幕間 その16 神はその時、何処にいたのか
突然の訃報に、美幸は置いて行かれたような感覚になってしまっていた。
『由利子が亡くなった』という情報を得てから、既にもう幾日かが経っているにも
かかわらず、今もその実感は全く湧いてこない。
由利子は、亡くなる少し前に風邪を引いたような体調不良になっていたのだが、
その状態から容体が急変し、すぐに息を引き取ってしまった。
そして…そんな状況もあって、残念なことに誰も由利子の死に目を看取ってやる
ことが出来なかったのだ。
しかし、美幸にとってはそれが良くなかったらしい。
美幸は心のどこかで『人が死ぬ瞬間』というのは、身内の皆に看取られながら、
涙に囲まれて迎えるものなのだと、勝手に想像していた。
だから、なのだろう。
突然『亡くなりました』とだけ伝えられるのは、感覚的に想定外だったのだ。
(私…結局、昨日は泣けませんでしたね…)
そんな理由からか…昨日、通夜を終えた後も、美幸の瞳からは一滴の涙も流れる
ことは無かった。
洋一や美咲達は勿論、遥や莉緒も涙を流す中で、どこかテレビ画面の向こう側の
出来事のように感じられたのだ。
(他の皆さんが言う通り…
やはり、私は『所詮はアンドロイド』ということ…なのでしょうか?)
由利子は、洋一と共にアンドロイド開発に革命を起こした人物だった。
開発自体はされていたものの、実際の実用化は難しいだろうとされていた生体素体
の実用化を可能にしたのが、夏目夫妻だったからだ。
それまで機械の塊だったアンドロイドに人のぬくもりを持たせたその研究成果は
世界的に注目され、そして大いに評価された。
だからこそ、洋一は一研究員にもかかわらず、当時、新しく出来たばかりだった
国立研究所の所長に大抜擢されたのだ。
そんな、偉大な研究の立役者である由利子の葬式…ということで、この2日間の
葬儀にはカメラも設置され、その様子は全世界の研究所にも中継されていた。
これは、立地的に参列出来ない海外の研究者も、共にその死を悼むための処置…
だったのだが、この時、同時に世界中の研究者は密かに美幸にも注目していた。
MIシリーズが既に発表されたとはいえ、研究者の中には、プロトタイプである
美幸が最も優れているという評価をしている者も少なくなかったからだ。
しかも『親しい人物が亡くなった際の反応』という、由利子の世話をする試験を
行った際の建前としての研究目的も、由利子が想定以上に長く生きたために保留に
なっていたのだから、ある意味で研究者としては当然の反応ではあった。
…しかし、そんな美幸に注目していた研究者達も、昨日の通夜が終わる頃には酷く
落胆した様子だった。
そして、彼らは口々にこう言っていたのだ―――
―――『やはり所詮はアンドロイド。結局は泣きもしないのか…』と。
その心無い言葉は美幸の耳にも届いてしまっていたのだが…。
実際に泣けていない以上、美幸は反論することも出来ず、ただただ…そんな自分を
自己嫌悪するのみだった。
(ですが…何故、こんなにも実感がないのでしょう?
私はアンドロイド…深刻な状況の把握が適切に出来ないというのは、かなり致命的
なのではないでしょうか?)
今日は告別式…。
これを終えたら由利子の身体は火葬され、本当に…永遠に別れることになる。
式も終盤に差し掛かり、司会に促されて美咲と美月に続き献花に移る美幸。
由利子の眠る棺の中に、係員から渡された花を…そっと添える。
その時…不意に『もう一度、その手に触れてみたい』という衝動に駆られた
美幸は、本当に何気なく―――指先でそっとその手に……触れた。
“かさり”
乾いた音と共に、由利子の身体全体が揺れた。
その様子を見て、すぅ…っと美幸の全ての感覚が、不意に遠くなっていく…。
そして…どこかぼうっとしたままで、隣に立っていた美月に問いかけた。
「…美月さん、由利子さんとは…もう、お話できないんですか?」
「……ぇ…?」
『もう通夜も済んだ今頃になって、何を言っているのだろう?』
そう思って振り返った美月は、その時の美幸の表情に強い既視感を覚えた。
これは……そうだ。確か…4度目の試験の際、雨が降る中で失ってしまった自分
の髪を見下ろしていた……あの時の雰囲気に似ている。
美幸のその様子に、ある種の“危うさ”を感じ取った美月は、努めて優しい口調を
意識しながら、慎重に答える。
「そうですね…。もうお話は出来ません。
…こうして見ると、ただ眠っているように見えるかもしれませんが…
もう……おばさんは2度と目を覚まさないんですよ…」
その美月の諭すような言葉を耳にした美咲は、反射的に美幸を見つめた。
そして…それが功を奏して、なんとかその身を押さえるのに間に合った。
―――美幸が突然、棺から由利子の身体を引き起こそうとしたのだ。
「ちょ…美幸っ…やめなっ…! 美月っ! アンタも美幸を止めて!」
棺を挟んだ正面から美幸の二の腕を掴んでその行動を咄嗟に止めた美咲は、美幸
の隣に立っていた美月にも、由利子から遠ざけるように指示を出す。
「あ…は、はいっ! 美幸ちゃん! 少し落ち着いて下さい!」
一瞬だけ反応が遅れた美月は、美咲の声に促されて美幸の肩を後ろから掴むと、
慌てて美幸を棺から引き離そうとした。
「離してくださいっ! 由利子さんを…! 由利子さんを起こさないと!」
「だ、駄目だよ…美幸っ! いきなりどうしたのさ!?」
この時、まるで実感の無かった美幸には、心のどこかで由利子はただ眠っている
ように思えていた…。
病気で眠っていることが多かった由利子の姿を日常的に見ていた美幸は、無意識
のうちに、『次は何時頃目覚めるのだろう?』と考えていたらしい。
だが、何気なく触れたその手の硬さ、冷たさ…。
その、生者にはありえない感触に、唐突にその実感が一気に遅れてやってくること
になってしまったのだ。
そして、その一瞬で悲しみが溢れた美幸は、自らの感情の制御が利かなくなり、
一時的に思考能力が極端に落ち込んでしまったため、美月に対してあんな質問を
投げかけていたのだ…。
これがもしも美幸にとって初めての経験だったならば、あるいは告別式が終わる
まで呆然としていただけだったのだろう。
しかし、幸か不幸か…以前の髪を失くした時の経験があったため、美幸のAIは
同じ状態に陥ることを避けるために、自動的に感情の過度な抑制を改善し、通常の
思考能力を無理やりに引き戻してしまったのだ。
そして…思考能力が戻った美幸には、今の状況はあまりにも刺激が強すぎた。
頭に浮かんだ言葉が―――そのまま、全て外に出て行ってしまう。
「だって…! だって、私っ! まだ、ちゃんとお別れを言ってませんっ!
ちゃんと手を握って『さよなら』って言うって! そう、約束してたんです!」
「……っ…!」
その美幸のその台詞に、かける言葉を失う美咲…。
それは、この3ヶ月の入院生活の間に、密かに美幸と由利子の間で交わされていた
ささやかな約束だった。
他の誰も知らない、美幸と由利子のみが知る…。
…ささやかで…とても大事な約束。
「まだ…まだ、伝えてないんです!
『ありがとうございます』って! 『忘れません』って!
私、言うって決めてたのにっ! 全部…全部、まだ伝えていないんです!」
「……きゃっ!」
そう言って、暴れる美幸の予想外の力に、美月は突き飛ばされてしまった。
しかし、そうしている間に正面から回りこんできていた美咲が、代わりに美幸を
押さえ込みにかかる。
今の美幸は明らかな錯乱状態だった。
これがドラマや映画に倣うのなら、思い切り頬を叩いてでも正気に戻させるのが
きっと正しい判断なのだろう。
…だが、美咲にはそうは出来なかった。
目の前の美幸は、昨日の通夜が嘘のように泣き喚いていた。
あの短期留学の最終日と同じか…或いは、それ以上に。
…だからこそ、美咲は思ってしまったのだ。
『この涙は強引に止めるべきものじゃない。私が受け止めてあげなければ』と。
その一瞬の間に悩んだ結果、美幸の行動を止めつつ、全力で泣かせてあげられる
ようにと、美咲は押し倒すような勢いで、ぶつかるようにその身を抱き締めた。
だが、その美咲の行動にもなんとか倒れずに踏みとどまった美幸は、それでも
大人しくはならず、先ほどの美月のように振りほどこうとしてくる。
「美幸っ! わかったから! だから…今はちょっと落ち着きなさいっ!」
「っ…離してください! 美咲さん!」
「駄目だ! もう駄目なんだよ美幸! おばさんはもう目を覚まさないんだ!
もう無理なんだよ! それが“死ぬ”っていうことなんだっ!」
暴れ続けていた美幸だったが、先ほどの美月とは違い、今度はしっかりと正面
から抱きつかれているため、腕すら動かせない状態ではどうしようもない。
どう暴れても、もう美咲を引き剥がせないと理解したからか…。
美幸は徐々に抵抗を緩めていき……やがて諦めて、大人しくなった。
…すると、美幸は美咲に抱きつかれたまま、多少、落ち着きを取り戻した様子で
ぽつぽつと話し始める。
「……そんなの…そんなの、分かってます…。
そんなの…私にだって、本当はわかってるんです…!
でも、こんなの…あんまりじゃないですか!
由利子さんは良い人でした!
優しくて、楽しくて…何度も私を救ってくれました。
……なのに……それなのにっ!
どうして、一人きりで死ななきゃいけなかったんですか!
皆に囲まれて…もっと温かい最期でも良かったはずじゃないですか!
神様は…一体、何処で何をしていたんですか!
こんなの…こんなの認められるわけがないじゃないですかぁっ!」
静かな話し始めから、最後には再び叫び声…というよりも金切り声に近いものと
なった、その美幸の慟哭は…広い葬儀場の隅々にまで響き渡った。
「……うぅ…………ひっく…………」
心の中に湧きあがった感情の全てを一気に吐き出した美幸は、強張っていた体
から力を抜くと…美咲の服をぎゅっと掴んだまま静かに泣き始める。
「美幸!」
「美幸ちゃん!」
美幸が大人しくなったところで、遥と莉緒の2人が弾かれたように勢いよく走り
込んで来ると、覆いかぶさるようにその背中を抱き締め、今度は3人一緒になって
泣き始める。
そうして…美咲にしがみつくようにして、3人の少女が棺の前で抱き合って泣き
始めると…徐々に葬儀場内に変化が起き始めた。
「う…っ…うああああぁぁ…ん…」
「ぐすっ……ぅ……うああぁぁ…」
葬儀場内の他の参列者達が、次々と声を上げて泣き始めたのだ。
『葬儀』というのは、公の場だ。
だからこそ、親族以外には、軽く涙を浮かべる者は居ても、我を失ったように号泣
するような人物は少ない。
皆、故人との別れが悲しくないわけではない。
だが、どこか平静を装ってしまったり、または親族よりも大きな声で泣くことを
遠慮してしまうような…そんなところがある。
それがどうだろう。
参列者の全員が…というわけではなかったが、葬儀場内で生前の由利子をよく知る
人物を中心に、まるで子供に戻ったかのように周囲の目を気にすることなく、大声
で泣き始めたのだ…。
それまでは喪主として悲しみを感じながらもなんとか堪えていた洋一もその例に
漏れず、美幸の言葉を切欠に思わず声を上げて泣き崩れてしまった。
大きな葬儀場が揺れるかのような、その泣き声の大合唱に、美月もまるで幼い日
の両親を亡くした時のように、大泣きし始める…。
そして…今回はそんな妹の声に負けないほどの勢いで、美咲すらも泣いていた。
この時、確かにその場の全員が…ただ純粋に由利子との別れを惜しんでいた。
そこには、自らの体面や恥などを気にする者など……唯の一人も居なかった。
そんな、突然の異常な事態に、葬儀場の関係者は焦り、うろたえることになって
しまったが、やがて落ち着いた洋一がマイクでその場の参列者にも一旦は落ち着く
ように訴えて状況を立て直し、なんとか告別式自体は無事に終えることが出来た。
その後も、火葬場でなかなか棺から手を離そうとしない美幸の姿に、周囲の人々
は再び涙を流すことになった。
そして…もう、この頃には美幸のことを『所詮はただのアンドロイド』とは誰も
言わなくなっていた。
沢山の“人間”が居る中で最も悲しみ、誰よりも素直に心の内を訴えたあの姿を
馬鹿に出来る者など、その場には存在しなかったからだ。
たとえ意識的にでも、あんなことを堂々と言える者など、そうは居ない。
良識を持った大人らしくしようと澄ました顔をしていた者達が『所詮は…』など
と馬鹿に出来るはずがなかったのだ。
そして、この日を境にして、美幸は密かに研究者の間で…こう呼ばれるように
なっていく。
―――『人が創り、人を越えた、唯一のアンドロイド』と。




