第二十四話 望まない二人暮らし
天音と一緒に大学を出る僕のことを、楚乃芽は追いかけては来なかった。
当然か、自分が浮気していたのだから、何も言えるはずがない。
(臭いな)
僕の腕に絡まるようにくっついている天音からは、異臭がした。
浮浪者みたいな臭いがする。コイツ、どれだけ身体洗ってないんだよ。
(そろそろいいか)
駅に到着し、キャリーケースから手を離した。
右腕にくっついていた天音に離れるよう促し、腕組みしながら彼女の前に立つ。
改めて見ると、ダボついた黒い長袖シャツにカーキ色のロングスカート。
肩とか胸の辺りにフケが残ったままだし、スカートだってシワがそのままだ。
残念な女、そんな印象を持ったまま、天音へと話しかける。
「それで? 今日は何しに来たの?」
「何しにって、言われると」
「この荷物、まさか家を飛び出してきたとか言わないよね?」
無言のまま、コクリと、天音は頷いた。
恥ずかし気に口元に手を寄せて、申し訳なさげに上目遣いをする。
以前の僕なら、天音の仕草を見て可愛いと思ったことだろう。
でも、今の僕の感想は、ありていに言って気持ち悪いだ。
「とりあえず、天音の家に電話するから」
「し、しても、私は帰らないよ」
「じゃあ、どうするつもり?」
「大樹の家に、住まわさせてもらう、つもり」
「……そんなことが、現実になると思う?」
「ならないなら、私もう、生きてる意味、ないから」
いきなり、天音は涙をボロボロと流し始めた。
噓泣きとか、偽りとか、そういうのじゃない。
本気で、一瞬で天音は泣き始めたんだ。
(嘘だろ)
精神がどうにかなっているとしか思えない。
今の天音に必要なのは僕じゃなくて、病院な気がする。
……でも、分からない訳じゃない。
僕の額に残る傷は、あの女に裏切られ、柱に打ち付けた時に出来た傷だ。
失恋は、人の心を完膚なきまでに破壊する。
くしゃくしゃになった折り紙と同じ。
治ったとしても、それでもやっぱり、どこか壊れたままなんだ。
「わかった。じゃあ、僕の家に行こう」
「大樹……」
「でも、天音のご両親には連絡するからね。捜索願とか出されてたら、大変でしょ?」
「……うん」
その場でスマートフォンを取り出して、とりあえずは実家へと連絡を入れる。
新しいスマートフォンには、天音の番号も、楚乃芽の番号も、入っていないから。
母さんに連絡すると「え、天音ちゃんがいるの!?」って驚いていたけど。
事情を説明したら、意外にすんなりと納得してくれた。
「出来る範囲でいいから、優しくしてあげなさいね」
狭い町だ、天音がどういう状態だったのか、母さんは知っていたのだろう。
通話を切って、スマートフォンをリュックに仕舞う。
天音は通話中、借りてきた猫のように、静かに僕の側でたたずんでいた。
「母さんから、天音の両親に連絡するってさ」
「迷惑かけて、ごめんなさい」
「いいよ、実際、助かった部分もあったし」
天音がいなかったら、絶対に楚乃芽に捕まっていた。
言い訳も聞きたくもなかったし、逃げる口実には最適だ。
春先の風が涼しい中を、天音と二人で歩く。
坂を上り続けると、やがて海も見えてくる。
地元を思い出すような田舎な雰囲気だけど、地元と違い人も店も多い。
とはいえ平日の昼間、歩く人は少なく、すれ違うのは主婦ばかりだ。
そんな道を進むと、僕の住まうアパートがやがて見えてくる。
大学から七駅、坂の上にある長閑な住宅街。
街の一角にある木造二階建てが、僕の住むアパートだ。
「ここが、大樹の家」
「一人暮らしのワンルームだけど、お隣さんも同居人連れ込んでるからね」
「そうなんだ……でも、迷惑かけたくないから、静かにするね」
「ありがとう、そうして貰えると助かるよ」
鍵を開けて中に入ると、今朝家を出た時のままの部屋が僕を出迎えてくれた。
脱ぎ散らかしたままの寝巻が放置されたままのベッドに、朝食を片付けたままのキッチン、部屋の奥にある掃き出し窓には洗濯物がぶら下がり、ベッド横に置いたローテーブルの上には、大学の講義で使う資料がそのまま残されている。
靴を脱いで中に入ると、部屋に唯一あるクローゼットへと向かい、扉を開いた。
右側に収納ボックスが積み上げられていて、左側には冬用のコートが吊り下がっている。
このコート部分を畳んでしまえば、天音のキャリーケースくらいは入りそうだ。
「天音の荷物、この部分に入れていいからね」
「え、ううん、私の荷物、キッチンで大丈夫だよ」
「そういう訳にもいかないよ、着替えとか入ってるんでしょ?」
「入ってるけど、でも、別に」
天音のキャリーケースを試しに入れてみると、すっぽりとクローゼットの中に収納することが出来た。キャリーケースの上部分にも空間があるから、むしろ下にカラーボックスでも置いてしまえば、着替えもそこに収納できる。
「母さんからもね、しばらくは一緒にいてあげなさいって言われたからさ、それなりの居住空間を提供しないと、僕が怒られるんだよ。……よし、こんなものかな。それじゃあ天音、先にシャワー浴びてきてもらえる?」
「え。……う、うん」
「僕が使ってるシャンプーとか使っていいからさ、綺麗にしてきなね」
「わ、わかった。全部、綺麗に洗ってくる」
「ちゃんと、着替え持っていってね」
「うん。……大樹、ありがとう」
「いいよ。それよりも、脱衣所とか無いから、脱ぐのはお風呂の中でしてね」
「うん」
キャリーケースを開けているところは、見ないように背中を向けた。
しばらくするとトタトタと歩く音が聞こえてきて、扉の閉まる音が聞こえてくる。
トイレ付きの三点ユニットバスだから、くつろぐことは出来ない。
でも、頭や体を洗うことくらいなら、あのお風呂でも出来る。
(ふぅ……)
することもないので、ベッドで横になり、目を閉じる。
なぜ、天音が大学まで来ていたのか、なんて、考えるまでもない。
緑谷の奴を徹底的に潰してしまったから、天音には行く場所がないんだ。
だから、僕を頼り、僕を求めてここまで来た。
(以前言ってたもんな、誰もいない町なら、二人で生活出来るって)
あの頃には既に、天音の心は緑谷から離れてしまっていた、ということか。
だとしたら、緑谷が僕を頼ったのは、終わりの始まり、ということだったのかな。
などと考えていたら、天音がシャワーを浴び終え、リビングへと戻ってきた。
「……ありがとう、ございました」
洗い終わったばかりの濡れた髪、身体にバスタオルを一枚巻いた天音は、ベッドへと手を付けて上がって来ると、膝を揃えて僕の真横に座った。
前髪から雫が一滴落ちる。
重力に従った水滴は鎖骨の下に落ち、そのまま胸の谷間へと消えた。
視線を下げれば揃えた膝小僧の奥が見えそうになり、僕は慌てて天音から距離を取る。
「……何のつもり?」
天音は何も言わず、ただ、視線を僕へと向ける。
「しないよ、なんで僕が天音としないといけないのさ」
「……でも、した方が、安心するって」
「それは天音がでしょ? 僕は不安になんてならない、だから早く服を着て」
言葉の意味合い的に、緑谷が天音を求めた理由が、何となくわかった。
不安になるから抱かせて欲しい、なんとも愚直すぎる情けない理由だ。
伝えるも、天音はバスタオル姿のまま、動こうとしない。
何か他の、明確な理由が必要なのだろう。
だから、それを口にすることにした。
「買い物、行こうと思ってるんだけど」
「……買い物?」
「そ、天音の荷物を収納するためのカラーボックス」
「あ、わ、わかった。すぐ、着替えてくるね……あ」
慌てて立ちあがったせいか、まとっていたバスタオルが重力に負けて落ちる。
思えば、天音の胸を間近で見たことは、一度もない。
押し付けられたことは何度もあったけど、見たことはないんだ。
「ごめん、なさい」
咄嗟に手で胸を隠し、天音は風呂場へと姿を消した。
次に出てきた時は、来た時と同じ服装だったのだけど。
妙に艶っぽくて、無駄に意識をしてしまった。
「それじゃ、行こうか」
「……うん」
大学から離れていても、都会は都会だ。
徒歩圏内にほとんどの店が揃っているし、困ることもない。
天音と二人で歩いているけど、それについて後ろ指さされることもないんだ。
僕たちのことを誰も知らないというのは、思っていた以上に、気が楽になれる。
「カラーボックスって、安くて便利だよね」
「あの、お金、出すからね」
「いいよ、バイトしてるし、僕の部屋に置くんだから」
「ありがとう……大樹、優しい。今日、来て良かった」
ふとした瞬間に涙してしまう。
壊れた蛇口のように出てくる涙の全てに、嘘がない。
最初から天音の告白を受け入れていれば。
そう考えてしまうのは、きっともう、許されないことだ。
帰宅した後、天音は限られたスペースにて、荷物の片づけを始めた。
購入したカラーボックスは二段のを二つ、それぞれに引き出しも購入した。
天音がどれぐらい家にいるのかは分からないけど、しばらくはこれで充分だろう。
僕は室内にあるローテーブルにて、ノートパソコンを広げキーボードを叩いた。
提出物の作成もあるし、今日は授業を受けれなかったから、そこに力を入れる。
「大樹、凄いね、何書いてるのか全然わからない」
片づけを終えたのか、天音は背後から僕のパソコンを覗き込む。
ふわりと香るのは、僕と同じコンディショナーの匂いだ。
大学で見たようなフケもないし、髪も艶があり、すっかり綺麗になっている。
視線を彼女からモニターへと戻し作業を続けると、また天音が話かけてきた。
「今は、何を作っているの?」
「マーケティング調査、指定された会社がどのようにして成長したのかをまとめてるの」
「そうなんだ……やっぱり、全然分からないね」
「そういえば、天音は先生を目指してたんじゃないの?」
キーボードを打つ手を止めて、側で座る天音を見る。
耳前の髪をいじりながら、天音は申し訳なさげに視線を逸らした。
「私、大学受験、しなかったから」
「別に、大学浪人なんて普通でしょ? 来年挑戦してみれば?」
「……そうすれば、大樹は喜ぶ?」
「いや、僕は関係ないでしょ」
「そうだけど、でも、聞きたい」
「そりゃあ、知り合いが無職ってよりも、先生してるって方が喋りやすいよね」
「それは、喜ぶってこと?」
「うん」
「なら、来年は頑張るね」
少なくとも、自立はして欲しいと思う。
それに社会に出た方が、精神的にも強くなれると思うから。
夜、パソコンを広げていたローテーブルを片して、昼間購入しておいた布団を床に敷いた。
僕が寝るベッドからは最大限に離したけど、所詮はワンルーム、あまり意味を成さない。
「充電とか大丈夫?」
「うん」
「じゃあ、電気消すね」
リモコンにて消灯すると、部屋は一気に真っ暗になった。
「おやすみ」
一言だけ声をかけた後、ベッドで横になり、目を閉じる。
昼間の出来事があったからか、若干興奮してしまっていたけど。
それでも眠気は襲ってくるし、次第に意識は遠のいていく。
(……ん?)
どれほどの時間が経過したのか、なぜか、急に意識が覚醒する。
目を開けると、トイレの方の電気が点いていた。
隣で寝ていたはずの天音の姿もない。
隣で寝ていた天音がトイレに起きただけ。
そう思い、僕はもう一度眠ろうとしたのだけど。
目を閉じ横になると、静かに扉を閉める音が聞こえてきた。
足音を立たせないように忍び歩く音。
やがてその音は、僕が眠るベッドの前で、止まった。
「……?」
視線を感じ、薄目を開ける。
するとそこには。
裸になった天音が、僕を見下ろしていた。
次話『強がりの果てに』
明日の昼頃、投稿いたします。




