幕間 その17 おかえりなさい
「美幸ちゃん、先日の告別式では本当にありがとう。
君のおかげで、あの場の皆が素直に悲しむことが出来た。
私自身、残念ながら死に目を看取ってやることは叶わなかったが…
あの日の皆の涙には、由利子もきっと…喜んでくれていたはずだよ」
夜になって隆幸の家を訪ねてきた洋一は、美幸と顔を合わせてすぐ、そう言って
感謝を伝えた。
あの告別式から、まだ数日…。
だが、目の前の洋一は…そのたった数日で、一気に老け込んだように見えた。
あの後…夏目家に戻るのは刺激が強すぎるだろう…と、美幸は佳祥と共に隆幸の
家へ一時的に移って寝泊りをしていた。
そのため、洋一とはあれから初めて対面することになっていた。
…しかし、数日振りに会った洋一の…その今にも倒れそうなその雰囲気に、美幸は
思わず表情を曇らせた。
「あの、所長さん。その…大丈夫、ですか?」
「ははは…。さっき玄関で美月ちゃんに会った時にも、同じことを言われたよ。
…どうやら、今の私は相当に酷い顔をしているらしいね」
そう言って、軽く笑う表情にも、やはりいつものような力が無い。
そんな洋一に、万年笑顔の隆幸ですら、心配そうな表情を浮かべている。
「所長、その…ちゃんとお休みになられているんですか?」
「ああ…まぁ、最低限はね。
…だがね、眠りに就いても、すぐに目が覚めてしまうんだよ…。
これでは、天国の由利子に『根性なし』と、叱られてしまうかな?」
本人は軽い冗談のつもりなのだろうが…。
その内容が内容だけに、その場の誰も笑えなかった。
…つまり、そんな判断もつかない程度には、疲れ果てているのだ。
「もう…おばさんがそんなことを言うわけが無いでしょう?
それは…『しっかりしなさい!』くらいは言われるかもしれませんが。
それでも、“叱る”というよりも、むしろ“笑い飛ばす”でしょうね」
流石にこの中では一番長い付き合いだけあって、そんな暗い雰囲気の洋一にも
容赦のない言葉をかける美月…。
だが、その美月が選んだ言葉が、洋一本人にとっては良かったらしい。
洋一の顔に、少しだけ活力が戻ってくる。
「ははは…そうか。…笑われてしまうか。
そうだな…。私も、しっかりしないといけない。
生前の由利子にも、確かにそう言われていたのだし…ね」
そう言うと、一度『ふぅ…』と息を吐いて仕切りなおすようにした後、改めて
美幸に話しかける。
「…美幸ちゃん。今日はね、君に頼みがあって来たんだよ。
…そろそろ、私の家に戻って来てはくれないかね?」
「ぁ……それは……ええっと…」
美幸は、その洋一の提案に難しい表情を作った。
もともと隆幸の家での滞在は一時的な対処の予定だったので、いずれは戻るつもり
ではあった。
…だが、やはりあの家には由利子との思い出が多すぎた。
今はまだ、一緒に折ったあの折鶴を見ただけでも、泣いてしまうだろうことは、
自分でもわかっていた…。
「…すまないね。
君が今、ここで暮らしている理由…。…分からないわけではないんだ。
だが、どうも一人で居るにはね…。あの家は…少々広すぎる」
「…ぁ……」
音一つ無い、静かな居間。
座る者の居ない椅子が幾つも並ぶ中で、一人きりで食事をとる洋一の姿を想像した
美幸は、思わず息を詰まらせる。
それは…とても寂しい光景だった…。
美幸も悲しみこそ消えてはいなかったが、美月や隆幸達と共に過ごせたことで、
多少なりとも癒されつつある。
…そう考えると、やむを得ない状況だったとはいえ、一人にしてしまった洋一に
対して、美幸は少し申し訳ない気持ちになった。
「…由利子の墓も仏壇も、やっと用意が出来てね。
今は私が手入れをして、毎日、欠かさず手を合わせてはいるんだが…。
こういう言い方は、少々、卑怯なのかもしれないが…これからも、由利子の面倒を
見てやってくれないかね? その方が…きっと、あれも喜ぶだろう」
洋一が高齢ということもあって、墓も通いやすいようにと、夏目家の代々のもの
とは別に、近場に建てることになっていた。
夏目家へと戻ってきて欲しいのは勿論だったが…洋一の本当の頼みというのは、
由利子の墓と仏壇の手入れを美幸にお願いしたいというものだった。
洋一のその頼みを聞いて、美幸は静かに目を閉じて夏目家を思い出してみた。
初めに、由利子の部屋を思い浮かび…悲しい気持ちが込み上げてくる。
だが、同時に由利子と笑いあった記憶が過ぎることで温かい気持ちにもなれた。
その後も色々な場所を思い浮かべたのだが…全て結果は同じだった。
由利子を亡くした悲しい気持ちが、すっかり消えてしまったわけではないので、
思い出して辛くないかと言えば、嘘になる。
ただ、それ以上にあの家には楽しい思い出も沢山あったのも事実だった。
裏庭では、一緒に折り紙をして遊んだ。
居間では、皆で騒がしく食事をした。
書斎では、目的の本を皆で探した。、
台所では、夏目家の味を教わりながら、料理を作った。
今では最も辛く感じる、由利子の部屋―――
そこでは―――友人4人で、一緒になって幾度となく笑い合った。
「……………」
「…やはり、まだ難しいかね?」
無言で思案する美幸に、遠慮がちに洋一が尋ねる。
…しかし、目を開けた美幸は、どこかすっきりとした表情になっていた。
「…いいえ。もう大丈夫そうです。
明日にでも、そちらに戻らせていただきます。
…なんだか、私も急に由利子さんに会いたくなりましたから」
「! そうか…。…ありがとう。待っているよ」
涙すら浮かべて喜ぶ洋一を見て、美幸は改めて自分の判断が正しかったことを
確信した。
生前の由利子は、事ある毎に自分が亡くなった後の洋一を心配していた。
『あの人は本当に、いつまで経っても寂しがり屋だから…』と。
自分が夏目家に戻ることで、洋一の寂しさが多少なりとも紛れるのなら、天国の
由利子も、きっと喜んでくれることだろう。
「ああ! そうだった。それなら、これを渡しておかないといけない」
突然、何か思い出した素振りを見せた後、洋一は鞄の中から取り出した物を美幸
に差し出してくる。
「……これは…」
そうして、洋一から手渡されたのは……あの赤い日記帳と、その鍵だった。
「…由利子からの伝言でね。
『これは大事な物だから、ちゃんと美幸ちゃんが持っていてね?
それから、中身は私達4人だけの秘密よ?
他の誰かに見せるのは恥ずかしいし、駄目なんだから』と、いうことだよ…」
美幸は手渡された日記帳を少し見つめた後、ぎゅっとそれを胸に抱き締めて…
また、涙を流した。
「生前の由利子に、その日記帳について言われていたんだよ。
『自分が死んだら、美幸ちゃんの悲しみが落ち着いた頃に渡して欲しい』と。
それから、ついさっきも言ったが、中身は4人だけ…
美幸ちゃんと遥ちゃんと莉緒ちゃん、それから由利子だけの秘密らしいからね。
また後日にでも、遥ちゃん達と一緒に中を確認してやってくれ。
わざわざそんな言い回しをしていたんだ。
あの由利子のことだ。何かを君達に書き残しているんだろう…」
「……うっ………ぅぅ……」
今も涙を流し続ける美幸に、洋一は以前からずっと伝えたかったことを、改めて
言葉にする。
「美幸ちゃん…由利子と友達になってくれて、ありがとう。
私達くらいの歳になるとね…どちらかが亡くなってしまったり、疎遠になったりで
“友人”というものとは、縁が無くなっていってしまうものなんだが…。
君達3人は、由利子にとって最後の最後に出来た、人生最高の親友だった。
本当に―――ありがとう」
「……う…うわあああぁぁ…!」
その洋一の言葉を切欠に、本格的に泣き出してしまった美幸…。
すぐさま、そんな美幸を抱き締める美月も、目を赤くしていた。
「それでは、私は一旦帰らせてもらうよ。…美月ちゃん、美幸ちゃんを頼むね?」
「…はい、わかりました」
震える声で、なんとかそう返す美月に、笑顔で頷く洋一…。
傍らに居た隆幸は、そんな洋一の笑顔の瞳の中に寂しさと嬉しさを見出していた。
…きっと、目の前で悲しむ美幸という存在は、夏目夫婦にとって、ある種の“救い”
でもあるのだろう。
居なくなってしまったことを、こんなにもまっすぐに悲しんでくれる…。
それは、他の何よりも価値があるものなのだろう。
―――この翌日、言葉の通りに美幸は夏目家に戻ることとなった。
基本的に洋風の造りになっている夏目の家の一室にある仏壇は、何ともいえない
違和感を醸し出していたが…。
それが何となく、どこか茶目っ気のあった由利子らしい気もして…ほんの少し、
笑ってしまう美幸。
美幸がゆっくりとその前に座り、線香をあげて静かに手を合わせると―――
由利子が穏やかに笑って『おかえりなさい、美幸ちゃん』と言ってくれたような
―――そんな、気がした。




