不適切なプリン
どうせ人生なんてこんなもの。そう捨て鉢になってしまったほうがずいぶん楽だ。
介護施設に入所している母親に会いに来た男は、働けど働けど、その日暮らしどころか、なけなしの貯金を崩すしかない生活を続けている。
「あと何年で底をついてしまうだろうかと考えるのはやめよう。」
そう思っても、明らかに見通せる将来を楽観できるわけがない。
母親が生きていれば、その年金がわずかながらでも入るんだろうから、「生かせておけばいいじゃん」と親戚はいう。親戚とはいっても、所詮他人だ。その言葉をそのまま受け入れるほど、バカじゃない。
実は何十万もする入所代を年金で賄うのは到底無理な話だ。たまるのは不安と虚しさだけだ。
母親の部屋に続く廊下は、すり減った靴底だと滑ってしまいそうなほど磨かれている。こんなにツルツルなら、いつか誰かがすってんころりんするだろう。
「そう願っているのは、ひとりじゃないだろうな。」
男は、周囲に聞こえないようにぼそっと呟いた。
母親の部屋は二階の一番奥だ。エレベータを使うまでもなく、階段をゆっくりと上がる。すり減った靴底に金具だろうか、女のヒールのように時折、かつかつと音が鳴る。
男は靴底の虚しさをそのままに、二階の奥まで歩みを進めた。部屋のドアは解放されていても、母親は男の来室に気づかないだろう。
部屋に入ると、母親は車いすに乗ろうとベッドから起き上がるところだった。認知症が進行している母親は、母親のようで母親じゃない。
「あ、」
男に気づいて、母親は力のない声を出し、
「そこ。」
とだけ話す。
男は車いすのストッパーをロックしたのち、もっていた袋を布団の上に置いて、母親が車いすに移動するのを手伝った。
コットンの白地に薄い花柄のパジャマは母親そのままだった。血管の浮き出た手の甲は心なしかピンク色だ。男はためらった。母親の手なのに、触るのは難しかった。
「プリン、買ってきたよ、好きだろ。」
男は、つぶやきながら、母親のごつごつした尻の下にタオルをとっさに差し込み、母親の座るタイミングに合わせた。
「不適切やな。」
けげんな顔をして車いすから見上げる母親。しかし、視線の先は男ではない。男の顔を通り越して、宙を見ている。
「プリン、プリン、あん人が誤魔化したプリンやな。」
あん人は父親のことだろう。父親は、男が小学生のころ、二人を残して、女の処に行ってしまった。
その日、冷蔵庫にはプリンがあった。普段は食べられない、デパートの地下にあるような極上プリン。子どもの好きなプリンでごまかそうと思ったのか。
そのプリンが冷蔵庫にあった、ということ。それだけが、脳裏によみがえる。父親の顔や仕草や遊んだ思い出はすべて、プリント一緒に飲み込んじまった。
今、認知症を患う母親から「不適切やな」と言われて当然かもしれないが、男はそれを承知でプリンを買ってきた。
母親には、当時のような悲しみや怒りや、憎しみなど残ってないだろうと思っていたのに。母親はプリンと聞いて見事に記憶をよみがえらせた。
愛おしさや喜びよりも、ときに憎しみや悲しみが人を突き動かすことがある。
父親がどこでどう生きているのか、もう死んでるのかもわからない。男が父親と母親の血を半分ずつもらっているなら、母親は身近にいる父親の分身である自分に、直接「不適切やな」とぶつけてほしかってほしかった。
あっちの世界へ行く前に、置き忘れた何かを、ぶちまけてほしかった。ただ、それだけだ。
「不適切やな。」
の言葉は、少し男の気持ちをほっとさせた。
「まだ、あるんやな、気持ちのなかに。」
母親に聞こえないように言ったつもりだったが、聞き逃さないのが今の母親だ。
「あ、冷蔵庫のプリン。あれな、あれは食べたくなかった。」
父親が出て行った夜、母子で食べたプリンの味は覚えていない。ただ、冷蔵庫に入っていたのに、思ったよりぬるく、ほんのり塩気が聞いていた。
「ぐちゃぐちゃな味やな。」
そのとき、母親がつぶやいた一言も、頭の隅に残っている。
ぐちゃぐちゃやな……。なんでもかんでも、一つじゃない。必ずや表と裏がピッタリとくっついている。
不適切であろうが、なんであろうが、父親が母親と子どもから逃げて違うヒトの処に行ってしまったのも、そのこと自体、男や母親にとっては切ろうとしても離れぬ適切なものだった。
不適切やなとつぶやいた母親は、どこかで父親を許していたのかもしれない。
裏をかえせばという。憎しみがときに愛情であり、その反対もありうる。一つのものを対峙させて、神様はどうして悲しく、切ないことをしてくれるんだろう。
母親はそれから、いつもの途方に暮れたような、しかし優しい表情にもどり、車いすを少しだけ動かした。
「窓の外を見たい、ねえ、あのときもプリン、外の青がキレイだったね。」
「プリン、外の青か……。」
男は、つながらない母親の言葉を拾い上げた。
そして、引き出しからスプーンを取り出して母親に渡す。母親の血管だらけの甲を眺めながら、その手にそうっとスプーンをもたせた。
「かあさん、生きてよね、まだ、まだ生きてよね。」
聞こえるか聞こえない声の大きさで男はつぶやく。
少しぬるくなったプリンの味は、あの時のままだった。