第三十三話 聖域
※綺月楚乃芽視点
「血液検査の結果ですが、甲状腺ホルモンの血中濃度が異常に上昇しておりました。この症状は、甲状腺機能亢進症と診断できます。衝動的になった際、心拍数の増加や血圧の上昇、発汗、ほてり、手の震えなど、彼には諸症状も確認できましたので、投薬による治療が必要になります。他にも、血中のヘモグロビンの数値がこれまた異常に低く、血小板の数値も低い状態にあります。まずは栄養補給、それに合わせた精神的な治療も行ってまいりますから、焦らずに、ゆっくりと治療を進めて参りましょう」
午後、お医者様からの診断結果を、樹里香さんと二人で聞きに行った。
甲状腺機能亢進症……いろいろな病気を含めた言葉らしいから、油断は出来ない。
「あの、先生、精神病的な診断も、この場で頂けるのでしょうか?」
樹里香さんが聞くも、お医者様は首を横に振った。
「精神病に関しては、この場で診断できるものではありません。少なくとも二か月は様子を見て、それから正式に診断させていただきます。それと、障害者手帳の取得には、初診から六か月を経過していることが条件となりますから、それを目途に動いていただければと思います」
障害者手帳。
大樹にそれが必要ならば、是非とも取得しておきたい。
お医者様に感謝を述べた後、私達は病室で待つ、大樹の下へと向かった。
「ただいま」
相変わらず、大樹は外を見たまま、何の返事もしてくれない。
でも、こうして診断されると、少しだけ安心する。
病気なのだから。
それが治ったら、全てが元通りになる訳じゃないと思うけど。
「大樹、私ね、昨日の夜空、写真に撮ったんだ」
それでも、こうして彼に寄り添うことが、出来るのだから。
「あれ? あんまり映り良くないかも。星空って写真に撮るの難しいみたい」
「ナイトモードっていうのにしたら、綺麗に撮れるみたいよ?」
「そうなんですか? じゃあ今晩、それで撮影してみるからね」
今は、大樹の側で、静かに過ごしていたい。
もう、争いごとも揉め事も、彼には必要ないのだから。
面会時間が終わった後、私はまた樹里香さんの車に乗り込んだ。
走り出した車の中、次第に遠くなっていく病院が見えなくなった後、私は樹里香さんへと、お願いごとをする。
「あの、樹里香さん」
「なに?」
「大樹さん、来週には退院して、実家に帰られるんですよね」
「そうね、それで?」
「あの……大樹さん、私が看病すること、許していただけますでしょうか?」
ずっと一緒にいたい。
大学なんて休学したっていい。
彼が実家に帰るのなら、私も一緒に。
「そうね……私も旦那も、仕事で大樹に付きっ切りって訳にはいかないだろうし、楚乃芽ちゃんが側にいてくれるのであれば、私達も安心することが出来る」
「なら」
「でもダメ、楚乃芽ちゃんには大学があるでしょ? 安くない授業料を支払っているのだから、大樹の為だけに棒に振らせる訳にはいかないのよ。楚乃芽ちゃんのお父様がいくらお金持ちだからって、貴方がお金持ちな訳じゃないんだからね」
ごもっともな意見を述べられてしまった。
何日間か休む程度なら問題はないけど、休学となれば話は別だ。
だけど、その辺りの返事は、予想出来ていた。
だから、予め用意しておいた意見を、樹里香さんへと投げる。
「では、私が大学に通いながらの看病なら、問題ないんですよね?」
「どういう意味?」
「私の家、もともと大樹さんと住まう予定の家だったんです。3LDKの大きな家ですし、防音素材ですから、大樹さんが叫んでも周囲に迷惑は掛かりません。私が大学に通う時は遠距離モニターで監視しますし、朝昼晩の家事だって私一人で賄えます」
胸にたすき掛けされたシートベルトを握りしめながら、樹里香さんへと熱弁する。
「オートロックですし、セキュリティ面で見ても問題ないと思うんです。大樹さんが暴れてもコンクリートの壁ですから穴も開きませんし、必要なら毎日レポートという形でご報告もいたします。どうか、大樹さんの側にいさせて下さい、よろしくお願いします」
助手席に座りながら、可能な限り頭を下げる。
必死だった、なんとしても、許しを得たい。
走っていた車を停車させると、樹里香さんはハザードランプを点灯させた。
ハンドルから手を離さずに、顔を静かに下げて、息をひとつ。
「断ったら、お父様にお願いして、無理にでも休学しそうな感じね」
「すいません……でももう、後悔したくないんです」
「……そ、分かった。でも、今この場で承諾出来る内容じゃないのも、理解できるわよね? 旦那と、楚乃芽ちゃんのお父様とも話し合って、全員が承諾したのなら、楚乃芽ちゃんに大樹を任せる。これでいい?」
大学生という立場は、年齢だけ見れば大人だけど、まだまだ子供扱いされることが多い。
そんな私を信頼し、大切な息子さんを預けても良いと言ってくれている。
それがとても、嬉しかった。
樹里香さんと別れた後、私はすぐさまスマートフォンを手に取る。
時刻は午後六時、今なら大丈夫なはず。
「もしもし、楚乃芽かい?」
「お父さん、大事な話があるの」
「その出だしは、なんだか怖いね」
「ごめんなさい、電話で伝える内容じゃないと思うから、会うことって出来るかな?」
「ああ、大丈夫だよ。それなら夕ご飯、一緒に食べようか」
思えば、外でお父さんと待ち合わせをするのは、初めてのことだ。
新宿で働いているお父さんが指定した駅は、横浜との中間地点にある蒲田駅。
乗り換えがほとんどで、降りたことの無い駅だけど。
駅を出れば、思っていた以上に、食べ物屋さんはたくさんあった。
「ここにしようか」
お父さんと入ったお店は、barとレストランの併合した感じのお店だった。
うっすらと暗く、木造の店内は、入った瞬間に木の匂いに包まれる。
視覚が制限される代わりに、嗅覚が鋭敏になった感じだ。
異国情緒が醸し出される雰囲気は、アメリカンダウナーを意識させる。
「楚乃芽と二人だと、なんだか緊張してしまうね」
席に着くなり、お父さんはこんなことを言った。
「娘と一緒なんだから、緊張なんかしないでしょ?」
「……そうだね、でも、最近の楚乃芽は、お母さんにとても良く似ていてね。お母さんとの初めてのデートも、こんな感じのお店だったんだよ。あの頃は僕達も若くて、どんな話題をすれば母さんが喜ぶのか必死だったなって、つい、思い出してしまってね」
お父さんがお母さんとのことを喋るのは、とても珍しいことだ。
事故でお母さんがいなくなってしまって以降、思い出すと泣いてしまうからと、お父さんはあまり喋らなかったのに。
きっと、雰囲気で察しているのだと思う。
私がこれから何を言うのか、それを聞くのは、お父さんだけじゃない。
隣に座っているであろう、お母さんも、聞いているんだ。
「あの、お父さん」
「うん」
「私、大樹と一緒に住みたい」
「……それは、前に承諾した話だよね?」
「そうだけど、今はちょっと事情が違うの。大樹、精神病院に検査入院していてね」
「検査入院?」
「うん、話すと長くなるんだけど――――」
大樹の現状、それと原因、私が取った行動。
それらを説明すると、お父さんはいつかのように考え始める。
直接の要因は、流星君と天音ちゃんの寝取られ動画だとは思う。
でも、そこに至る過程は、私が彼に与えた誤解の部分が大きい。
そして、私はそれが正しいと思い、彼を諦める選択をしてしまった。
一回目は、樹里香さんに諭され。
二回目は、天音ちゃんの為に。
そのどちらも、私は諦めるべきじゃなかったのだと、今なら分かる。
私は、もっと我がままにならないといけなかったんだ。
大好きな人を諦めるなんて選択肢が、正しいはずがない。
「なるほど、責任を感じているんだね」
「……うん」
お父さんは腕を組み、料理が運ばれても考え続ける。
この独特の間を、お母さんは楽しんでいたことを、ふと、思い出した。
――お父さんが考え事をしている時って、可愛い顔しているのよね。
丸い眼鏡をかけ、髪を七三で固め、鼻下の髭を少しだけ伸ばし整えている。
今のお父さんの顔が可愛いとは、私は思えないけど。
でも、今になってこのことを思い出したのは、きっと、お母さんの後押しなんだ。
「お父さん」
「……ん?」
「可愛い顔してるね」
お父さん、呆けた顔をしたあと。
俯き眉を下げながら、鼻で笑った。
「そうか……佳乃が、そう言ってたんだね」
「うん」
「分かった、お母さんが認めているのなら、お父さんは何も言わない」
眼鏡のブリッジを指でつまんで直しながら、お父さんは続けた。
「大樹君の引っ越し費用も、ウチで工面してあげよう。だが、いろいろと注文はさせて貰うよ? 楚乃芽は絶対に大学に通うこと、楚乃芽が大学に通っている間は、お父さんが契約したヘルパーさんに大樹君を任せること。大樹君が快癒した時は、お父さんにも報告をすること、それと最後に」
お父さんは声のトーンを下げて、怖い雰囲気を纏いながら、こう言った。
「渡会流星と加佐野天音、この二人とは絶縁すること」
「……うん」
「全て、大樹君を思えば難しい話ではないはずだ。話を聞く限り、この二人は大樹君にとって、何より楚乃芽にとって良い影響を与えるとは思えない。大樹君のご両親だって、間違いなくそれを望んでいると、お父さんは思う。……今は、こんなところかな」
流星君と天音ちゃんとの絶縁、それは、間違いなく必要なこと。
後ろ髪惹かれる思いは、私にはない。
その後、大樹のご両親とお父さんは話し合い、私と大樹の同棲生活は無事認められることになった。引っ越しの費用、修繕費もお父さんが支払ったらしく「肉体労働ぐらいは手伝わないとね」と、樹里香さんも手伝っての、お引っ越しとなった。
そして、退院当日。
樹里香さんの運転する車にて、大樹と一緒に、私の家へと向かったんだ。
ゆっくりと歩く彼と一緒に、家の玄関にカードを当てて、扉を開く。
「大樹、ここが、今日から一緒に暮らす家だよ」
「……そうなんだ、ありがとう」
検査入院を終わる頃には、大樹は会話が出来るまでに回復していた。
でも、言葉だけで、心が籠っていない。
そう言わなければならないんだという、脳の命令に従っているだけの状態。
ふらふらと歩き始めると、大樹はソファに座り、そのまま横になった。
以前の大樹なら、緊張したり、無駄に微笑んだり、部屋のあちこちを調べたり。
工事中のショッピングモールを歩いた時のようなキラキラを、見せてくれていたと思う。
「大樹……」
横になった彼の隣に座り、白くなった頭を撫でる。
今のままでも、別に構わない。
どんな形であれ、私は、大樹と一緒になれたのだから。
次話『彼女の幸せの為に』
明日の昼頃、投稿いたします。




