第三十一話 変わり果てた大事な人の姿
「じゃあ、行ってくるね」
「ああ、気を付けるんだよ」
「大丈夫、もう子供じゃないんだから」
大学の夏休み、私は実家に戻り、久しぶりのお父さんとの日々を過ごしていた。
既に季節は変わり、夏から秋へと変わろうとしている。
借りた家にいても良かったのだけど、あの家は無駄に広いから。
「大丈夫かい?」
「……平気、そんな顔してた?」
「少しだけな」
ダメだな、まだ、引きずってるのかも。
両頬を軽くたたいて、ぷるぷると震える。
ぱっと両目を見開いて、いつも以上の笑顔を、無理やりにでも作った。
「ん、これでどう?」
「ああ、いつもの楚乃芽に戻ったね」
「ふふっ、ありがと。じゃあまたね、お父さん」
いろいろとあったけど、私も大樹も、もう大人なのだから。
どこかで線引きをして考えなければいけない。
そうじゃないと、どこまでも深みにはまってしまうから。
(大学も、なんだか久しぶりだな)
凄く広い構内を、一人で歩く。
今となって考えてみれば、大樹と履修登録がズレているのは、良かったことだと思える。
毎日彼に無視される日々は、きっと私にとって、とても辛いことだから。
サークルか何かに入るのも良いかもしれない。
大学は人脈を作る場所だって、お父さんも言っていたし。
気分転換にもなるし、あの家ならパーティだって出来る。
まだ始まったばかり、長い大学生活を楽しまないと。
「ねぇ、あの人、ずっとあそこにいるみたいだよ?」
「何あれ……白髪? 瘦せすぎて気持ち悪くない?」
「変な臭いがするし、浮浪者なんじゃないの?」
「さっき警備の人が来てたけど、学生証持ってるんだって」
「ええ? あれがウチの生徒? 同じだと思われたくないなぁ」
道行く人が、誰かのことを話題にしている。
視線の先を私も追ってみると、確かに、大学の雰囲気にそぐわない人が、一人だけいた。
ベンチに座りながら、俯き、何もしない人。
両の掌を上に向けて、凄い猫背になりながら座り込む。
真っ白に染まった髪だけを見ると、お爺ちゃんに見えなくもない。
変な人がいるんだなって思いながら、歩いていたのだけど。
(……ん?)
目の前を通って、何となく、その人が気になった。
立ち止まり、見ていると。
「……」
白髪の人が、ゆっくりと私を見た。
くぼんだ眼孔、なのに眼球だけがギラギラとしている。
死神、第一印象は、きっとそれだ。
最初はそれが誰だか分からなかった。
でも分かった途端、思考が加速する。
「た、大樹? どうして、こんな」
輪郭が変わりそうなぐらいにやつれているけど、間違いなく大樹だ。
伸ばしたままの白髪が顔を隠し、筋張った腕を膝に乗せて、私を見上げている。
殺意――――生唾を飲まずにはいられないほどの感情が、私を襲った。
「……」
でも、大樹は何も言わず、視線を下げる。
私も、その場から動くことが出来ず。
彼はしばらくすると立ち上がり、無言で構内へと歩き始めた。
「待って」
去ろうとする彼の手を、私は握りしめる。
そして余りの細さに驚愕した、これは、痩せすぎだ。
これまで何度も大樹の手を握ってきたけど、こんな感触は一度も無かった。
筋肉も脂肪も何もない、血管と骨、わずかに残る筋だけ。
力を入れたら折れてしまいそうな程に、細くて脆い。
「大樹、何があったの」
問うた後、そんな権利が私にあるのかと、自問する。
ううん、だけど今は、そんなことを気にしている場合じゃないんだ。
このままでは彼は死んでしまう、そう思わずにはいられない。
「……離せよ」
「離さない、今の大樹離したら、絶対に後悔する」
「別に、しないだろ」
「するよ、だって私はまだ」
大樹が好きだから。
愛してるの言葉だって、嘘じゃなかったのに。
感情がブレる。
涙が出てきそうになる、ダメ、今はそんな状況じゃない。
「あああ……」
腕を掴まれたまま、大樹はその場にしゃがみ込み、空いている手を耳に当てた。
「……大樹?」
「音がする」
「音?」
「うるさいんだ、ずっと」
「音なんて、何も鳴ってないよ?」
「ガンガンガンガン、うるさいんだよ……あああ、また鳴り始めた! 僕は静かなのが良いんだ! ずっと頭の中で音がする、毎日、ずっと、今もだ! 何なんだよくそが! あああああああああああ! ああああああああああああああああああ!」
「大樹! 落ち着いて! 大丈夫! 音なんか鳴ってないから!」
「あああああ! 聞きたくない! ああああああああああああ!」
「大樹!」
誰かが呼んだであろう警察に、大樹は保護され、連行される事となった。
保護される際、大樹は暴れてしまったから、両手には手錠が掛けられる。
犯罪者みたいだから外して欲しいってお願いしたけど、聞き入れてくれなかった。
パトカーに私も同乗したかったけど、それも許可されず。
樹里香さんに連絡を入れた後、私も講義へは参加せずに、警察へと向かった。
それから数時間後、警察署にやってきた樹里香さんと共に、大樹を迎えに行く。
「統合失調症でしょう、精神科医への通院をお勧めしますよ」
警察官から言われた言葉。
統合失調症。
幻覚や幻聴に悩まされるこの症状は、精神疾患に分類される。
お医者様に診てもらった訳じゃないけど、警察官の言葉は間違いないと思う。
「ありがとうございました」
迎えにいった大樹は、昼間見た時と同じように、凄い猫背で力なく座り、どこでもない場所を見つめ続けていた。そんな大樹を樹里香さんは抱きしめ、頭を撫でた後、手を取り歩き始める。大樹もお母さんだからか、素直に従い、席を立った。
ついて行っていいのか、少し悩んだけど。
でも、今の大樹と一緒にいなかったら、本当に一生後悔する。
樹里香さんは私を見て何かを言いたそうにしたけど、でも、何も言わなかった。
だから私も何も言わずに、二人の後を追った。
助手席に大樹を座らせてシートベルトを付けると、樹里香さんは運転席へと向かう。
そのタイミングで、私も後部座席へと乗り込んだ。
乗り込んだ私をルームミラーで見るも、樹里香さんは何も言わず。
エンジンを掛けるなり、樹里香さんはスマートフォンを手に取った。
「……ああ、お父さん? うん、今警察出るとこ。大樹も静かにしてるし、このまま一度病院に寄ってから、大樹と一緒に家に帰るから。大学って、今はもうそれどころじゃないでしょう? もちろん休学させるわよ、だって構内で叫んで暴れちゃったのよ? 今すぐ復帰じゃ大樹が可哀想でしょうに。……うん、とりあえず、また後でね」
大樹、休学するんだ。
一緒に勉強頑張って、やっと入れた学校なのに。
私がバカなことしたから、ちゃんと大樹に言わなかったから。
天音ちゃんの助けに、私は何もしなかったから。
「……っ」
ボロボロ涙が出てくる。
私、一番大好きな人のこと、全然守れてない。
大樹を一番傷つけたのは私だ、私はもう、これ以上傷つけてはいけないのに。
「お父さん? 大樹ね、検査入院した方がいいって……うん、血液検査して、数値とかはまだ分からないんだけど。それとね、受診履歴に残っていたみたいなんだけど、大樹、心因性勃起不全の診断も受けてたみたいなの。私たちの思っていた以上に、心に傷を受けていたみたい」
心因性勃起不全、つまり、EDってこと?
知らなかったことが、どんどん頭の中に入ってくる。
病室のベッド、身体を起こした大樹は、無表情のまま。
向精神病薬の効き目は想像以上で、まるで、心を無くしてしまったみたいに見える。
彼の手を握り締めても、拒絶も何もないんだ。
無反応、それが、とても悲しい。
また、笑って欲しい。
大樹の笑顔が見たい。
「楚乃芽ちゃん」
樹里香さんが、私の名前を呼んだ。
「大樹の荷物取りに行くから、手伝ってくれる?」
離れたくなかった、離れたくなかったけど、拒否は出来ない。
大樹のことを抱きしめた後「ごめんね」って一言残し、私も病室を後にした。
「うわ、これは……想像以上ね」
大樹の家、以前、外から眺めただけの、海が見えるアパート。
玄関を開けると、それだけで家の中から異臭がした。
「綺麗好きなはずだったのに、一体どうしてこんな」
ゴミも捨ててないし、服だって洗ってない。
キッチンにはゴキブリやハエが大量に発生し、トイレも吐瀉物が壁にまで残っている。
リビングの方はもっと酷かった。
コンビニで買ったであろう弁当は軒並みそのまま放置され、ペットボトルや紙パックは床に落ちた物までそのままだ。ベッドの上、恐らく大樹が寝ていたであろう場所だけ毛布が残るけど、そこだって汚い。さらには壁に空いた大量の穴は、幸い、お隣さんまでは届いていないらしい。
「これ、退去費用凄そうね」
樹里香さんがボヤく中、それでもと片付けを始める。
まるで特殊清掃のような惨状だけど……一か所だけ、綺麗な場所があった。
ベッドの前に置かれたテーブル、そこに開かれたノートパソコンだけは、状態が良い。
「これ、大学指定のパソコンよね? これも持っていきましょうか」
片付けは諦めて、大樹が必要そうな物だけを回収して、アパートを後にした。
洋服や下着類は、あの家にあるものではなく買った方が良い。
いろいろと買い揃えた後、私たちは再度、大樹の待つ病院へと向かった。
病室に戻ると、出かけた時と何一つ変わらない状態の大樹が、私たちを出迎えてくれた。
ベッドから体を起こし、無表情のまま外を眺めている。
何もせず、ただ、外を眺めているんだ。
「大樹、何を見ているの?」
返事を期待した訳じゃない、何でもいいから、彼と共有したい。
彼の隣に座り、窓から見える景色を眺める。
別に、何か見える訳じゃない。ただ、空が見えるだけ。
「……星」
「……ん?」
「星が、見たいんだ」
無表情のまま大樹はそう言うと、しばらくして体を倒し、横になった。
二人で出かけた天体観測が頭に思い浮かんできて、目頭が熱くなる。
「見に行こうね、また、一緒に行こうね」
タオルを目に当てるけど、もう、ダメだった。
えづきながら、大樹の手を握り締めて、ずっと私も泣いた。
「ああ、すいません、病室に電子機器の持ち込みは禁止なんですよ。面会の人は別に良いんですけど、患者さんはダメなんです」
夕方、退室時刻を伝えにきた看護師さんが、私たちが持ち込んできたパソコンを見て告げてきた。パソコンだけじゃない、スマートフォンの類も、精神科では全て持ち込み禁止らしい。連絡が取れないことに不安を覚えるけど、規則ならば仕方がない。
片付けよう、そう思い、パソコンを手に取ったところ。
「楚乃芽」
今日初めて、大樹が私の名前を呼んでくれた。
でも、彼の視線は私を見ていない。
私じゃなくて、私が持っているパソコンを、彼は見ている。
「パソコン、使う?」
「うん」
持ち込みが禁止だから、操作出来るのも今だけ。
ちょっとだけならと、私は彼の前にパソコンを置き、スリープを解除した。
パスワードを求める画面、大樹はぽちぽちと、パスワードを打ち込んでいく。
「母さん、これ」
「私? ……見てもいいの?」
「うん」
パスワードを入力したあと、彼は横になり、目を閉じた。
どうしたものかと、私と樹里香さんは目を合わせる。
きっと何か意味があることなのだろうと思い、そっと、エンターキーを押した。
「……なにこれ」
モニターには、一つの動画が開かれていた。
どこかのホテルで、裸の男女がセックスをしている。
モザイクも掛けられていない、男女の性器がそのまま映し出された、アダルト動画だ。
(EDを治すため? でも、それなら大樹も見てないとおかしいけど)
彼を見るに、今や目をつむり、完全に眠っている。
きっと、何かのメッセージなのだろうと思い、音量を下げ、動画の再生を押した。
そして、その映像に映る男女が誰なのかを、私は理解する。
理解して、理解できなくなった。
「え、これ天音ちゃん?」
樹里香さんも気づいたみたいだ。
動画に映るは加佐野天音であり……渡会流星だ。
感情が、怒りに飲まれる。
次話『私の望み』
明日の昼頃、投稿いたします。




