閑話 その5 美咲の企み
「こうなったら…もう、可愛い甥っ子の顔でも見て和むしかないね。
美月…よしよし君は? 今は何処に居るの?」
「なっ…! 姉さんっ! あの子の名前は『よしよし』じゃありません!
『佳祥』と書いて『よしひろ』って読むと、何度も言ってるじゃないですか!」
莉緒の『ゆりりん』呼びレベルの愛称のつけ方だったが、命名後に早くも美咲に
よって愛称が付けられてしまった、美月の息子。
だが、通常なら愛称とは親しみの表れであり、ここまで食って掛かるほどのこと
ではないはずだった。
…しかし、佳祥に関して言えば、少しだけ事情が異なっていた。
「いや、だってさー…。
佳祥君の『祥』って漢字に『ひろ』なんて読みがあるなんて、初めて知ったよ?
一般的な感覚でそのまま読んだら、『よしよし』になるでしょうが」
「うっ…で、ですが、名前に付ける分にはちゃんと『ひろ』って読むことも出来る
漢字ですし、特別おかしいというわけでもないんですよ?」
そうなのだ。
美咲が指摘した通り、佳祥の『祥』の文字は『よし』という読みの方が一般的で、
普通に読む分には、『ひろ』だとは思われない場合が多い。
完全な当て字と言うほどではないものの、一目で正しく読むためには、一定以上
の漢字の知識を要求する名前であることは確かだ。
だからこそ、安易に周囲が『よしよし』と呼び続ければ、本来の名前の読み方を
知らない誰かが聞いた際、本名を『よしよし』なのだと勘違いする可能性は十分に
あったのだ。
「まぁ、名前自体は私も悪くないと思うけどさ…。
そんなにムキになるんなら、違う漢字にすれば良かったじゃないか」
「姉さん…それは、本当の理由が解っていて、敢えて言っているでしょう?
まったく…姉さんはそういうところが意地悪ですよね…」
「フフッ…当然だよ。
…というか、私も他人のことは言えないけどさー…。
美月…アンタも大概、親バカだよねぇ…」
「…それは、本当に姉さんには言われたくありませんね」
どこか照れたような顔をしつつ、少しだけ拗ねた口調で美月は続ける。
「…仕方ないじゃありませんか。
あんなに良い子が傍に居たんじゃ…誰だって私と同じように思うはずです。
『お腹の子も、こんな風に育って欲しい』って…」
「まぁ…それはそうなんだけど、ね」
佳祥の『佳』の持つ漢字の意味は―――『美しいもの』。
そして、『祥』の持つ漢字の意味は―――『幸い』。
漢字の意味する文字を続けて書いてみると…。
…つまるところ、まぁ…そういうことだった。
「それじゃ、改めて聞くけど…その佳祥君は? 今、何処に居るんだい?」
「今日は美幸ちゃんと一緒に洋一おじさんの家に居ますよ。
今日は遥ちゃんも来るらしいですし、今は皆で昼食でも食べている頃なんじゃない
でしょうか?」
毎回研究所に連れて来るわけにもいかないということで、美月は出勤してくる日
には夏目家に佳祥を預けることが多かった。
勿論、病床の由利子に預けるというわけにもいかないため、その日は美幸が美月
の代わりに面倒を見るために夏目家で過ごすことになっている。
幸い、夏目家は研究所からさほど離れていないこともあって、美月自身も仕事の
合間にさっと様子を見に行きやすい。ちょうど良い立地だった。
「あっ…おじさんめ! だから、私に留守番を頼んできたのか! 嵌められた!」
「ああ…クスクスッ…。成る程…だから今日の所長は『外食』だったんですね?」
最近は体調が安定していることもあって、由利子の食事の用意は、美幸と洋一、
それから美月に真知子の4人が交代で行っていた。
しかし、今日は遥も集まる予定になっているので、美幸が準備することになって
いたのだが…。
どうやら責任者としての立場を一時的に美咲に押し付けることで、孫達と一緒に
楽しい昼食を満喫しているらしい。
「…それにしても、美幸は本当に喜んでるよね。
『弟です! 私、お姉さんになりました!』って。甲斐甲斐しくお世話してるし」
「はい。私もとても助かっています。
その子守りも、美幸ちゃんになら安心して任せられますからね」
美幸が見た目通りの学生なら手放しに任せるのは心配になるのだろうが、そこは
やはり介護にも多用されている、最新型のアンドロイド。
知識も対応も、下手な家政婦などよりも、正確なものが期待できる。
「…ふむ。…うんうん……なるほど」
「? 姉さん、どうかしましたか?」
急に何かを考え込むようにしている美咲の姿に、美月は一抹の不安を抱く…。
よく見ると、美咲の口元が微かに笑っていた。
これは良くない兆候だ。…今度は何を企んでいるのだろうか。
「…よし! この線で行こう! 留守番を押し付けられた恨み…晴らすべし!」
「ああ…おじさんですか…」
美月は洋一には少しだけ悪いと思うものの、対象が佳祥や美幸ではなかったこと
にホッとしていた。
それに…ある意味、洋一が美咲に振り回されるのはいつも通りなのだから。
「…物凄く興味が無さそうだけど、これは美月も無関係じゃないよ?」
「それは別に構いませんが…美幸ちゃんや佳祥に何か悪影響があるというのなら、
たとえ相手が姉さんでも…容赦しませんよ?」
「ひぃっ! 美月…笑顔が怖いよ!?」
美咲にはニッコリと微笑んだ美月の背後に、何か危険な空気が見えた気がした。
2年以上前になるが、確か美幸の素体が完成した時に必要以上に隆幸をからかった
時にも、似たような雰囲気になっていたような気がする…。
「なんか、キレるのがいつもより早くない…?」
「親として、我が子を守るために警戒しているんです。
姉さんに限って、誰かが不幸な結末になるようなことにはしないでしょうが…
時々、その手段や経緯が突拍子も無いことがありますからね」
「母は強い…って聞くけど、美月は本気で怒らせると怖いからなぁ…」
そういえば…と、以前に美月がパイプ椅子で洋一を殴打しようとしていたこと
を不意に思い出した美咲…。
…改めて意識した、妹の密かな危険性に戦慄する。
「だ、大丈夫だよ。今回はそんなんじゃない。誰もが幸福になるだろうことさ。
ただ…まぁ、おじさんには色々と頑張ってもらうことになるだろうけどね?」
「それなら、別に良いんですが…」
その言葉を聞いて一瞬で危険な空気が消え去った美月を、横目で確認しながら…
美咲は、とある結論に思い至った。
“被害が洋一に留まるならば…”と、躊躇無く洋一を切り捨てる美月…。
やはり、一番恐ろしいのは我が妹なのではなかろうか…と。
「それで…話とは何かね? 原田君」
昼食を終えた洋一は、研究所に戻って来てすぐに美咲から内線で時間を作って
もらえるように頼まれたため、そのまま所長室に来るように答え返した。
急な話ではあったのだが、幸いこの日の洋一には急ぎの予定も無かったので、
早速、話を聴くことにしたのだ。
「いや、所長。わざわざお時間を作って頂いて、ありがとうございます。
…ですが、まず本題に入る前に。…所長、本日のお昼はどちらで?」
「ん? あ、ああ………ちょっと、そこの喫茶店でね、オムライスを―――」
そこまで洋一が言いかけたタイミングで、美咲と共に所長室を訪れていた美月
が、口を挟んでくる。
「所長。姉さんは所長が丁度、車でこちらに向かっている最中に、美幸ちゃんへ
電話をかけて、既に事実の確認済みなんです。
だからですね…洋一おじさん。ここで下手な嘘は、逆効果ですよ?」
「……え゛?」
美月のその発言に、ピタリ…と動きを止めた洋一。
そんな洋一の顔を覗き込むようにしながら、美咲は笑顔で更に質問を投げかけた。
「…所長、私に留守番を押し付けてまで皆で食べた美幸お手製のオムライスは…
美味しかったですか~?」
「…ぐっ……す、すまん。…どうか許してくれ、美咲ちゃん」
裏を取られている以上、素直に観念するしかない洋一は早々に白旗を揚げた。
…流石に『今日は美咲ちゃんに留守番を押し付けて来たよ、ハッハッハ!』とは
とても言えないので、確認を取られたら一発でアウトになってしまう…。
「いえいえ…良いんですよ? 別に。ただ…
所長が美味しくオムライスを頬張っていた間に思いついたことがありましてね?」
「……う、うむ。…言ってみたまえ」
なんとかそう返答した洋一だったが…
口調こそ上司の威厳を保ってはいたものの、表情は既に“敗者”そのものだった。
「それなんですがね? 突然ですが、美幸の次の試験についての話なんですよ」
「美幸ちゃんの試験…? いやいや、原田君。…君は何を言ってるんだ。
『MIシリーズ』も好評だったことだし、次の試験は暫くは実施を見送るという話
だったじゃないか」
…『MIシリーズ』とは、先日発表された“心を持つアンドロイド”の総称だ。
美幸の個体識別コードが『MI-STY』であることから、新型アンドロイドの
型番として『MI-01』等といった形でのナンバリングがされているため、この
名前がつけられたのだ。
そして、製作計画を発表するにあたって作られた量産機の試作第一号が、去年の
11月に披露されてからというもの、その研究の評価は鰻上りにあがっていった。
当然、それに併せて美幸の試用試験の結果も大いに評価されることとなった。
ただ…国側としては、この流れに乗って新型アンドロイドを全世界に売り込んで
いきたいということで、今は特に新しい試験を望んでいるわけではないらしい。
ぶっちゃけると『今は開発より宣伝と販売が大事なので、相手をしていられない
から、やりたいなら勝手にどうぞ?』という回答をもらっている状態だった。
そこで、つい先日、美咲達は皆で話し合って『その功績を称えて、美幸に長期の
休養をあげよう』という決定を密かにしていたばかりだった。
「ええ。勿論、覚えてますよ。私が提案したようなものですし…当然でしょう?」
「……今回は何を企んでいるんだね?」
流石に、もう付き合いの長い洋一。
美咲のその表情から『また無茶なことを言われるのだろう』と、予想出来た。
…そもそも、隆幸や美幸本人を同席させていない地点で、かなり怪しい。
唯一の救いは、後ろの美月が特に美咲を止めていないことだ。
良識派の美月が事情を知っている様子なのに口出ししてこないのなら、少なくとも
悪い提案ではないのだろう。
だが…状況的に見て、洋一にとっては都合が悪いことなのかもしれない。
「『企んでいる』なんて…心外ですね。
私は現状を上手く利よ……活用して試験にしようと思っただけ、ですよ?」
「原田君、今…『利用』って、言おうとしなかったかね?」
「…何のことですかね? よくわかりません」
「ああ、もう分かった! 良いから、とりあえず言ってみたまえ。
それが納得できる内容なら、私も全力で協力することを約束するよ」
「ありがとうございます。…その言葉が聞きたかったんですよ」
回りくどい言い方に観念した洋一から、遂に本題を切り出す前に『協力する』と
いう言質を取ることに成功した美咲は、意気揚々と内容を話し始める…。
そして、後ろで一連の会話を眺めていた美月は、『おじさんも甘いですね…』と
小さな声で呟いていた。




