第二十話 壊れた歯車
※加佐野天音視点
自分が分からなくなった。
大樹を愛しているはずなのに、緑谷君からの告白に拒否をしない自分がいる。
「俺なら、加佐野さんを幸せにすることが出来る。絶対、幸せにしてみせます」
まるでプロポーズみたいな告白だなって、内心笑ってしまった。
でも、そういう告白を、大樹は絶対にしてくれないとも、気づかされた。
大樹はいつだって私を見ていない。
大樹が私を見る時は、私がボロボロになった時だけだ。
(緑谷君についていけば、もしかしたら幸せになれるのかな?)
そんなことを思い浮かべてしまう程に、彼の告白には勢いがあった。
だから、断りもせず、かといって受け入れもせず。
気づけば私は。
大樹と同じことを、緑谷君へと、してしまっていたんだ。
「初めての水族館って、神山の奴、加佐野さんを水族館にも連れていってないんですか?」
「うん。というか、デート自体、したことないかも」
「なんすかそれ……加佐野さん、こんなに可愛いのに」
「緑谷君ってさ、かなり軽率に可愛いって言うよね」
「俺は、自分に正直なだけっす」
大樹は全然、私に可愛いって言わないのにな。
「そっか、ありがと。ちょっとだけ自信ついたかも」
「俺で良ければ、何十回でも何百回でも言いますよ」
「それはちょっと、価値が無くなりそうな」
「いいんっすよ。一円だって、一億枚集まれば一億円ですから」
「何それ、ふふっ、緑谷君って面白いね」
「拓哉です。俺のことも、拓哉って呼んで下さい」
大樹と違って、つり上がった攻撃的な目をしている、でも、どこまでも優しい。
「……わかった、拓哉って呼ぶね」
「俺も、天音って呼びますね」
「いいよ。じゃあ拓哉、行こ」
緑谷君のことを拓哉って呼ぶようになったのは、初めてデートに行った日のことだった。
私のことを喜ばせようと必死になっているのが、目で見てすぐに分かる。
「段差あるんで、気を付けて下さい」
私のことをとても大切にしてくれるって、拓哉は行動で示してくれる。
夏に二人で海水浴に行き、秋に二人で紅葉狩りにも出かけた。
冬のクリスマスを二人で過ごして、春に二人でお花見にも行ったんだ。
一年という時間を掛けて、拓哉は私への愛を貫き通してくれた。
だけど私は、それでも迷い続けてしまったんだ。
「もう、俺たちのこと、噂になってますよ」
「うん……でも、まだ、隠していて欲しい」
「いくらでも隠しますけど、さすがに不安になります」
高校三年生になって、皆が受験や就職活動に頭を悩ませる頃。
私は、拓哉からの欲求に応えるべきか、一人、悩んでいた。
「そういうことをするのが、恋人って意味じゃないよね」
「でも、俺は天音としたいと思います。そうじゃないと、不安なんです」
「不安って、だって、私は拓哉のこと好きだよ?」
「でも、神山のことも好きなんですよね?」
「それは……小さい頃からずっと大好きだったから、そう簡単には忘れられないよ」
「だから、不安なんですよ」
その日の拓哉は、いつもよりも苛立ちを露わにしていた。
ずっと大事にしてきた、その代償を払えと言っているように、私に迫る。
「安心させて下さい、一回でいいんです」
「一回って」
「それ以上は求めません」
「……じゃあ、一回、だけだよ」
大樹を失うことも怖かったけど、拓哉を失うことも怖かったんだ。
だから私は、その日の放課後、拓哉の家に行き、彼に抱かれる選択を選んだ。
「ごめん、かなり痛い」
「でも、ダメっす」
「痛い、痛いって言ってるのに」
「我慢して下さい、きっとその内、慣れますから」
慣れることは無いと思った。
それぐらいに痛くて、何してるんだろうって。
ベッドで揺れながら、心の底から後悔した。
大樹は素っ気ないけど、こういう事を何ひとつ求めて来なかったんだ。
普通に考えれば、私に対する興味が無いという意味だと、思えるのかもしれない。
でも、その時の私は、求めて来ないこと、それが大樹の優しさだと、思い込んでしまった。
(失敗した)
ベッドの上で流した涙は、痛みと後悔と、愚かな自分が情けなくて、流した涙だ。
「一回だけって言ったのに」
「すぐに終わるから、我慢してください」
その後も拓哉は、何度も私を求めてきた。
嫌がっても何をしても、どうやっても止めてくれない。
次第に、自分の身体に臭いがついていることに、私は気づき始めた。
(この臭い……拓哉の臭いだ)
体を洗っても何をしても、落ちた感じがしない。
ずっと鼻にまとわりついてくる。
こんな臭いをさせたままじゃ、学校に行けない。大樹に会えない。
「どうしたんですか、香水なんか手に取って」
「え? ……ううん、ちょっと、買おうかなって、思って」
「別に、天音の匂いは良い匂いですけど。全身くまなく大好きな匂いっすよ」
「そういうの、言わないでいいから。これ、買ってくるね」
体につけて、少しでも臭いを消したかった。
だけどそれは、浅はか過ぎる行為だったんだ。
「その香水、好きじゃないから、付けて来ないで貰えるかな?」
大樹に言われて、全てがバレているのかと思った。
すぐに手洗い場まで行って、頭から水を被って、首筋と手首に付けた香水を洗い流す。
臭いが消えたか分からなかったから、大樹に確認してもらうことにした。
その後貰えた大樹のタオルからは、彼の匂いしかしなくて、とても、安心できて。
その日以降、私は彼のタオルを洗わずに、ベッドに敷いて、一緒に眠るようにしている。
少しでも拓哉の臭いを消して欲しい、そう願いながら。
「拓哉、私、大樹とキスをしたの」
オープンキャンパスの翌日、私は覚悟を持って拓哉に接した。
「キスって」
「大樹はね、拓哉と違って大人なんだよ。不安にならないし、いつだって私を受け入れてくれる。求めて来ないのだって、子供が出来たら困るとか、きっと、そういうちゃんとした考えからの行動だったんだよ。……ごめんね拓哉、私、やっぱり大樹のことが好き」
「そんなことを、急に言われても」
「急じゃないよ、一年間考えた結果。私、拓哉とは付き合えない」
言い切ると、拓哉は拳を握り締めて、私を睨んできた。
「……だから、不安だったんだ」
手を出されてもいいように、忍ばせておいた催涙スプレーに手を伸ばす。
でも、拓哉は近づくことなく、私に背を向けた。
「こういう時、何かを言って考えを変える女じゃないってこと、俺は知ってるから」
「……うん」
「だから、俺、別の手段を取りますね」
「別の手段?」
「絶対、取り戻してみせますから。この一年が嘘じゃなかったってこと、信じてますから」
涙目になった拓哉は、零れ落ちそうになった涙を拭うと、どこかへと走り去ってしまった。
(伝えきれた、良かった)
これでもう、拓哉とは終わったと思った。
拓哉が何をしたところで、私の意思は変わらない。
残る高校生活の全てを、大好きな大樹と共に過ごす。
ううん、高校生活だけじゃない、その後の大学生活だって、大樹と過ごせるんだ。
彼が引っ越すのなら、私も一緒に行けばいいだけのこと。
都内なんだから、私でも合格する大学は必ずある。
最悪、就職だっていい。
重い枷がひとつ、外れた気がした。
拓哉と別れてからしばらくして、私は大樹に呼び出された。
文化祭も終わり、残る高校生活は受験だけになった頃のことだ。
「急に呼び出したりして、ごめん」
いつもと変わらない、優しい笑みで、私を迎え入れる。
「いいよ、何かあったの?」
「天音、緑谷君、知ってるよね?」
拓哉の名前が出てきて、心臓が跳ね上がった。
自分でもわかる程に、動揺してしまう。
動揺はダメ、バレないように、普通に喋らないと。
「もちろん、知ってるよ? 元バスケ部のメンバーだからね」
「その緑谷君が僕の所にやってきてさ、土下座してきたんだよね」
「……土下座?」
「天音と別れて欲しいって」
嫌な汗が、頬を伝う。
あの男、大樹を巻き込んだんだ。
卑怯者って、心の中で拓哉を罵る。
でも、大樹は笑顔のまま、特に表情を変えていない。
ということは、大樹は拓哉の言葉を信じていない、そう考えてもいいはず。
「なんでそんなこと、急にしたのかな」
「本当にね。だから僕、言ってやったんだ」
腕を組むと、大樹は一歩、私から距離を取った。
「僕は別に、天音と付き合ってなんかいないってね」
「付き合って、ない……けど」
「ねぇ、天音」
嫌な予感がした。
「僕は、結構前から、この関係に清算しないとって、思ってたんだ」
「この関係に清算って、私は別に」
「天音、君は一年前、緑谷君から告白されたよね?」
(――――!)
「体育館裏、誰もいない場所で熱心に口説かれているのを、僕は目撃しているんだよ」
「目撃……でも、その告白は断ったよ?」
「断った? 断ったのにデートに何回も出かけたの?」
「それは……友達として、何回かは、行ったかもだけど」
「デートの行先が彼の家だったこともあったよね?」
寒気がした。
多分、大樹は全部知っている。
両手が痒い、傷口を掻きむしりたくなる。
「天音」
大樹が私の手を握りしめてくれた。
傷口から血が出そうなくらいになっていたのに。
もしかして、許してくれるのかな。
「そういうの、もういいから」
「……そういうのって」
「別に、僕と天音は結婚した訳じゃないんだ。自由恋愛なのだから、天音が誰とどこで何をしていようが、僕は構わない」
「それって、私のこと」
「好きになろうとしていた」
「え……」
「楚乃芽のことを忘れて、天音の気持ちを受け入れようとしていた」
「な、なら、今からでも」
「だけど、天音は緑谷を選んだ」
「ち、違う」
終わりの喋り方だ、大樹は本当に終わらせようとしている。
オープンキャンパスの日はあんなに楽しかったのに、なんで。
「何も違わない。ねぇ天音、どうして僕に相談してくれなかったのさ? いくらでも相談出来たはずだよね? 告白されて、緑谷の汗を拭って、天音の方から涼しい場所に誘ったよね? どうして僕のことが好きなはずなのに、緑谷を受け入れたのさ」
何も言えず、自分の手首を握りしめる。
「それは少なからず、天音が僕を見限っていたからに違いないと思うんだけど。話を戻すよ天音、僕はこの関係を清算したいと思っている。残る高校生活、いや、僕の人生において、天音は僕に関わらないで欲しい」
「なんで、そんな酷いこと言うの……私ずっと、大樹しか見てないよ」
「……緑谷に抱かれたくせに、何を言ってるんだか」
大樹は全てを知っている。
あの男が全部喋ったんだ。
許せない。
何もかも暴露したあの男が、絶対に許せない。
「こんな感じかな……緑谷君、もういいよ」
大樹の視線の先に、あの男がいた。
バツの悪そうな顔をしながら、物陰から姿を現す。
「天音、彼はとてもいい男だよ。君の為にひたすらに頭を下げることが出来る男だ。それに、彼の将来の目標は先生になることらしいよ? 同じ夢を持っているのだから、二人一緒に頑張れると思うんだ。先生になることは、僕の夢とは違う。だから天音、これからは僕ではなく、緑谷君を追いかけ続けて欲しい」
「……ないよ」
「ん?」
「出来ないよ、そんなこと!」
感情がもう、怒りと悲しみと絶望と、全部混ざってごちゃごちゃだった。
「大樹だって悪いんだよ! どれだけしても大樹は私を見てくれなかった! ずっとずっと、私だって頑張ってきたんだよ! 全部、何もかも大樹に費やしてきたのに、なのに!」
「天音」
「うううっ、ううううっ!」
「ひとつだけアドバイス。好きな人がいるのに、他の男に抱かれたりしない方がいいよ?」
「――――ッ! ふざけんなよ! 私だって抱かれたくて抱かれたんじゃないんだ!」
「あははっ、そうだね。でも、僕じゃなかったら刺されてもおかしくないことだと思うんだけど? まぁ、別にどうでもいいけどね。それじゃあ緑谷君、君の望み通りにしたのだから、責任をもって、後は宜しく頼むよ」
嫌い嫌い嫌い嫌い!
もう男なんて全部大っ嫌い!
ずっと大樹は私を騙してたんだ!
私が浮気してるのを知りながら、バカな女って思いながら接してたんだ!
酷いよ、酷すぎる! 私は何も悪くないのに!
「天音……」
拓哉――――
「うるさいな! 全部お前が悪いんだよ!」
「ああ、そうだな」
「お前が全部大樹にバラしたから、お前が私に告白なんかしたから!」
「でも、こうでもしないと、天音は神山から離れられないだろ」
「離れたくなかった! ずっと一緒が良かったのに!」
「天音、これからは俺がいる。俺がずっと側にいるから」
もう、コイツの側にもいたくなかった。
所詮コイツは、大樹の代わりに過ぎない。
側にいたくない、もう、誰の側にもいたくない。
一瞬でも心揺らいでしまったことを、心の底から悔やむ。
あの夏の日に戻れるのなら、戻りたい。
戻って私の顔を殴ってやりたい。
なんで、あんな男の告白を。
家に帰り、私はそのまま引き籠ることにした。
学校にも行かず、誰とも喋らず。
部屋に差し込まれた卒業証書は、厄介者払いにしか見えなかったから、捨てた。
私は、あの日から何も成長していない。
中学二年生のあの日、大樹に告白を断られた日から、何も。
「…………そうだ」
四月になり、私は、あることを思いついた。
「大樹はK大学に行くのだから、私もそこに行けばいいんだ」
あそこなら、私を知っている人は誰もいない。
大樹だけがいる町なのだから、そこでならきっとやり直せる。
物凄いことに気づいてしまった、なら、こんな部屋で寝ている場合じゃない。
「天音、どこに行くの」
「K大、大樹に会ってくる」
「大樹? 大樹って……あ、天音!」
大丈夫だよ、あの町なら、あの男がいないから。
きっとやり直せる、大樹は優しい人だから、絶対に許してくれる。
許してくれなかったら、目の前で死ぬしかない。
そうじゃないと、生きてる意味なんて、ないから。
次話『負け犬の遠吠え』
明日の昼頃、投稿いたします。




