第五十一話 上野サイド
正体不明の何者かによって当たり前のように続いていた世界は一夜にして変貌した。
否定されていた虚構が実態を持って現れ、噂が実証された事実を凌駕する。
浸食されてく現実に周囲は抵抗もなく受け入れ新しい世界に喜びさえしている。
何一つとして理解できない。
これまで続いていた人間の歴史が土台から覆されようとしているのに、何故こうも呑気に構えていられるのか。
言葉に出来ない戸惑いは主の啓示を受けたと主張する聖女の出現で最高潮に達した。
死者の蘇生。イエス・キリストの再来。最後の審判の日がやって来たのだと自分もまた悟らざるを得なかった。
普通の家庭だったと思う。ただ休日に教会でお祈りをするくらいの信心深いわけでもない一般家庭。
それが聖女の出現で何かが狂った。なまじ聖女の現れた地の近くに住んでいたのも運が悪かった。
家族総出で聖女の姿を見に行ってテロに巻き込まれた。一度、確かに僕らは死に、蘇った。
奈落の底に堕ちていくような底冷えのする感覚と救われた際の光に包まれるような暖かな気持ち。
涙がこぼれて主と彼女を讃えた。今でも憶えている。あの笑顔を。
でも。
何かがおかしかった。
イエス・キリストの再来と謳われるほどのプレイヤーが果たして、ただの爆弾を防げないだろうか。
下手人は今も不明のままで、死者が生き返った奇跡ばかりが繰り返し報道されて、犯人を追及されることはなかった。
行く先々で彼女は人々を救っていたけれど、悲劇を未然に防ごうとしたことはただの一度もない。
どんな苦難が襲おうと彼女は笑顔で言うのだ。
大丈夫ですよ、と。主は誰も見捨てません、と。
その笑顔は綺麗だったけれど、やはり何かが足りなかった。彼女は怒らない。どんな罪を犯しても。彼女は救う者を選ばない。どんな人間だろうと。
分け隔てなく救い、そして膨れ上がった信者達は彼女と同じく、何かがおかしかった。
死がただの通過点となり置かしてはならないタブーは薄らいだ。通過儀礼としての死と復活がこの上ない栄誉とされることに意義を唱える者はいなかった。
金で蘇生の順番が入れ替わっても聖女は何も咎めず、これで活動がしやすくなりますねと笑いさえする。
確かに無償で全ての患者を救うには希望者が多すぎて無理だとは思う。でも貧しい人々が搾取されていても笑顔で励ます聖女に奇妙な違和感を抱かずにはいられなかった。
周りと同じように熱狂の中にいた家族と別れ、僕は一人で寮に入ることにした。タイミングよく高校生になる年齢だったこともあり不自然ではない。
とにかく一度、距離をとって冷静に考えたかったのだ。
家族は聖女の元から離れていく僕を不思議そうな表情で見ていた。何で学校なんて通うんだ? これが僕が家族と交わした最後の言葉だ。
そして、聖女のシンパが暴走して民間人を片っ端から殺して洗礼を施そうとしたあの日。
やはり何一つ疑問に思わずに聖女は人々を蘇生した。大丈夫ですよ、と。
聖女の精神的な異常に気付いた世間は掌を返したように責め立てた。お前のせいで人が死んだんだぞと。この人殺しと。
それでも聖女は何一つ変わらなかった。何時ものように蘇生を続けて。
蘇生の邪魔をした民間人を顔色一つ変えずに殺して蘇生した後、もう駄目ですよと蘇生された人間の前で笑ったのだ。
キリスト教は正式に彼女を聖女ではなく、偽物だったと。偽物の救世主であったと声明文を出した。
ヴィランとして逮捕され法廷に立たされた彼女をテレビ越しに見たことがある。
その笑顔は。爆弾に吹き飛ばされて死の淵から救われた時と全く変わっていなかった。
抜け殻のようになった僕は日々を普通に過ごす中で考え続けた。世間の言うようにやはり彼女はヴィランだったのかと。悪意でもって全ての物事をなしていたのかと。
それでも。
あの日、死の淵から救われた暖かさを忘れることが出来ない。
彼女の影響で宗教そのものが忌避され無意識のうちに迫害されようと、ただの金属であるはずの十字架を捨てることが出来ない。
口では大罪人だと、ヴィランだと、彼女を貶してみても何一つとして腑に落ちない。
まるで呪いのようだ。未だに僕は彼女を聖女だと思っている。
どのような人生を歩めばあのような人格に育つのだろうか。疑問に思った僕は友人に誘われて、ゲーム世界に同行することにした。
無意識のうちに彼女を探しているんじゃないかと聞かれれば否定は難しい。
ゲーム世界の中で殺戮に次ぐ殺戮を繰り返して常人の範疇を逸脱する強さを得ていこうと、彼女を理解することは全く出来なかった。
内部に存在する宗教組織も色々と調べてみたが、中世の頃のキリスト教はこうだったのだと決めつけられているようで不快なだけだった。
確かに褒められた歴史ばかりじゃないのは知っている。だが、それを少しでも改善していこうと努力を積み重ねていったから今があるんじゃないのか。
何時までも昔のことを持ち出して責め立てられ続けるのは納得がいかない。酷い歴史は何処にだってある。その歴史が葬られていないのはこうあるまいとした教訓として残したのではないのか。
誰も、誰もが聖人としてあれるわけじゃない。彼女もまた人間で。そう人間で。
僕は彼女の名前も知らない。
ただ聖女様と呼ぶだけだった。あの場にいた誰もが。
今も変わらないのだろうか。聖女様と敬われて只管に蘇生し続けて、そんな人生をこれからもずっと続けていくのだろうか。
何かが掴めそうだった時、酔っ払いに絡まれているシスターを発見した。
相手は教会騎士団の一員で戦闘のプロフェッショナル。酔っていようと初心者冒険者の敵う相手ではない。
思考は冷静にそう判断を下す。
「なぁ、いいだろ? 生娘ってわけじゃあるまいし。あの男の上で腰、振ってたんだろぉ」
「やめて。触らないで!」
周囲には大勢の参拝客がいるのに誰も助けようとはせず、見て見ぬ振りをしている。
あの物陰にいるのは確か上級冒険者だ。テンプルナイトといえど鎮圧する力は持っているだろう。それなのに動かないということは教会騎士団に目を付けられるのを恐れているということだ。
被害にあっているシスターは早間先輩に指導を受けていた女性の一人か。少なくとも初級冒険者に近い力は持っているはず。僕よりも強い。
ここで出ていっても被害者が一人増えるだけで何一つとして良いことはない。静観するのは論外だとしても止められる人を探しに動いた方が何倍もいい。
だが、それであの女性は無事で済むか? 手遅れになった後に形の上だけで注意をされて反省した振りをするだけじゃないのか?
プレイヤーなら最悪、ログアウトをすることで難を逃れられるはずだが、離脱する様子はない。出来ない事情があるのか。貞操よりも大事な何かが。
理性は止めろとがなり立てる。死にたくないなら関わるなと。でも。
「死にたくないなら。僕は死にたくないのか?」
身体は全く制御を受け付けず二人に近付いていく。こんな時だというのに先日にあった合同訓練を思い出した。
最後にこのソルト街の貴族の使者だという女性は告げた。冒険者を続ければ殺人を犯す時が来る。でも心に大事な何かを持っているなら道を踏み外すことはないと。
何かとはなんだろう。何があれば、聖女は僕らは、あの人はもっとマシな人生を歩めていたのだろう。
「あん? 何だテメェ。死にてえのか!」
胸の中に火が灯る。この熱は何なのか。十字の形をした炎。
今も服の中に入れている十字架が燃えているのか。そう、これは確か、聖女様にここを出て行くと告げた時に貰った。
あの日。ただ一度だけ。あの人の本当の笑顔を見たような気がした。泣きそうな弱々しい笑顔を。
「うるさいな。死ぬなんて、とっくに経験済みなんだよ!」
振り下ろした拳は自分でも視認できない速度で男の身体を吹き飛ばした。
後悔なんてない。この先に地獄があるのなら、それこそが自分の望んだ未来だ。




