第四十話 忘れられない熱帯夜
※綺月楚乃芽視点
瑠香ちゃんから、流星君の刑事裁判が終わったと、連絡があった。
執行猶予付き、流星君は三か月も経たずに、社会復帰することに。
だけど、彼がしたことは許されることではない。
元の仕事は退職してしまったから、また職探しから彼の人生は始まる。
入社半年もせずに退職してしまった彼の再就職は、困難を極めることになると思う。
でも、瑠香ちゃんへと連絡があったのは、そこまで。
やがて住んでいた家を引き払い、彼は姿を消してしまった。
「まぁ、お兄ちゃんのことですから、そのうちひょっこり顔を出すと思いますよ」
瑠香ちゃん的には、特に心配はしていないらしい。
「お兄ちゃん、ずっと私とお母さんの為に生きてましたからね。肩の荷を下して、悠々自適に、自分の為に生きればいいんだと思います。ただ、被害者の天音ちゃんにだけは、しっかりと償って欲しいとは思いますけどね」
一番の被害者である天音ちゃんは、彼と面会した後、完全に精神を崩壊させてしまった。
大樹以上に酷い状態みたいで、幼児退行までしてしまっているのだとか。
今は精神病院に入院し、介護が必要な生活を送っているとも聞いた。
けれども、そんな彼女のことを、私は別に憐れんだりはしていない。
彼女が大樹に与えた心の傷は、未だ治ってはいないのだから。
「大樹、おはよう」
二月、一緒に住み始めて五か月、彼の目は、未だ死んだまま。
光の宿らない目を見ながら、私は彼の頬にキスをする。
薬の量は、徐々に減らしている。
精神の安定が何よりも大事だから。
減っていても暴れないのは、とても良いこと。
「今日の夜は、大樹の好きなお魚にするからね」
「……うん」
「骨なしサバの甘だれ焼きと、サラダと鶏五目御飯、それと豆腐とみそ汁と……他に何か食べたいものある? 大樹が食べたいのものがあれば、大学の帰りに買ってくるけど」
別に、返事を期待した訳じゃない。
話しかけることが、今の大樹には必要だから。
毎日献立を伝えて、何か欲しいものがあるか尋ねる。
いつもは何も返事がない。
あっても「うん」という、空返事だけ。
だけど、今日は違った。
「……肉じゃが」
「……え?」
「鶏五目なら、肉じゃがが、いいと思う」
自分で考えて、意見を言った。
それだけなのに。
嬉しくて、声が出ない。
涙腺が緩み、自然と手が口へと運ばれる。
そんな私を見て、彼は申し訳なさげに頭を掻いた。
「ごめん、変だった、かな」
「ううん! 変じゃない! 鶏五目御飯には肉じゃがだよね! すっごく良いと思う!」
ずっと無表情だった顔を、笑顔に変える。
目を細めて、口端をあげて、少しだけ笑窪を作って。
それからすぐに、また大樹は何も言わなくなってしまったけど。
「大樹……大樹!」
ゆっくりと、でも、確実に治り始めている。
それが嬉しくて、抱きしめながら、私は大樹に何度もキスをした。
大学受験が終わった、恋人だったあの日みたいに、何度も、何度も。
「おー、綺麗に染まったね。良かった、いつまでも白髪のままじゃ恰好付かないからね」
お母さんが大樹の髪を染めに、私達の家へとやってきた。
染めると言っても白髪染め、普通の染料だと、白髪は染まらないみたい。
「綺麗に染まるものですね」
「真っ白だったからね。でもこれで、立派な大学生に戻ったって感じ」
大樹、鏡を前に、右を見たり、左を見たり。
茶髪になった自分の髪が、ちょっと気になるみたい。
「大丈夫、カッコいいよ」
「……ありがとう」
「染めても染めなくても、大樹はカッコいいよ。愛してるからね、大樹」
後ろから抱き着き、彼に甘えるように頬を合わせる。
我慢したり引いたりしない、私も全力で彼に好きだってアピールし続ける。
大好きの気持ちを隠す必要なんてないから。
それに、もう二度と、彼を不安にさせたくないから。
「熱々だね、それじゃあそろそろ、私は帰ろうかな」
「あ、玄関まで送ります」
「ん、ありがとう」
大樹はまだ鏡の前で自分の髪をいじってるみたいだから、私だけお母さんをお見送りに玄関へと向かう。
靴を履き替えた後、玄関からリビングにいる大樹を見ながら、お母さんも顔に笑みを浮かべた。安心しているって、顔を見れば分かる。そんな笑顔だ。
「元気にはなってきたけど、もうちょっとかな」
「そうですね……でも、休学は一年ですし、十月までまだ時間はありますから」
「そうね。焦る必要なんてないし。それに大樹には、楚乃芽ちゃんがいるしね」
お母さんの言葉、少しだけ照れそうになるけど、それもしっかりと受け止める。
ほくほくの笑みを浮かべそうな頬に力を込めながら、お母さんを送りだそうとすると。
「あ、そうだ」
何かを思い出したように大樹を見て、私に「外に来て」と手招きをする。
大樹の耳に入れたくない話題、ということかな。
素直に従い、サンダルを履いて表に出る。
「もう、あんまり関係ない話なんだけど。あの子、思っていた以上に酷い状態みたいなの」
「あの子って……加佐野さん、でしょうか?」
「うん。最近だと何も食べないし何も飲まないで、点滴で栄養補給してるんだって。この前もお母さんがウチに来て、いろいろとお話ししてきたんだけどね。一言も喋らないし、ずっとごめんなさいって呟いてるみたいでさ」
樹里香さん、眉を波打たせながら視線を泳がせている。
彼女が呟くごめんなさいの相手が誰なのか。
言葉にせずとも分かる。
分かるけど。
「もう、大樹は充分、彼女の為に尽くしたと思いますから」
肘を引き寄せて背筋を伸ばし。
自分でも信じられないぐらい冷たい声で、彼女に関する全てを否定する。
「……そうよね。ごめんね、話題にもしたくないわよね」
「いえ、ですが、もうそろそろ、彼女も卒業するべきなんだと思います」
大樹に甘えきった人生を、終わりにした方がいい。
その方が、彼女にとっても良い選択だと、私は思うから。
春が来て、私は大学二年生になった。
大学の雰囲気にも慣れるように、授業の無い日に、大樹と二人で学校へと向かう。
行きたくないって言われたら諦めようと思っていたのだけど、大樹は拒否をしなかった。
彼の手を繋ぎ、二人で正門をくぐり、教室のある棟へと向かう。
でも、途中で大樹は足を止め、その場にうずくまった。
「頭痛い? 大丈夫?」
言葉にはしてくれないけど、きっとまだ、彼の中で〝音〟が鳴り響いているのだと思う。
目を強くつむり、両耳を塞ぐ仕草をした日は、無理せず二人でそのまま帰宅した。
休みの日は、二人で花見にも出かけたんだ。
「桜、綺麗だね」
「……うん」
桜の木の下、シートを敷いて、二人で座る。
お弁当を食べると、眠くなったのか、大樹はそのまま横になった。
「地面が堅いから、頭痛くなっちゃうよ?」
彼の頭を膝の上に乗せて、優しく撫でながら、一人桜を見上げる。
満開に咲いた桜の花が、風と共に花弁を散らす。
風情があっていいな、と思っていると、その雰囲気を壊す叫び声が聞こえてきた。
視線を巡らすと、周囲では、お酒を飲んで盛り上がる人たちが沢山いた。
誰も桜を見ていない、お酒を飲んで食べて喋って、笑っている。
花より団子とは、まさに言葉通りなんだなって、ちょっとおかしかった。
(お酒か……大樹も私も、あと数か月で二十歳なんだっけ)
六月三十日生まれの、蟹座の大樹と。
八月二十三日生まれの、おとめ座の私。
互いの誕生日を知ったのは、大樹が初めて、私の家に来た日のことだ。
二人でマンションの窓から天体観測をして、布団に包まりながら初めてのキスをした。
中学生の頃の甘い思い出、だけど、その思い出は、きっと大樹には苦い思い出だ。
(別れる……なんて、言わなければ良かったのかな)
私の選択も、後悔ばっかりだ。
別れる選択をしなければ、諦めなければ。
いろいろな後悔に心が圧し潰されそうになるけど。
「……」
手を伸ばせば、彼に触れることが出来る。
誰にも邪魔されずに、彼の頭を撫でることが出来る。
こんなにもすぐ側に彼がいてくれるのだから、心のリセットが簡単に出来てしまうんだ。
後悔は沢山した。
でも、それを悔やむことはしないようにしよう。
数多の出来事が私と彼の結束を強くした。
そう、思えるから。
夏休みに入り、私はすぐに車の免許を取りに行った。
「合格おめでとう」
免許を取得したその日の内に、お父さんが車を私に譲ってくれた。
小さくて可愛い車が良かったのに、お父さんが買ってくれた車はちょっと大きい。
「事故にあった時に、楚乃芽が怪我したら大変だからね」
事故を起こすこと前提で物事を考えないで欲しい。
でも、全てお父さんの愛情かなって、笑顔で受けとることにした。
「シートベルトよし、それじゃあ大樹、出発するよ」
初めてのドライブは、大樹と二人で海まで向かったんだ。
私達の家からちょっと離れた南の方へと向かい、伊豆まで足を延ばしてみた。
白浜の綺麗な砂浜にパラソルを突き立てるも、とても暑くて座れそうになかった。
近くにあった海の家へと移動して、畳の上に座り込む。
「最初から海の家、借りておけば良かったね」
その頃には、大樹は物静かではあるものの、他は以前と変わらないように見えた。
瘦せ細っていた身体は幾分肉付きが良くなり、意思表示もちゃんとしてくれる。
ただ、あまり喋らないことと、気付けば眠りかけていることはあるけれども。
「大樹、お待たせ」
それでも、私が水着姿になると、ちゃんと見惚れてくれるし、笑顔を作ってくれたりもするんだ。それが嬉しくもあり、恥ずかしくもあり。
家では彼の身体を洗うために裸になっているし、きっと彼もそれを見ているのだろうけど。
それでも恥ずかしいものは、やっぱり恥ずかしいものなんだ。
「海、綺麗だね」
大樹と手を繋ぎ、日陰から海を眺める。
海まで来たけど、泳ごうとは思えなかった。
万が一、大樹が流されでもしたら、助けられる自信がない。
私も泳ぎは得意な方じゃなかったから、これはこれでいい。
……水着に着替えた意味、あまり無かったかもだけど。
でも、目的は大樹に見せることだから、ある意味目的は達成している。
(精神的ED……こっちも、まだまだ治りそうにないな)
未経験だから、どこまでなったらEDじゃないのか、全然分からないけど。
治せることが出来るのであれば、全部治したいと思う。
どうやったら治るのか、さっぱりなんだけどね。
八月二十三日。
私の誕生日の日。
大樹の誕生日の時と同じように、ケーキを買ってきて、二人でお祝いする。
そして大樹の時には用意しなかった、ビールやサワーといった、お酒も用意してみた。
「じゃあ、初めての飲酒、かんぱーい!」
大樹と私、二人ともビールを一口飲んで、そのまま渋い顔をした。
「あんまり美味しくないね」
初めてのビールの味は、苦すぎて、ちょっと飲める味じゃなかった。
ちゃんと高いのを買ってきたのにと思いながらも、次にサワーを開けてみることに。
「梅酒サワー……これなら飲めるかも」
ジュースの延長線って感じがする。
大樹にも勧めると、彼も一口飲んで、満足気に頷いた。
そのまま三本ぐらい、いろいろと飲み続けると、なんだか身体が熱くなってきた。
火照る感じに熱を持つと、我慢出来なくて、シャツのボタンを上から数個だけ外した。
さらけ出した胸に風が入って、とても心地良い。
見ると、大樹も熱そうにしていたから、脱がしてあげることにしたんだ。
彼を脱がすことは、別に変なことじゃない。
最初の頃は、ほぼほぼ毎日していたのだから、裸だって何回も見ている。
(……あれ?)
だけど、その日は違ったんだ。
大樹のが、いつもの状態じゃなかった。
それが勃起だということに、私の頭はなかなか理解できず。
しばらくして小さくなっていったから、それが可愛くて、一人笑ってしまった。
「横になって休もっか」
火照った体のまま、大樹と二人、ベッドで横になり、窓辺から見える夜空を見上げる。
アルコールが身体をめぐり、心臓がドキドキしっぱなしだ。
熱いのに眠い、不思議な感覚と共に、意識を失いかけていたのだけど。
突然、唇に違和感を覚えた。
目を開けると、そこには大樹の顔があった。
キスは何度もしているけど、彼からは珍しい。
呆けたまま見つめていると、照れながらも彼はこう言ってくれた。
「誕生日、おめでとう」
祝いの言葉。
自分の誕生日の時は、何も言わなかったのに。
驚いて黙っていると、彼は続けて喋り始める。
「星が綺麗だね」
「え……う、うん」
「なんだかずっと、夢を見ていた感じがするよ」
彼は片膝を立てて座りこむと、いつかのように夜空を見上げた。
「楚乃芽の星座、覚えてるよ」
「……おとめ座」
「うん、それとスピカ、だよね」
神様がくれた誕生日プレゼント。
それは何よりも素敵で、掛け替えのないものだった。
「大樹……お帰り」
「ただいま、楚乃芽」
星屑のように涙を流しながら、私は彼の胸に飛び込む。
そしてそのまま、二人で初めての全てを経験する。
熱い夜の日に、燃え盛るような愛を。
忘れられない熱帯夜を二人で過ごすと。
ようやく、大樹は長い夜から、目を覚ますことが出来たんだ。
次話『僕の決断』
明日の昼頃、投稿いたします。




