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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

短編でだしてみる。土佐の知られざる英雄譚〜地元人でも興味なくっちゃ気付かない石碑たちが語りだす生々しいイケる伝説ともう語るもののいない忘れられた伝承〜みたいなノリにしておきます

土佐には坂本龍馬と長宗我部元親だけじゃない!知られざる英雄たちがそこそこがんばっていたりするのだ。今から語るのは、ネットの隅にコソコソっと載っていたり興味を引かれて足を運ばないと一生気付かない!そんな伝説や伝承や噂をネタの続く限りチラシの裏にでも書き連ねようというお話。活動報告に書いたもののコピーです。誰かが書いたものの書き写しとも言う。まぁ興味を引かれたのなら読んでいってくださいな、よさこい!

 ネットで武将の来歴や由来を探してたり実際に自転車に乗ってて見つけた石碑に語られたお話を綴ろうと思いまして筆を執りました。


 第一弾は、例の末裔が転生するあの話を読んでから『そう言えばそんな人居たなあ。祭りも足を運んだし』

 と、ぼんやりとした記憶のきざはしからネットで探し始めたのがきっかけとなったのです。意外とハマって隅々まで読んでいたよーな。



 もやもやっと土佐落人伝説でも


 正直、大崎玄蕃の人の後裔の話を読むまでは『武田勝頼が負けたあと、香宗我部の中山田を頼った内藤家の一族』をツテにして

 土佐入りし、『落人の集合里』である越知おちに隠棲してた位にしか『その伝説』も知らなかった訳ですが。


 地元民的にも隣の隣の街の伝説でお祭りで触り程度にしか知らなかったわけですよ、武田勝頼。この頃逃げてきた人の伝説では里見氏とか石田三成とか大野治長兄弟とか明石全登とか秀頼とか残ってるんです。あくまで、眉唾ものの伝説ですよ。でも、武田勝頼=大崎玄蕃は雑に調べても当時のものとか残っていて信憑性がまぁあるかなーと思えるんですよね、あはははは。少なくとも安徳天皇が生きてたよりかずっと。


 楠目大法寺に各地放浪の後、やってきて町娘に男子を産ませていて血を残そうとしてる。


 再興は叶わなくても家名は捨てても家紋は残っていて末裔も現存してるそうです。香宗我部と結びつきの深い山田家の楠目で。香宗我部の地頭職を『源家』からもぎ取ったりと香宗我部と名前を改める前の信濃一条家(武田二十五騎の一人にも一条の名前がある。五摂家の一条とは関係ないけど。これが地頭職をゲットして宗我部郷の地名から香宗我部に)の失脚後プータローになった一条家が職を獲るまでお世話してきた大中臣家(武田家臣時は中原姓。なぜだか苗字が違うようで)が山田家の前身で、山田家は鎌倉時代から戦国の頃まで婚姻関係を何度も重ねて来たような山田家の楠目だから、山田家一族が阿波に退去したあとも武田の血は楠目にもあったりしたのかと思わせてもらえたり。大法寺近辺には武田花菱を扱う武田神社の名前の祠?社?が複数あったり。


 長宗我部元親は他にも滅亡の憂き目にあった武家を受け入れたりしていて武田勝頼もそんな心根の深さから受け入れられていたのかな、と。思えなくも無い。でも、長宗我部の外の人間には…特に秀吉には知られたくなかったのか他の事情もあったのか、勝頼とされる人物は楠目を退去して長宗我部の一門である片岡家を紹介されます。 


 山田の地からいよいよ落人の集合里・越知にやって来ます。


 時に天正11年の事と伝えられているようです。



 深山の地である樫山は住みづらかった(地図アプリで見ても谷と森の奥って感じのとこですか、昔はかずら橋での移動くらいしか谷を渡れないだろうから追っ手も先ず見つけられないかも?)のか、片岡家が不憫に思ったのか1年足らずで人里に降りてきます。



 天正12年2月8日武田勝頼とされる落武者は大崎玄蕃と名乗るそうな。

 天正14年川井神社(武田城八幡宮)を建てています。武田の迷える魂に懺悔していたのでしょうか。死ぬ場で死ねず、こんな深山幽谷で無様に生きのさばっている身を。悲惨な過去を悪夢で蘇るたびに苦しむこともあったのでしょうから縋りたい神様もあったのでしょうから。一連の事から──まぁ、武田勝頼でなくても武田の誰かであり、ポンと神社建てたり金の櫛や金の茶碗を与えたり出来る財産のある落武者であるのは確かかなと分析する。


 武田城八幡では武田花菱も見受けられます。と言っても、越知や佐川の古いお墓には武田花菱結構珍しく無いくらい彫られてるんですよね。武田花菱に関しては土佐には昔昔から香宗我部が居たから片岡の辺りに移り住むこともあったのかもとか。うーん。 

 この神社の初代神官さんのお名前に甲斐守の名乗りがあったり、勝頼所有の武田花菱家紋入り手鏡が御神体やってたりと何らかの武田の落武者だったのは確実で勝頼に近い人物だったか、勝頼本人だったのかもしれません。

 勝頼本人が生きてただけでロマンチックですけどね。家族と妻子も見殺しして逃げてきたってことなんですよねえ…財産もって逃げれたのなら妻子も連れて逃げてこれたのでわと思ってしまったり。

 大崎玄蕃の伝説で良く聞いてたのは大阪の陣で出資を募っていた豊臣家に物資と資金を送ったという話があってですねえ。勝頼なら本人が行けよと思ってしまったエピソードなんですけど。

 他にも天正14年に起こった戸次川の戦いにも片岡家の人間として参加していたとか。


 侵略者である上士がやって来るまで14年間、片岡家の男子が居なくなってここを治めるカリスマ性のある誰それが居なくなって大崎玄蕃が補佐してたそうです。上士が来たら娘が嫁いだ家の補佐やってたみたいですね。

 あーあと、ここの祭りは土佐の祭りと一風違うようでやはり大崎玄蕃は信濃だか余所からやって来た文化人なのは間違いないようです。土佐の祭りは基本、花取り・太刀祭りで一条と津野関連の祭りになります。土佐の風俗を作ってきたのは一条と津野ってことなんでしょう。あくまで神への奉納祭りがですけど。


 大崎は土地名ですけど、玄蕃は小山田信茂から持ってきているみたいです。勝頼を裏切って天目山に向かわせた小山田信茂。実はそう見せかけて勝頼の命だけは逃した忠臣だったのかもと最近は言われてるようで小山田信茂公の研究してる会がそれを匂わせる発言していたり。

 大崎ではない場所ですが勝頼家臣の孕石氏の墓もあったり。










 武田勝頼・三枝夫人の墓所


 祭神 

 玄蕃頭比古神(武田勝頼=大崎玄蕃)

 美津岐大神(三枝夫人)


 由緒


 甲斐武田家、第二十代当主である武田勝頼(変名大崎玄蕃)と三枝夫人(変名美津岐夫人)夫婦の埋葬された墓の前に建立される鳴玉神社です。

 勝頼は慶長十四年(1609)年八月二十五日六十四歳で亡くなります。

 三枝夫人は元和二(1616)年十月十九日に亡くなって共に祀られています。

 三枝夫人は歴史上出てこない夫人で、実子の正晴と共に落ち延びた事が系図に書かれていて歴史の大きな謎です。

 大崎川井土居屋敷の柿木元に葬られた事が系図に記されております。

 四百年以上の時を経た現在、この柿の木は赤い実を稔らせます。


 勝頼の戒名 成福院殿榮秋道勝大居士   

 夫人の戒名 恵照院殿清月宗光大姉


 これらは系図に記されており、また長宗我部地検帳からも土居屋敷の場所が確認でき、土佐へ来た武田勝頼の伝承を物語る上でも重要な史跡です。

 毎年、大崎八幡宮の秋祭り(十一月十五日)と玄蕃祭り(旧暦八月二十八日)には御神幸が行われ、ご神体が御輿に運ばれてきて祭祀が行われます。


 設置者 武田勝頼土佐の会


 参考引用は武田勝頼土佐の会hpより。




 勝頼が正式な後嗣とならなかったのは、諏訪氏の名跡を継いでおり、また織田氏との関係、父である信玄を神格化して勝頼を同格と見なさない家臣団をも考慮してのものであった。 



 なろほろわからん。信玄倒れて武田がバラバラになったのはこの遺言『武田信玄が遺言として「武田の旗、孫子の旗、将軍地蔵の旗、八幡大菩薩の旗、いずれも持たさず、大の文字の小旗で出るべし」

 と大体この用に遺言されました。

 また勝頼の長男の信勝が成人した際には、武田の旗など全て使っても良いとされ後継ぎとする』があったからだと思ってしまっているんだけどね。勝頼が頑張り過ぎて長篠の大敗を招いたのだし。


 深く考えても何にもなんないのにもうこんな時間。この辺でお開きとしましょう、オヤスミナサイ


読んでいってくれてありがとう。大崎現場が存在したのは本当で、それは武田の偉い誰かであったのは妄想ではなく、だからといって…………四郎勝頼本人なのかは歴史の闇に埋もれてしまった。もう後は信じるか信じないかはあなた次第。

ただし、土佐は落人伝説やその噂は枚挙に事欠かない地勢であります。


実際、各所の各家の末裔を名乗って財産を守り続けて今日まで永らえた人達がいて。火のないところで煙は立たないというか、何もないところから末裔なんて話は出てこないものだと思ったり。


大崎現場も、また、死に直面して、家名をどうにか存続させようと逃げ出した彼が落ち延びた先で心変わりからこの人達と生きて行こうと大崎現場に改めたのではと妄想してしまう。武田に戻っても対抗できないと思ったから?甲斐の人達が武田に支配されている時代より幸せそうだったから?それとも………。

実際、背負っていた重みが消えて楽になれたからかもしれません。武田という名門、信玄の後釜というプレッシャー!そんな勝頼を縛り付ける何もかもを取り払った自然な姿が、大崎現場を産み出したのかも知れない。


もう語るものは語り尽しました、あとは読み手次第。あなたの取り様一つでなんのこっちゃ脈絡のない噂で終わってしまうか、知られざる英雄が存在した証となるのか。

全てはこれを読んでいってくれたあなた、あなたの心の琴線に少しでも触れられたのなら語り部として満足と言えるのでしょう。さてさて。これにて閉幕………………

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