第四十八話 猜疑心
「あ、深夜残業のアナウンスが流れてるっすね、じゃあ今日はここまで! さっそく夜の街に繰り出すとしますか!」
古木さん、景気の良い感じで言ってくれているけれど。
今日の残業は完全に僕が原因なんだよな。
飲み代にホテル代、社会人三年目の僕達にはそれだってかなりの痛手だ。
ましてや同僚とはいえ、女の子を夜中に連れ出すのも正直どうかと思う。
楚乃芽の悲しむ顔が目に浮かぶ。
それだけは、絶対にさせてはいけない。
(……よし)
前に読んだ本に書いてあった、秘密の共有は、相手との関係をより向上させるという。
同期の古木さんとの関係は、同僚であり良き理解者になってくれる可能性が高い。
というか、味方に引き込みたい。
狭い人間関係だと以前みたいに失敗する可能性があるのだから、出来る限り広くしないと。
「古木さん、飲みの件なんだけど」
「ん? どうしたっすか? どこか行きつけのお店とかあったりします?」
「いや、その場に一人追加したい人がいるんだけど、いいかな?」
「追加? 別にいいっすけど」
きょとんとした彼女を他所に、僕はスマートフォンを取り出し、通話をタップした。
一時間後。
「え!? なんでここに綺月係長が来るんっすか!?」
夜中の十一時、ニギニギとした居酒屋に姿を現した楚乃芽は、古木さんへと会釈をし、そして当然の如く僕の隣に座った。かんざしでまとめた髪を見るに、既にお風呂は済ませていたみたい。服装も私服、それもかなり緩いタイプの家着レベルの私服だ。
「ちょ、ちょちょ、え、待って下さい、理解が追いつかないっす」
「見たまま、そのままで理解していいと思うよ」
「というと、お二人は」
楚乃芽を見ると、彼女も微笑み、こくりと頷いた。
「僕達もう、結婚を前提に同棲しているんだ」
「同棲……マジっすか」
「うん、マジっすだね」
とりあえず、目の前にあるビールを一口。美味し。
「急にお邪魔しちゃってごめんなさい、というか、言ってくれたら私もお手伝いしにきたのに」
「壮志郎さんとの約束だからね、社内では秘密にしておかないと」
「そうだけど……あ、それよりも古木さん、大樹から聞いたのですが」
「名前呼び……あ、すんません、どうぞ」
「私と根取課長が付き合っているという噂、どこから流れてきたのですか?」
モツ煮のお肉美味しい。
七味山盛り、うは、最高だ。
「あ、あの、その噂は」
「どこから流れてきたのですか?」
「えっと、どこからと言うと、長くなるのですが」
「はい、大丈夫です。どこから流れてきたのですか?」
もぐもぐもぐもぐ。
「……っ、休憩の時に、女子の集まりがあるんっすけど、その場で人事企画の姫野さんが、あれ、絶対付き合ってるっしょ! って言ってまして、はい。それ以外にも、納涼会の時に根取課長本人が、独身貴族を卒業出来そうだ、って言っているのを、用地部の砂渡さんが聞いたと言っておりまして、はい」
「そうですか、人事企画の姫野さんと、用地部の砂渡さんですね。それと、女子の集まりに参加しているメンバー全員の名前をお願いします」
焼き鳥は皮が一番美味しいけど、食べ過ぎると体に良くないんだよなぁ。
「ちょ、ちょっと待って欲しいっす!」
「なにか?」
「もしかしてこれ、全員に何かしらの処罰とかあったりしないっすよね!? 他愛のない世間話をしてただけで、別に誰も真偽なんか気にしてないんっすけど! ただ単に、その場で話題がなかったからしていただけの完全なる女子トークなんっすけど!」
古木さん、必死だな。
楚乃芽、専務の娘だもんね、必死にもなるか。
お口直しにビールを飲んでと。
「古木さん」
「神山君!」
「その噂話だけで、人は死ぬんだよ」
「え」
にぎにぎとした居酒屋の中で、僕は古木さんに言った。
噂話、単なる話題、そこから生まれるは、誤解と勘違いだ。
それらはいつか真偽を問わず人の耳に入り、聞いた者はそれを真実だと認識する。
そして語るんだ、虚偽かどうかも疑わずに、得意げに、ひけらかすように。
「古木さん、私達はね、誤解と猜疑心のせいで、過去に大事な人を亡くしているの」
「え、そうだったんっすか」
「彼女のことを考えると、私達は幸せになっていいのか、今だって悩むことがあるくらいなの。でも、それでも私達は一緒になりたいと思う。だけど、ちょっとした壁があってね、今も躓いている状態なんだけど……その状態でこんな噂話を流されちゃうと、私としても彼としても、やっぱり面白くないの。かき回されたくないって感情、分かるよね?」
「ま、まぁ……そうっすね。アタシも昔彼氏がいて、違う男との噂話を流された時は、それで喧嘩したりもしましたし、かき回されたくないって感情、理解出来るっす」
しんみりとした空気の中、僕はビール瓶を手にし、古木さんへと向けた。
「それに、聞いただけで、別に処罰なんかしないよ。そんな権限ある訳ないじゃないか」
「ま、まぁ、そうなんっすけどね。でも、綺月係長は専務の娘さんっすから、可能性はゼロじゃないような」
僕からのお酌を受け取ると、古木さんは小声で何か言いながら、ちびちびと飲み始める。
「私がいけないのかな、一応、距離は取ってるつもりなんだけど」
「あ、多分アレっす、妬みとか僻みも混ざってるって思うっす」
「……そうなの?」
「係長、同期でも一番に出世してるじゃないっすか。親の七光りとかご令嬢とか、結構裏ではいろいろと言われてるっすからね。この際だから全部教えましょうか? ただし、処罰は無しでっていうのが条件っすけどね」
古木さんの申し出に、楚乃芽は快諾する。
そしていろいろと聞いた後、僕達は古木さんと別れたんだ。
「私、ちょっとショックかも」
近くにあったラブホテルの一室、楚乃芽はバスタブ内で膝を抱えながら呟く。
七色に発光するお風呂のせいで、悲壮感は漂ってはいない。
泡風呂の薬剤を投入し、ジャグジーを起動する。
あっという間に泡だらけになったものの、楚乃芽は静かなままだ。
「人気者の定め、って奴かな」
「枕営業とか、する訳ないじゃん」
「してたらショックで、間違いなく僕は死んじゃうだろうね」
言うと、僕に背を預けながら座っていた楚乃芽が振り向き、チュッとキスをした。
そして元に戻ると、彼女は僕の手を握り、乳房へと持っていく。
さわれ、ということだろう。
なので、気兼ねなくさわることに。
「私たちさ、それが当然だと思って、今の会社を選んだじゃない?」
「……まぁ、そうだね。壮志郎さんもいるし」
「それってもしかして間違いだったのかなって、最近思うんだよね」
両手いっぱいに泡を掬うと、楚乃芽はそれを頭に乗っけた。
「どうあがいてもお父さんの影響を受けちゃうし。多分だけど、それを良しとしないで、瑠香ちゃんは別の会社に転職したと思うんだよね。私達もそうすべきなのかなって」
「でもそれだと、壮志郎さんの期待を裏切るってことにならないかな?」
「そうかもだけど。でも、今日だって石田課長が大樹に怒ってたでしょ?」
「あれはまぁ、僕が悪いというか」
「大樹がどれだけ悪かろうが、皆がいる前で言うことじゃないよ。あれはパワハラ認定されてもおかしくないやり方だと私は感じたし、すぐに石田課長にもメール送ったからね」
「え、送ったの?」
「うん、指導方法改善要求を出したよ」
さすがは楚乃芽というか、対応が早いな。
「そこら辺もさ、お父さんが中途半端に大樹を優遇するからだと思うんだよね。会議に出席させる割には出世させないし、かと言って怒られている時には助け船のひとつも出さないし。大樹が過去にどれだけ大変だったのか、お父さんだって分かってるはずなのに」
言いながら、楚乃芽は一人立ち上がる。
泡だらけのお風呂から立ち上がると、彼女の綺麗な背中が目に飛び込んできた。
楚乃芽が着ればどんな服も見栄えするけど、微量の泡だけの彼女は、また各段に美しい。
(見惚れちゃうな……)
もう数えきれないほどに彼女の裸を見ているけど、それでも視線を外すことが出来ない。
根取課長がどういう目で楚乃芽を見ているのかは知らないけど。
多分、思っていることは一緒だ。
「大樹」
差し出された手を握り返すと、彼女に引っ張られて僕も立ち上がる。
裸のまま抱きしめると、彼女は俯き、そのまま僕の胸に顔を沈めた。
「辞めちゃうおうかな、会社」
「……さすがにそれは性急すぎるよ」
「だって、大樹が可哀想だよ」
いつだってそう。
楚乃芽は僕を一番に考えてくれている。
「ありがとう、楚乃芽」
彼女のことを微塵でも疑ってしまった自分が、ちょっと情けなく感じる。
本当に信じていれば、何も思うはずがないのに。
「さてと、愚痴はこれぐらいにして」
「そろそろお風呂出て、寝る?」
「うん。でもまだ十二時ぐらいでしょ? だからさ、大樹」
浴室を出て、楚乃芽は大きなバスタオルで僕を包み込んでくれた。
「せっかくのラブホテルなんだから、一回くらい楽しもうよ」
恥ずかし気に微笑む彼女が、やっぱりとても可愛くて。
EDだったのが嘘みたいに元気になった僕は。
一回と言わず、二度三度と、楽しんでしまうのであった。
後日。
「神山君、ちょっといいっすか?」
「いいけど、どこに行くの?」
「先日お話した女子のたまり場っす。どうやら根取課長の相手、綺月係長で間違いないみたいっすよ。ただ、一方的な片思い、ってやつみたいなんっすけどね」
次話『彼女こそが、俺の嫁にふさわしい』
明日の昼頃、投稿いたします。




