第四十二話 メンヘラ彼女との別れ方。
天音が入院している病院は、地元の駅から車で一時間ほど要する僻地に存在していた。
精神病院の中でも特に症状が酷い人が入院すると言われている、閉鎖病棟。
その病棟の一室に、天音は入院している。
「面会の前に、持ち物をこちらに預けるよう、宜しくお願いします」
記憶にはあまり残っていないのだけど、僕が入院した時にも同じようなことをしたらしい。
電子機器の持ち込みは禁止、他人に危害を加えられそうな物も持ち込み禁止、更には患者の容態が悪化するような人物においても、医師から面会を拒否されることもある。
「え、私、入れないんですか」
同行してきた楚乃芽だったけど、受付で待ったをかけられてしまった。
まさに、医師からの拒否なのだから、無理を言っても仕方がない。
「わかりました……大樹、気を付けてね」
「大丈夫だよ、話をしに行くだけだからさ」
不安げに眉を寄せた楚乃芽の頭を、優しく撫でる。
それだけだと不満なのか、楚乃芽は僕の胸に顔を沈め、そのまましばらく目を閉じた。
「大樹の心臓の音、安定してる」
「うん、安心した?」
「安心した。じゃあ、ここで大人しく待ってるからね」
楚乃芽を待合室に残し、僕達は閉鎖病棟の中へと、歩みを進める。
先頭を歩く看護師さんが自動扉の前に立ち、カードを当てると扉が開いた。
閉鎖病棟と名前だけを聞くと、戦慄した何かを想像してしまうけど。
棟内はとても綺麗だし、飾りつけもしてあったりと、普通の病棟よりも清潔感が漂う、立派な病棟だと感じた。
ただ、時折聞こえてくる叫び声や、どこかの部屋から泣いている声は聞こえてくる。
一度精神を病んだ経験がある以上、この声には同情を禁じ得ないところだ。
「天音、入るよ」
加佐野天音と表札が書かれた部屋。
どうやら天音は、個室にて治療を受けているらしい。
いや、個室にせざるを得なかったのだろう。
「……」
そこで横たわっている天音は、僕の知っている天音ではなかった。
髪が抜け落ち、頭蓋の形が分かる程に痩せ細り、枯れ枝のような腕には数多の注射痕が残る。布団から出ている足の爪は栄養失調からか変色、変形し、指一歩一本の肌はカサつき、まるで骨格標本みたいだった。さすがに動揺する。一言で言えばミイラだったのだから。
(最後に会ったのが大学一年の夏だから、二年ちょっとか)
二年という時間は、決して短くはない。
それこそ、天音という人間が別人になってしまうには、充分すぎる時間だ。
「天音、大樹君、来てくれたよ」
母親が近づき声を掛けるも、天音の目は開かない。
眠っている、いや、生きていると分かるのは、彼女の胸が僅かに上下しているから。
とても浅い呼吸、いつ止まってもおかしくないくらいに、静か過ぎる。
「もう、この子ったら……大樹君、ごめんなさいね」
「いえ、大丈夫です。時間はありますし、もし今日がダメなら出直すだけですから」
天音の近くにあった丸椅子に座りこみ、天音の寝顔を眺める。
すっ…………すっ…………という鼻から聞こえる音だけが、彼女の生きている証拠だ。
点滴が刺さったままの腕、そこから延びる手に、そっと触れてみる。
中学生の頃に骨折した指は、あれから完治したのだろうか。
細い指に触れると、信じられないぐらいに冷たくて、血の流れを感じない。
力を入れたら折れてしまいそうな指に触れながら、僕は天音の目覚めを待った。
「窓が、ないんですね」
部屋を見て、ぽつり、言葉を漏らした。
「あったんだけど、頭を打ち付けちゃうから、封鎖してもらったの」
「飛び降り願望もあってね、外の景色は、天音にはもうダメなんだよ」
夫妻が沈痛な面持ちのまま、僕に教えてくれた。
他愛のない言葉だったのに、背景はとてつもなく重い。
それから一時間ほど経過するも、天音に変化はなかった。
その間、ずっと夫妻は立ち尽くしたまま。
じっと、僕と天音を見つめている。
「あの、良かったら、お二人も休んで下さい。ずっと立っているのも大変でしょうから」
声を掛けられると思っていなかったのか、二人は一瞬驚き、でも、素直に頷いた。
「そうかい? ……でも、そうだね。天音が目を覚ました時に私達がいない方が、きっと天音も話しやすい。母さん、行こうか、向こうに休憩室があったから、そこで大樹君を待とう」
お母さんの方は渋々といった感じだったけど。
それでも夫妻は寄り添いながら、部屋を後にした。
「天音」
二人きりになった後、僕は彼女の手を握り締める。
高校生の頃、天音と二人、手を繋ぎながらデートに行ったこともあった。
中学生の頃は、二人教室に残って、楚乃芽のお別れ会の会場を作ったりもした。
大学生になってからも、僕は彼女と手を繋ぎなら、僅かな間だけど一緒に生活もした。
「いろいろあったけど、思い起こせば、僕の記憶の中には、天音が沢山いるんだね」
そして、沢山泣かせてしまった。
最後には仕返しの如く泣かされてしまったけど、それだってもう過去のことだ。
騙されて、騙されて、騙されて。
何もかも信じられなくなった天音は、こうして今、生きる道を無くしてしまっている。
人生の目標、生きる意味、ただ、生きていることすら受け入れられない。
ここに至るまでの彼女の人生は、きっと、辛いだけのものだ。
そんな彼女に対し、別れを告げないといけない。
それが、どのような結果をもたらすのか。
「…………」
思案していると、ピクリと、彼女の指に反応があった。
わずかな揺れ、それを感じた僕は息を飲み、彼女の目覚めを待つ。
「…………」
うっすらと開く瞳。
淀んだ眼のまま、天音はどこでもない場所を見た後、顔を僕の方へと向けた。
「…………」
「天音、おはよう」
「…………?」
まだ、寝ぼけているのかな。
一緒の部屋で寝ていた時も、夢と現実を間違えていたものね。
目頭についた目ヤニを取ってあげると、天音はきゅっと、目をつむった。
「これで、綺麗になったね」
「…………ぁ……ゅ?」
口を開くも、乾燥し掠れていて、まともに声が出せていない。
夫妻が言っていた、天音は生きることを放棄し、飲み食いの一切をしなくなったと。
彼女が生きていられるのは、腕に刺さる点滴のおかげだ。
「うん、僕だよ。会いに来たんだ」
「…………」
茫然としたまま僕の方を見ながら、涙を一滴、頬に伝わせる。
繋がっている手、そこに若干の力が込められると、彼女は禿げた眉を寄せた。
「ぉ……ぇ、ぁぁ…………ぃ」
ごめんなさい、そう言っているのだろう。
「そうだね。天音が帰ってこなかったから、とても心配したんだよ?」
彼女はうんって、ゆっくりと頷く。
「でもこうして、やっと帰ってこれたね。お帰りなさい、天音」
手を繋ぎ、目を閉じる。
心を通わせて、意識をあの夏の日へ。
「ただいま……ごめんなさい、時間かかっちゃった」
1Kの部屋、ユニットバスとキッチンしかない部屋の玄関に、ワンピース姿で佇む。
あの日と同じ姿の天音が、申し訳なさげに頬を掻いた。
「いいよ、事情は聞いた。天音は騙されたんだから、しょうがないよ」
「しょうがなくないよ、私、バカなんだよ。高校生の頃だって、大樹が好きなのに緑谷の告白に動揺しちゃってさ。あの時だって、少し考えれば一番何が幸せなのか、絶対に分かってたはずなのに。本当バカなんだと思うよ。もっと大樹を信用していれば良かった」
裸足のままの天音は、そのまま部屋に入ると、ベッドで佇む僕の横に座った。
「大学の時だってそう、大樹と一緒に生活していたのだから、それだけで満足すべきだったんだよ。なのに私は、楚乃芽ちゃんに無駄なライバル心を抱いちゃったりしてさ。実はね、大学で大樹と再会した時に、すぐそばに楚乃芽ちゃんがいたの、私も気付いてたんだよ?」
「そうだったんだ、それは初耳かも」
「だって、言う必要なかったし。それに食堂でご飯食べた時も、あの二人は私達の前を歩いていたよね。アレで大樹がまだ楚乃芽ちゃんを好きなんだって、分かっちゃったんだけどさ。でも、それが分かったとて、あの男の誘いに乗るべきじゃなかったんだって、今なら分かるよ」
「誘われてなかったら、今も一緒にいたかな?」
愚問だったかな。
目を見開いて必要以上に顔を近づけながら、天音は自信ありげにこう言ったんだ。
「絶対に一緒にいた。だってあの時の大樹、私に完全に依存してたでしょ?」
「言われてみれば、そうかもね」
でしょ? と満足げに笑みを浮かべると、天音は距離を元に戻した。
「それなのに、私ったら楚乃芽ちゃんの彼氏を寝取るんだー! って、しかもそれを幸せだと勘違いしちゃってさ。あのまま大樹と一緒にいれば、もっとずっと幸せで、良い生活を送れていたと思うのにね。……そういえば大樹、身体、良くなった?」
膝を抱えながら、天音は顔だけを僕に向ける。
「お陰様で、酒の力も借りて、無事回復することが出来たよ」
「酒の力って、ふふっ、それだけじゃないでしょ?」
「うん、楚乃芽がずっと側にいてくれた」
「そっか。私が一緒にいて病気になって、楚乃芽ちゃんが一緒にいて治ったのなら、やっぱり原因は私だったんだろうね。なら、ちょっとは離れて正解って思えるのかも。ちょっぴり悔しいけどね」
「ちょっぴり?」
「心の底から悔しい」
「うん、素直の方がいいよ」
天音は僕のお腹にグリグリと拳を押し込むと、いたずらに微笑む。
押し込んだ後、その手を離して、ぽつりとつぶやいた。
「素直なのは、あまり良くないよ」
自分の衝動に任せた結果が今なのだから、確かにそうなのかも。
くてんと僕の肩に体を預けると、天音は僕の腕に触れる。
「今日、来てくれて嬉しかった」
天音はおそらく、もう理解しているんだ。
「ありがとうね、もう二度と、会えないと思ってたから」
僕が何を言うのか、何を伝えに、ここに来たのか。
「そろそろ行く?」
「そうだね、そろそろ、かな」
「じゃあ、ちゃんとお見送り、してあげるね」
僕が立ち上がると、天音も一緒にベッドから降りて、玄関へと向かった。
靴を履き振り返り、天音の姿をもう一度眺める。
「ん? どうしたの?」
「いや、昔はショートカットだったよなって、思ってさ」
「ああ、これ?」
天音は腰まで伸びた髪を手に取り、口元まで持ってくる。
「実はね、私、楚乃芽ちゃんの真似をしてたんだ」
「え、そうだったの?」
「気づかなかったでしょ? 大樹、一度も褒めてくれなかったからね。長い髪の手入れって結構大変だったんだよ? まぁ、それも今は全部なくなっちゃったんだけどさ」
突然、目の前にいた天音が、今の姿に戻る。
髪が抜け落ち栄養素が抜け、チリチリになった髪を、天音は手に取った。
「天音……今日、僕は」
「お別れを言いに来たんでしょ? いいよ、分かってるから。というか、言いに来なくても良かったのに。このまま私だけが大樹の物語からフェードアウトすれば、そのうち消えていなくなったのに。本当、馬鹿なんだから」
「馬鹿とか……天音」
「ん?」
「天音も一緒に」
「行かない」
ふわりと、綺麗な姿に戻ると、天音は笑みを浮かべた。
「私はね、この部屋が一番好きなの」
「でも、この部屋に残るのは」
「ダメだよ。生涯で唯一、大樹と相思相愛になれた部屋だから」
その笑みは、窓からの光をめいっぱいに浴びて、とても綺麗に輝いていて。
「ありがとう大樹、最後、本当に嬉しかったよ」
まるで、天使か女神のように見えた後、天音は光の中に姿を消した。
「……天音?」
呼吸が、止まっている。
繋いだ手から、何も感じない。
見れば、天音はたくさん涙を流していた。
なのに――――
「どうして……そんなに笑ってるんだよ」
震える手で天音を抱きしめながら、僕もその場で沢山泣いた。
最後の最後、天音は僕だけの為に、笑ってくれた。
あれだけ冷たくしたのに、彼女の愛に、僕はほとんど応えられなかったのに。
「天音、天音!」
「そんな、医者を早く!」
その後すぐに天音のご両親が部屋に入ってきて、彼女の名前を叫んでいたけど。
でも、もう二度と、天音はその目を開くことは無く。
もう二度と、笑うこともなかったんだ。
僕はもう、この部屋にはいられない。
だから、せめてもの言葉。
本当に、天音に送ろうとしていた言葉だけを、彼女に投げかける。
「……行ってきます、天音」
(行ってらっしゃい、気を付けてね)
どこからか聞こえてきた彼女の声に、僕は涙しながらも笑みを浮かべる。
互いを想いながら伝える言葉でも、お別れになると知った。
天音から教わったことは、きっと全部、掛け替えのないものだ。
だからきっと、僕の胸に、天音は生き続けるのだと思う。
「大樹……? え、天音ちゃん、どうしたの?」
「……」
「え、え!? 天音ちゃん、まさか!」
駆けだそうとした楚乃芽の手を掴み、強引に引き戻した。
「ダメだよ」
「だって、天音ちゃん!」
「ダメなんだ、僕達はもう、あの部屋に行ってはいけないんだ」
「そんな、そんな……死ぬなんて、そんなの、ないよ、そんなのってあんまりだよ!」
泣き叫ぶ楚乃芽を抱きしめながら、僕も滂沱の如く涙を流した。
天音の死、それが確実なものになったのは、それから三日後のことだった。
次話『惜別』
明日の昼頃、投稿いたします。




