第十一話 傷の舐めあいでも、私は構わない。
※加佐野天音視点
綺月楚乃芽と神山大樹が別れた。
その事実を聞かされたのは、彼の母親からだ。
二人の間に何があったのかは、私には分からない。
分からないけど、私は失恋の辛さを、誰よりも知っている。
自分なんてどうなってもいい、この世から消え去ってしまえばいい。
自暴自棄ともいえるあの気持ちは、失恋しないと理解出来ないものだ。
「神山君、入るよ」
明かりをつけずに、彼はベッドで眠り続ける。
三年生になったというのに、彼は一学期の半分を、この部屋で過ごしてしまっている。
ご両親は、彼の将来の事とか、友人関係とか、いろいろと心配しているみたいだけど。
「今日はね、授業でこんなことをやってたんだよ。佐藤先生がね――――」
私は、このままでもいいと、思ってしまっている。
誰でもない、私だけの神山君が、目の前にいるのだから。
一日のことを伝え終えると、私はベッドに膝を乗せ、彼へと近づく。
(……神山君)
暗闇の中、ベッドで眠る彼の頬に触れる。
男の子らしい少し固い肌に、私よりも高い体温。
誰もいない二人だけの空間、呼吸する空気も、私たちだけのもの。
今は、これでいい。いつか彼が目覚める時に私が側にいれば、それでいいんだ。
ベッドに乗せていた膝を下ろすと、静かに扉を閉める。
音を立てないように一階に下りると、彼のお母さんが出迎えてくれた。
神山君のお母さん、神山樹里香さん。
彼に似て、とても美人なお母さまだ。
「天音ちゃん、毎日ありがとうね」
樹里香さん、一目見て分かるぐらいに、やつれた顔をしている。
このままでもいいと、私は思う。
でも、そんな自己中心的な考え方を、彼が喜ぶはずがない。
「これぐらい、なんでもありません。私を救ってくれたのも神山君ですので、私が立ち直れたように、きっと彼もいつの日か立ち直ってくれると信じていますから。ですからお母さんも、私を信じて、ゆっくりと休んでください。結構、酷い顔になっちゃってますよ?」
神山君と綺月さんの関係がどれだけ深かったのかは、私は知らない。
きっと、知らない方がいい……ううん、知る必要もない。
だって、もう綺月さんはいないのだから。
どこに転校したのか、誰にも伝えずに、彼女はいなくなった。
それはつまり、そういうことなのだと思う。
ここにいたということ、その全てを彼女は否定したんだ。
この町を、神山君を、彼女は捨てた。
だからもう、あの人に関して私が何かを知る必要は、ない。
七月上旬、半袖でも暑いと感じる中、私は彼の家へと向かった。
当たり前のように渡されるプリントと、彼の為に綺麗に書いたノート。
この二つがあれば、樹里香さんは私を家の中へと案内してくれる。
ううん、これすらもう、必要ないのかも。
(ふふっ)
だって、樹里香さんから、彼の家の合鍵を頂いてしまったのだから。
共働きな神山君の家は、ご両親が留守になってしまうことが少なくない。
最近まで樹里香さんは役場を抜けて帰ってきていたけど、最近は融通が利かなくなってきているのか、通常の勤務に戻りつつある。誰もいない時に私が家に入れないと困るからって、わざわざ合鍵を用意してくれたんだ。
リュックから鍵を取り出して、鍵穴に差し込んで、回す。
電気の消えた玄関へと入り、鍵を掛けて、靴を脱いでそろえる。リビングの方へと向かい、そのままキッチンへと抜けて、冷蔵庫の中にあったオレンジジュースをコップに移し、用意してあった彼のためのオヤツを手にして、階段を静かに上がる。
両手にあったものを一旦全て廊下において、扉をノックするために手を伸ばした。
「神山君、入るよ」
制服、スカート、ソックス、前髪を確認。
静かに扉を開け、部屋の中に入る。
雨戸と遮光カーテン、閉じられた二つによって、部屋の中は真っ暗だ。
廊下から差し込む光のみを頼りに、室内へと入り、勉強机の上に飲み物とオヤツを置いた。
今日も変わらず、彼はベッドで横になったまま。
樹里香さんによると、一応、ご飯は食べているらしい。なら、心配はいらない。
勉強机の椅子に座り込み、いつものようにノートを開いた。
今日一日あったこと、宿題の内容、くだらない雑談。
それらを独り言のように語った後、私は彼のベッドへと、膝を乗せた。
(髪、伸びてきたね)
伸びた彼の髪に触れる。優しく撫でるように髪を梳くと、そのまま顔を近づけた。
樹里香さんが言うには、彼が最後にお風呂に入ったのは、何日前か分からないらしい。
普通なら、普通の人なら、近づくだけで嫌になるような匂いなのだと思う。
(良い匂い……好きだな、この匂い)
だけど、私には、どうあがいても良い匂いなのだ。
近くに寄って、鼻を押し当てても、それでも臭いと思えない。
どこまでも濃厚で、どこまでも純然で、どこまでも神山君の匂い。
もっと近くで嗅ぎたい。
私は布団を掴み、ちょっと固まって、それでもと動かした。
布団を剥がし、剥き出しになった彼へと近寄ると。
「え」
いきなり、左手の手首を捕まれて、体ごと引っ張られてしまった。
ベッドの上、仰向けになると、反対側の手首も、上から抑え込まれるように強く握られる。
かすかな明かりしかない部屋の中で、伸びた髪の隙間から、彼の瞳が見えた。
荒い吐息、上下する肩、股の間に入れこまれた膝。
血眼になって、憎むように睨みつけて、なのに泣きそうなぐらい唇を震わせて。
不思議と、怖いとは思わなかった。
むしろ、嬉しいとさえ思える。
「いいよ」
むしろ、私はこれを望んでいたのだから。
傷だらけになってしまった両手、それさえも彼の為だ。
どれだけ乱暴に扱われてもいい、それを彼が望むのなら、なんだって受け入れる。
「神山君の、好きなようにしていいよ」
綺月さんに惚れたはずの貴方が、一度は私のところに戻ってきてくれた。
自暴自棄になった私を、貴方は救ってくれた。
必ず、貴方は私のところに帰ってくる。
それが、分かるから。
(何もしない、か)
倒れ込み、泣き叫びながら、ただただ私を抱きしめる。
優しい人。
キスでもなんでも、しても良かったのに。
その方が、私も安心できたのに。
嗚咽し、泣き叫ぶ彼のことを、子供をあやすように抱きしめ、撫でる。
今は、これでいい。
出来てしまった彼の穴に、私が入ることが出来たのなら、それでいいんだ。
翌朝、樹里香さんに呼ばれて、私は神山君の家へと足早に向かった。
玄関先にいた彼を見て、両手で掴んでいたリュックの背負い紐を握り締める。
短く切りそろえた髪、緩い夏服、以前よりも痩せてしまった感じは、隠せていない。
見ているだけで歯がむず痒くなる程に、嬉しい。
「加佐野さん……いろいろと迷惑かけて、ごめん」
開口一番、謝ってきた彼に対して、私は思わず笑みを浮かべてしまった。
「いいよ。全然、迷惑だなんて思ってないから」
いつだって味方であること。
それが、私に出来る唯一のことだから。
「僕、今日から学校、行こうと思う」
「うん。みんな待ってるよ。私も一緒だから、安心してね」
「ありがとう……ごめん、昨日とか、本当に」
「いいよ。私は告白した時から、何も変わってないからさ」
彼の手をつないで、学校まで歩く。
出来なかったことをするだけで、嬉しいのだから。
彼と過ごす中学三年生は、本当にあっという間だった。
陸上部最後の大会だったり、修学旅行だったり、受験勉強だったり。
「じゃあ、二人で一緒に見せあいっこしよっか」
「うん、なんか、緊張するね」
「じゃあ、恨みっこなしで……せーの!」
そして、三月の初め、二人で同じ高校に受験し、二人で受験結果を見せあう。
雪が降る中、神社の境内で互いのスマートフォンを交換し、そして。
「合格だ!」
「私も、合格だった!」
私たちは、同じ高校へと、進学することが出来たんだ。
次話『天敵がいなくなり、煮え切らなくなった彼との日々と、甘い誘惑』
明日の昼頃、投稿いたします。
すいません! 昨日は投稿を間違えてしまいました!
ご連絡、誠にありがとうございます!
以後、気を付けたいと思います!




