの。
それは、楚乃芽の右手の薬指にあったはずの、指輪だった。
「彼女に似合うのは、もっと彼女を輝かせる指輪だ。そんな安物じゃない」
ぷつんっと、何かがキレた。
冷静になれない、僕と彼女の間には、どうしてこうも邪魔が入る。
「……いい加減にしてもらえませんか」
「いい加減にするのはどっちだ」
「僕にはもう、楚乃芽を諦める選択肢なんて存在しないんですよ。彼女を失うのなら、このまま死んだ方がマシだ」
殴りたきゃ殴ればいい、そのまま僕を殺せばいい。
僕がここから引くなんてあり得ない、絶対にだ。
しばらくにらみ合うと。
根取は視線を逸らし、舌打ちをした。
「……ちっ、魂胆見え見えなんだよな」
「……?」
「どうせ、先に殴らせて正当防衛だ、とかいうんだろう? 分かったよ、今回は俺が引くさ。ただ、君が諦めないのと同じで、俺も諦めないからな? 互いに同じ会社にいる、それに君たちは恋人関係のようだからね、異動の理由には充分だろうさ」
根取は立ち上がると、そのまま夜の街へと消えた。
後を追う必要はない、それよりも今は楚乃芽だ。
「楚乃芽、大丈夫?」
「……っ、ううっ、近寄らないで、大樹、やだ、大樹がいいよ」
「楚乃芽、僕だよ、安心して、僕がいるよ」
「い……っ、はぁ、はぁ、うううっ」
やっぱり、何か変だ。
いつもの楚乃芽じゃない。
「あー、その子、LP飲んじゃってるかもしれないね」
突然、タクシーの運転手が話しかけてきた。
「LPって、なんですか?」
「ラブポーションの略、媚薬の隠語、最近なんかヤバイのが流通してるって聞いてるけど、多分それじゃないかな。本来、兵士が戦争に向かう時に飲む薬らしいんだよね。ほら、命を捨てて戦わないといけないから、自分を無理に興奮させるんだって。でも、日本もあちらさんも、最近大きな戦争は起きてないからね。それで、薬を若い子に売って金にしてるとか」
戦争の時に使う薬?
「それってまさか、覚せい剤なんじゃ」
「さぁ、どうだろうね? でも、覚せい剤にも似てるのかもしれないよね」
「と、とりあえず病院に向かってください! 今すぐ診せないと!」
次話『反撃』
明日の朝、投稿いたします。




