第四十一話 僕の決断
意識はまだ、ハッキリと戻ってきた訳じゃない。
薬の副作用でもあると思うのだけど、感情がたまに、嘘みたいに消えてしまう。
ソファに座り、背もたれに頭を乗せて、天井を眺める。
完全なる無、音が消えて、思考も消える。
起きているのに眠っている、そんな感じだ。
「大樹、大丈夫?」
僕の変化に、楚乃芽はすぐに気づいてくれる。
消えた感情であっても、相手の喜怒哀楽には反応出来るんだ。
「大丈夫、楚乃芽、ありがとう」
「無理しないでね、大樹はとっても大変な状態だったんだから」
「ありがとう、無理はしてないよ」
不安げに寄り添う彼女は、昔から変わらず、ずっと綺麗なまま。
僕の胸に猫のように両手をつけながら、身体全部を僕に預ける。
その仕草だって魅力的で、たまらなく好きだ。
彼女の腰へと手を伸ばし引き寄せると。
そのまま倒れこむように、僕達の距離は縮む。
「わわっ……もう、急に抱きしめられたら驚いちゃうよ」
「ごめん、だって可愛かったから」
「もう……でも、嬉しい。ありがとうね」
柔らかい彼女の唇が僕のと重なると、消えていた音が頭の中に流れてきた。
空調の音、時計の針の音、彼女の呼吸、僕の心音。
灰色の世界に色がついた、まさにそんな感じだ。
様々な音が、あの時は全てノイズに聞こえていた。
耳を塞ぎたくなるほどのノイズ。
そんなノイズ混じりの世界の中で、次第に彼女の声だけが、優しく聞こえてくる。
不思議だった、そして知りたくなった。
僕を裏切ったはずの楚乃芽がなぜ、こんなにも尽くしてくれるのか。
「これまでのことを、教えて欲しい」
僕がお願いすると、楚乃芽は僕のことを心配しながらも、しっかりと説明を果たしてくれた。
彼女の性格なのだろうね。
A4用紙に書かれた相関図まで出てきた時は、僕も思わず笑ってしまった。
なぜ、あの時、彼は楚乃芽の恋人だと僕に伝えたのか。
その答えは、彼女が僕についた、とても優しい嘘だった。
「偽装彼氏?」
「うん。高校生の時、告白とかいっぱいされたって教えたでしょ? 相手の反感を買わないように断るのって、結構大変だったの。そういう面倒ごとから逃げられるならって、彼と約束して、偽装彼氏をお願いしていたの」
「そうだったんだ」
「もし疑うなら、当時の店長とか一緒に働いてたクルーとか、全員呼んで証言させてもいいからね? 私と彼とは、付き合っていた事実は一切ないから。もちろん、肉体関係もゼロだよ。彼とは大樹に教えた通り、ゲームだけの関係だったからね。昔は尊敬したりもしてたけど、今は何もない。お父さんからも縁を切れって言われてるからね、繋がりはゼロに等しいよ」
最初から疑うつもりはなかった。
楚乃芽の言葉に、嘘なんかあるはずがない。
「この瑠香ちゃんって子は?」
「その子は彼の妹でね。端的に説明すると、将来大樹の妹になる子だよ」
「その端的の部分に、物凄く情報が凝縮されている気がする」
「あはは、うん、その通り。じゃあ、最初から説明するね」
高校時代、渡会家は貧困の家庭であったこと。
楚乃芽が彼らの家に行き、ご飯を作っていたこと。
瑠香ちゃんへと、個人的にプレゼントを贈っていたこと。
そして事件の後、絶縁状態にあったこと。
「本当は、電話にも出たらダメだったんだと思う。後でお父さんに怒られたからね」
「でも、楚乃芽は瑠香ちゃんからの電話に出た」
「うん、彼女まっすぐな子だから。瑠香ちゃんとしても、私と連絡を取ることに抵抗があったはずなんだよね。それなのに連絡をしてきたってことは、大変な何かが起こったんだなって思って、それですぐに電話に出たの」
「その結果が、お母さんの件と」
「彼の逮捕だった。お母さんの件は驚いたけど、彼の件については特別驚かなかったかな。だって、したことがしたことだったし……ねぇ大樹、この話、本当にしても平気なの?」
この話題は、言葉にはしなかったけど、あの動画にも直結する話だ。
「うん、多分もう、僕の中で決着がついてるんだと思う」
不思議と、思い出したとしても、胸が苦しくなったりしない。
そんなことがあったね、程度にしか感じないんだ。
「でも、無理はしないでね」
「ありがとう、きっと、楚乃芽が側にいてくれているからだと思うよ」
「そうかな……ふふっ、そう言われると嬉しいかも」
隣に座り、指を一本一本絡めると、身体を近づけ、そのまま僕へと寄りかかる。
嘘のない言葉、偽りのない愛情に、喜びを覚えた。
休みの間、時間があったから、部屋で数冊の本を読んだ。
僕は、人の嘘を見抜くことが出来ない。
読んだ本によると、そもそも人の嘘は見抜くことが出来ないらしい。
目を逸らすとか、嘘を付いている時の仕草とか。
そういうのは、実は当てにならないと、本には書いてあった。
ならば、騙された時にどうするのか。
怒り、不安、悲しみといった感情に流されたりせずに、冷静になって物事を理解する。
嘘を付かれた背景を想像するのではなく、なぜ嘘を付いたのか、なぜ嘘を付かれたのか。
親身になってくれる人に相談し、共有することが一番の対処法だと、本には書いてあった。
僕の場合は、まさに感情に流された典型的なパターンだ。
もっと楚乃芽と話し合い、理由を聞けば、彼女が入り込む余地も無かったのだと思う。
(この本、もっと早く読みたかったな)
知っていれば、違ったかもしれない。
知識とは、自分を守るためのバリアーみたいなものだ。
もっと知りたい、もう二度と、心を壊さないために。
復学まで一か月を切ったある日、楚乃芽が僕にこんなことを聞いてきた。
「お父さんがね、大樹と話がしたいって言うんだけど、いいかな?」
断る理由はないし、むしろ僕も会いたかったくらいだ。
楚乃芽のお父さん、綺月壮志郎さん。
上場企業の取締役だった壮志郎さんは、今や専務という肩書まで付け加えられたいた。
実家ではなく、都内にある高級料亭の一室にて、僕は座布団の上に正座する。
――――大樹君と二人だけで話がしたい。
壮志郎さんの申し出により、楚乃芽は別室にて待機となっている。
しばらく待っていると「こんばんは」と言いながら、壮志郎さんが僕の前に座った。
「平日の夜しか時間が無くて済まなかったね、身体の調子はどうかな?」
物腰柔らかな態度、けれども背筋は伸び、芯がぶれていない。
眼鏡の奥の瞳は優し気だけど、どこか威圧感を感じる。
「ありがとうございます、まだ本調子とは言えませんが、こうして会話が出来るようにはなりました」
「そうか、それは良かった。まぁ、大樹君も楽にして、別に仕事ではないのだからね」
料亭の人がビールを持ってきたから、僕が受け取り、グラスへと注いだ。
壮志郎さんは首元を緩めると、それを一口飲み、満足げに頷く。
「楚乃芽さんからお聞きしました、僕の以前住んでいた家の修繕費や、引っ越しの費用も、全て工面して頂いたと。そして何より、楚乃芽さんとの同居生活を承諾して頂いたこと、重ねて感謝を述べたいと思います。本当に、ありがとうございました」
修繕費に引っ越し代、更には楚乃芽がいない間のヘルパーまで。
金額にしたら一体いくらになるのか、僕には想像も出来ない。
「全て、楚乃芽の為を想ってのこと、大樹君の為じゃないよ」
柔らかな笑みのまま、壮志郎さんは言った。
言葉のどこかに、若干の棘を感じる。
「驚いたかな?」
「いえ、その」
言葉が淀む、どう返答すればいいのか、正解が見えない。
すると、それを見越したのか、壮志郎さんから語り始めてくれた。
「私はね大樹君、人からよく優しい人、と言われることが多いんだ。大樹君も、私に対していろいろとしてくれる優しい人、という認識を抱いたことだと思う。でもね、そんなことはない。私は計算高いだけの、姑息な大人にしか過ぎないんだよ」
グラスのお酒を飲み干すと、眼鏡の底から視線を僕へと飛ばした。
目力がとても強くて、言葉を失い、ただただ傍聴に徹せざるを得ない。
「そうだね、大樹君にも分かるように説明すると。例えば、どこかの町にショッピングモールを建てようと計画が出たとする。その時に一番重要なのはやはり売り上げ、客足がどれだけ伸ばせるかという部分に焦点が当てられるんだ。そんな時に、私は地元の商店街を必ずチェックするようにしている。商店街にあるお店は、基本的に息が長いお店が多い、それはつまり、その地域における需要の高さを、言葉にせずとも私達に教えてくれるんだ」
料理が運ばれてくると、会話を止めて配膳が終わるのを待つ。
部屋から人がいなくなると、壮志郎さんは話を続けた。
「だから私は、商店街にあるお店と同じ系統のお店を、必ずショッピングモールに組み込むよう働きかけている。間違いのない収入源になるからね。商店街からは若干遠くなってしまうが、それ以上の付加価値を用意しておけば、大抵クレームは出て来ない」
「でも、それってつまり、商店街にいた人たちの雇用を守る、という意味なのですよね?」
クラスメイトも、それで救われたと言っていたんだ。
感謝だってしていた、それは間違いのないことなのだけど。
「いいや? 私はそんなことを考えてはいないよ?」
壮志郎さんは当然の如く、首を横に振った。
「ただ、その土地で働いている人にはそこそこのお客様がついていることが多い。同じ人が対応してくれると安心する、そういった顧客心理の為に声かけはするが、それ以上のことはしない。大樹君……我々は慈善事業、ボランティアじゃないんだ、弱者から奪い取るのは当然のことなんだよ」
弱肉強食とでも言わんがばかりのことを、壮志郎さんは口にした。
「我々が用意した箱が原因で廃業になろうが、知ったことではない。潰されるような営業をしている方が悪い。どうかな大樹君、これでも私は優しい人だと言えるだろうか?」
「いえ……優しい人とは、言えないと思います」
「そうだろう。だが、楚乃芽の笑顔を守るためには、必要なことなんだ」
壮志郎さんの手が、僕に料理を食べるよう勧めてきた。
とりあえず豆腐料理に手を付ける。
緊張のせいか、あまり味がしない。
「一家の大黒柱であること、その為には、私は弱者を捻りつぶすことを躊躇いなく行うことが出来る。しかしその結果、一番大事な娘が笑顔になるのだから、そこに何の後悔もない。その証拠に、娘が喜ぶのであれば、私は大樹君の敵の妹だって養子に出来るんだ」
「……敵の妹、瑠香ちゃんのことでしょうか?」
聞くと、壮志郎さんは満足げに頷いた。
「瑠香は君にとっての敵、渡会流星の妹さんだ。大樹君を想えば、彼女を養子にするなんて選択はあり得ないに等しい。だが、楚乃芽が彼女だけは助けて欲しいと私に願った。そこで私が何を考えたか、大樹君には分かるかな?」
質問すると、壮志郎さんは料理に手を付けた。
考える時間を与える、そういう意味なのだろうけど。
「瑠香ちゃんの将来、でしょうか?」
「いいや違うね。私が考えたことは、瑠香を奪ったことで与えられる、彼へのダメージだよ」
渡会流星へのダメージ?
口元をナプキンで拭うと、壮志郎さんは話を続けた。
「実のところ、彼の家に警察が介入したのは、私からの加佐野夫妻へのアドバイスによるところが大きい。楚乃芽を泣かせたのだ、容赦をする必要はない。彼は母子家庭にあり、そして母親を失った以上、心の拠り所になるのは妹である瑠香だけだ。そんな妹が楚乃芽の姉になる、彼からしたら遠方に住まうよりも遠い場所、二度と触れ合うことの出来ない存在になってしまった。おそらく彼は涙したことだろう。掛け替えのない妹を失ってしまった、力の無い自分に嘆き、悲しみ、後悔したことと思う。だが、仕方のないことだ」
壮志郎さんは両手を組んで顎の辺りに置き、両肘をテーブルに着いたまま、顔をやや下に向け視線だけを僕へと向けた。
「私を、敵に回してしまったのだからね」
不敵な笑みに、ゾッとした。
「そして残念ながら、私の人脈はとてつもなく広い。彼の人生は今後、茨の道を究めることになる。名前を出すだけで面接に落ちることになると思うが、精々頑張って生きて欲しいと思うよ。まぁ、私の知ったことではないがね」
つまり、瑠香ちゃんのことを、壮志郎さんは彼から奪い取ったんだ。
そしてもう二度と会うことの無いように、徹底した庇護下に置く。
ごくりと、生唾を飲んだ。
この人は僕の為とか、そういう事で物事を判断してはいない。
全ては楚乃芽のため、自分の娘の為だけにしか、動いていないんだ。
「大樹君、君もいずれ、私と同じ道を歩むことになるのだと思う。人から奪い取り、自分の資産へと変える。だが、それが世の中だ。その為に、君も一流大学に入り、経営学を学んでいるのだろう? ならば、いつかはそういった場面に出くわすこともあるだろう。その時、真っ先に楚乃芽の顔を思い浮かべてくれれば、それでいい」
壮志郎さんがビールを手にすると、僕へと向けた。
空いていたグラスを手に取ると、僕は壮志郎さんからのお酌を受ける。
「楚乃芽が君を選んだ、それだけが、私の指標だ」
「……ありがとう、ございます」
「くれぐれも、娘を泣かさないよう、宜しく頼むよ」
蛇に睨まれた蛙の気持ちの中、僕はグラスに残るお酒を、一気に飲み干した。
「お父さんと、どんな話をしたの?」
帰宅した後、楚乃芽に聞かれたけど。
「楚乃芽を泣かさないようにって、釘を刺されただけだよ」
さすがに、全てを語ることは出来なかった。
月日が流れ、僕も大学へと復学し、楚乃芽と共に大学へと通う日々が始まった。
学ぶことが多いけれど、知識は自分を守るために必要なものだと理解しているから。
もしかしたら、以前よりも勉強に身が入るようになったのかもしれない。
そうだとしたら、あの出来事は、決してマイナスだけでは無かったのかなと思える。
二年後の秋。
僕も楚乃芽も無事進級し、楚乃芽に至っては卒論に頭を悩ませていた頃。
母さんからこんな連絡が、僕達の下に入ったんだ。
「天音ちゃんのご両親がね、一度だけでいいから大樹と話がしたいって言うの。何度も断ったんだけど、どうしてもって言って聞かなくてね……大樹、ご両親と会っても、大丈夫?」
会いたい理由は、聞かなくても分かる。
側にいた楚乃芽と目を合わせ、母さんの申し出に、僕は承諾した。
二日後、家の近くのファミリーレストランにて、加佐野さん夫妻と再会する。
夫妻の第一印象は、疲れ切った顔、その一言に尽きよう。
「大樹君、立派になったね」
「ありがとうございます、それで、ご用件とは?」
社交辞令は不要だ、言いたいことを言ってくれた方が、僕としても助かる。
加佐野さん夫妻は互いの顔を見た後、席を立ち、床に両手を付いて頭を下げた。
「どうか、娘に一度だけでいいから会ってやって下さい!」
「大樹君、お願いします! 娘はもう、自ら生きることを放棄してしまっています! このままでは年を越せるかどうか……お願いします! 人助けだと思って、なにとぞ、なにとぞ!」
慌てて母さんが二人に立つよう促したけど、夫妻は頭を下げたまま、立とうとしない。
楚乃芽もどうしたものかと僕を見て、夫妻に立つように言っているけど。
そんな周囲とは裏腹に、僕の心は湖面の如く、揺れ動いてはいなかった。
返事をせず、スマートフォンを手に取ると、僕はそれを耳に当てる。
「壮志郎さん、お仕事中すみません」
電話の相手が父親だと知ると、楚乃芽は驚いた顔をするも、言葉にはせず。
母さんもそれに気付き、夫妻へと語りかけることを止めた。
「今日は、加佐野さん夫妻と会う日、だったよね」
「はい、会話の内容も、想定した通りの内容でした」
「そうか、では、どうするのかな?」
どうするのか。
それは既に考え尽くした答えが、僕の中にある。
「会おうと思います。会って、別れを告げに行きます」
「そうか……それが大樹君の出した答えならば、私は何も言わないよ」
「ありがとうございます、では、失礼します」
スマートフォンを耳から外すと、僕は夫妻へと微笑みかける。
「会いに行きます。天音のところに、連れて行ってください」
次話『メンヘラ彼女との別れ方』
明日の昼頃、投稿いたします。




