第十話 そして君は、僕の前からいなくなった。
楚乃芽の自転車が、町に一棟しかないマンションの前で止まった。
人口の少ない町にふさわしくない、背の高いマンションだ。
「ここ、私の家」
「初めて来た」
「だって、お父さんいないこと多かったし、勝手に家に入れたら怒られるから」
「別に、責めてる訳じゃないよ。それに、もう明日には引っ越しでしょ?」
「うん。だから家の中、段ボールだらけなんだ。ちょっと待っててね、説得してくるから」
エントランスに二人で入り、エレベーターに楚乃芽だけ乗り込む。
扉がしまるギリギリまで手を振ってくれて、その後は変わる階数表示を眺めた。
(……六、七、八、九、あ、停まった)
結構、上の方なんだな。
見上げていると、咳払いが聞こえてきた。
咳払いをしたのは、マンションの警備さん。
仏頂面で、こんな時間に未成年が何をしに来たって顔をしている。
こんな時間……あ、そうだ、家に電話しないと。
スマートフォンを取り出して、自宅をタップする。
僅か二回ほどのコールで、母さんは出てくれた。
現状を説明すると、母さんは受話器越しに、溜息をひとつ。
「わかった、でも大樹、貴方はまだ中学生なんだからね? もう分かるだろうけど」
「しないよ。大丈夫、楚乃芽と二人で天体観測するだけだから」
「そうかもだけど……明日には楚乃芽ちゃん家、引っ越しするんでしょ? もしお泊りが許可されるのなら、お母さんからも一言お礼がしたいから、必ず電話して頂戴ね」
「うん、わかった。あ、エレベーター下りてくる、またね」
母さんとの連絡を済ませると、一階に到着したエレベーターから楚乃芽が下りてきた。
コートを脱ぎ、マフラーも外している。家に置いてきたのだろう。
「お父さん、部屋で静かにしてるならいいって」
「本当? やった、これで朝まで一緒にいられるね」
「うん。目的は天体観測なんだから、ちゃんとそれはしておこうね」
こちらを見ていた警備さんに会釈をして、それから僕もエレベーターに乗り込む。
九階に到着し通路を歩くと、ものの数歩で彼女の家に到着した。
カードキーを当てると機械音がして、玄関の鍵が開錠される。
ホテルみたいだなって思った。
「ただいま。お父さん、大樹君、入るからね」
積み上げられた段ボールの山から、無言で引っ越しの圧が掛かって来る。
明日にはいなくなってしまう、だから、今を楽しむんだ。
「ひさしぶりだね、神山君」
家の奥、片づけられ広々としたリビングに、お父さんの姿があった。
いつかの様に右手を上げて会釈の代わりをする、相変わらずカッコいい。
そうか、授業中もこの挨拶をすれば良かったんだ。……もう、遅いけど。
それにしても、受け入れられている感が強くて、あまり緊張しない。
お父さんへと深く頭を下げた後、スマートフォンを差し出した。
「遅くに申し訳ありません。すいません、母がお礼を言いたいとのことでして」
「ん、ありがとう。じゃあ楚乃芽、その間に部屋を案内してあげなさい」
「わかった。大樹君、こっち」
連れられて、リビングから玄関へと戻るように歩き、突き当りの部屋へと向かう。
白い木製の扉を開けると、そこもやっぱり段ボールの山だった。
どこもかしこも、引っ越し直前の風体を僕に見せつけてくる。
部屋は、パイプベッドの上に布団が残るだけで、他の物は全て片付けられていた。
寝て起きて、翌朝にはこの部屋を空っぽに出来る、そんな感じだ。
「大樹、こっち」
彼女の部屋の掃き出し窓を開けると、一気に部屋の温度が下がった。
洗濯物を干すには物足りない程度の広さしかないベランダに、二人で向かう。
背の高い手すり、格子状のそれは、隙間から景色を眺めることが出来た。
(うわ、凄い)
彼女の部屋から見る夜景は、僕の想像をはるかに超えていた。
眼下に広がる家々の明かり、淡い光に反射して煌めく川、誰もいないのに点滅を繰り返す信号、遠くに見える山の稜線、夜なのに薄暗く見える雲、そして瞬く星々。
「天体観測なんて、行く必要なかったのかな」
ぼそっと、感想が口からこぼれ落ちてしまった。
それぐらいに綺麗で、圧倒的すぎる。
「そんなことないよ」
ベランダの手すりに寄り掛かりながら、楚乃芽は顔を僕へと向ける。
「私は楽しかったし、大樹との思い出の場所が増えて、嬉しかったよ」
素直な言葉、それが分かる顔、優しいまなざし。
嬉しくて抱きしめたくなったけど、その気持ちをぐっと堪えた。
僕も彼女と同じように、手すりに体を預けながら、夜空を眺める。
「でも、なんか」
「ん?」
「山よりも、空が遠く感じるね」
なぜそう思ったのかは謎だ、間違いなく、この場所の方が空に近いのに。
二人で無言のまま、夜空を眺める。
星が動く。既に冬の大三角形は姿を消そうとしていた。
ベランダに座り、吸い込まれそうな夜空を馬鹿正直に見上げていると。
(……!)
彼女の指が、僕の指に触れた。
冷えた指、一本一本を触れ合わせると、指の間に入り込み、しっかりと重なった。
多分、楚乃芽は僕を見ている。
でも、なぜか気恥ずかしくて、僕は見ることが出来なかった。
手をつないだまま無言で過ごし、やがて引っ張られるようにして、部屋の中に戻る。
「ごめん、実は、ちょっと寒かった」
眉を下げながらも、彼女はつないだ手を放そうとしない。
部屋に唯一残るベッドへと座り込むと、僕もそれにならい、隣に座った。
敷き布団とマットレスに、体が沈む。
楚乃芽が毎日寝ている布団。
意識すると、もういろいろとダメだった。
「温かい飲み物とか、持ってくる?」
「大丈夫」
「じゃあ、部屋の温度もっと上げよっか」
「平気」
そんなことよりも、つないだ手を離したくない。
楚乃芽も離そうとしないし、繋がっている限り、僕たちは離れることはないから。
「そういえば、なんだけどさ」
「うん」
「転校先って、どこなのかなって」
それが分かれば、僕は可能な限り楚乃芽に会いに行ける。
夏休みも冬休みも、もし自転車で行ける距離なら、毎日だって行けるんだ。
なるべく近くであって欲しい、そう願いを込めて、返事を待った。
若干の間、不思議に思い、楚乃芽を見る。
「それは、朝の引っ越しの時に教えてあげるね」
「引っ越しの時って」
「だって、現実的な話をすると、寂しくなるし」
楚乃芽も寂しい、僕と離れるのを悲しいと感じてくれている。
嬉しいと思った。
なら、慌てて聞く必要もない。
とても現実的な話になってしまうのだから、それは最後でいい。
「えい」
ぽふんっと、頭から布団を掛けられた。
布団のテントの中で、二人ぴったりと寄り添う。
「それに、今はこんなに近くにいるんだからさ」
「……それもそうだね」
楚乃芽の笑みに、絆されていく。
このまま永遠に、例え離れていても、僕たちはずっと繋がったまま。
そう、信じて疑わなかった。
「この布団、なんか良い匂いするね」
「え、やだ、ちょっと、恥ずかしいこと言わないで」
「楚乃芽の匂いだ、この布団貰ってもいい?」
「だ、ダメだよ! 絶対にあげないから!」
「ふふっ、冗談だよ」
「まったくもう、大樹は本当に、まったくもうなんだから」
真横にいながら、楚乃芽はぷりぷりと怒った素振りをする。
だけど、手は繋がったまま、互いに離そうとしない。
しばらく二人笑いあった後、ひょんっと、楚乃芽が立ちあがった。
「部屋の電気消せば、部屋からでも天体観測できそうだよね」
「確かに、出来そうだね」
「ちょっと待ってね」
枕元に置かれていたリモコンを操作すると、一瞬で部屋は真っ暗闇になった。
窓からの明かりだけが室内を照らしている。
僕と楚乃芽は二人でベッドを移動させて、窓の近くから星空を眺めた。
「あ、北斗七星が見えるね」
「うん。春の大三角形が見えるまで、もうちょっとかな」
「今って何時ぐらいなんだろう?」
「えっと、夜中の十二時を回ったところだね」
「そっか……もう、後八時間ぐらいしか、時間がないんだね」
今は、こんなにも近くにいるのに。
あと半日もしないで、楚乃芽は遠くへと行ってしまう。
やっぱり寂しい。離れることが、とても辛い。
「大樹」
名を呼ばれ、顔を向けると。
顔を近づけた楚乃芽は、目をつむり、僕と唇を重ねた。
月明りの下、人生で一番、楚乃芽が近くにいる。
その距離は、ゼロセンチだ。
「……」
離れた後、動くことが出来なかった。
呼吸することも出来なかった。
心臓の音がうるさくて、手なんか震えちゃって。
じっと、楚乃芽と目を合わせ続ける。
綺麗な瞳、彼女の瞳の中に、僕がいる。
ずっといて欲しいと思う、離れることの無いように。
「一応、ファーストキス、だから」
「ぼっ、僕も、初めてだった」
「……そっか。良かった、ね」
楚乃芽の頬が赤く染まる。
僕も、熱を持っているのが分かる。
キスって、こんな感じなんだ。
大好きが極限まで来てしまって、行動に出てしまうのが、キス。
とっても、幸せだと思った。そんな、気軽に出来るものじゃないな、とも。
「あ、春の大三角形、見えるよ」
「ほんと?」
「うん」
手を繋いだまま、頭から布団をかぶり、夜空を眺める。
楚乃芽は空いていた左手で夜空を指差すと、なぞるようにして動かした。
「北斗七星の下から弧線を描くようにして、アークトゥルス、スピカ、そしてデネボラ。オリオン座みたいに分かりやすくはないかもだけど、それでも、なんとなく分かるでしょ?」
「分かる……特に楚乃芽の星座だから、絶対に覚える」
「ふふっ、ありがと。そういえば、大樹って何座なの?」
「僕? 僕は蟹座、六月三十日生まれ」
「え、そうなんだ。じゃあ大樹の星座も見えるよ」
「どこ?」
「オリオン座、ふたご座、その次にあるのが蟹座。ちょうどデネボラの先って感じかな」
「へぇ……自分の星座なのに、初めて知ったかも」
見てた感じ、どれが蟹座か微妙に分からないけど。
でも、なんとなくでも知れて良かった。
「でも、そっか、大樹って蟹座なんだね」
「……何かあったの?」
「占いでね、おとめ座と相性良いの、蟹座なんだよ?」
「え……そう、なんだ」
「私たち、最初っから相性良かったのかもね」
「そう言われると、そうかもね」
「ふふっ、嬉し、なんだか運命感じちゃうな」
運命なら、離れたとしても、また会うことも出来るのだろうか。
楚乃芽の側に、僕はずっといたいと思う。
ずっと、一生、側に。
「もう、朝日が上がっちゃうね」
鮮やかな朝焼けに、胸を打たれた。
「寝ずに頑張っちゃったね」
柔らかな笑みを浮かべる楚乃芽の顔も、夜とは違い、真っ赤に染まる。
三月の底冷えする寒さの中、白い息を吐きながら、僕も彼女の隣に立った。
ベランダから見る東雲の空は、夕焼けとはどこか違う。
世界が紫色に染まるような、他に誰もいないような、不思議な感覚。
「なんか、感動するね」
「……うん」
「別に、初日の出でもないのにね」
そこまで言うと、楚乃芽は僕に体を預けて、柔らかくも冷えた肌を寄せた。
布団の温もりが消えた肌に指で触れると、抵抗しないままに、でも、楚乃芽は顔を見せないように背ける。
昼間、学校の教室ではおさげにしているから、誰も知らないんだ。
こんなにも綺麗で真っすぐな髪をしていることを、知っているのは僕だけ。
それが、とても嬉しいと思える。
楚乃芽はこの瞬間、間違いなく、僕の彼女だった。
そして。
「大樹、あのね」
「……なに?」
「転校先、やっぱり言えない」
「言えないって、どうして」
「だって、多分もう、二度と会えないから」
「二度と会えないって、そんな」
「だから、大樹」
あんなにも、両想いだったのに。
「私と、別れて下さい」
たった一言で、僕たちは他人へと、戻ってしまったんだ。
次話、高校生編
『傷の舐めあいでも、私は構わない』
明日の昼頃、投稿いたします。




