幕間 その10 悩める少女、美月
「はぁ…」
新型AI開発の基礎データを作るために研究室を訪れていた美月は、昨日一日の
出来事とその時の心情や行った対処…と言った詳細情報を入力し終えたところで、
その内容を自分で再確認して、深い溜め息を吐いていた。
「何か…悩み事かい?」
パソコンの画面を挟んだ向こう側から、隆幸の声だけが聞こえてくる…。
美月はその言葉に反応するや否や、見事としか言えないような早業で入力した内容
を保存し、すぐにパソコンをシャットダウンさせた。
…自分の心の内を包み隠さず入力しなければいけないこの研究に協力するにあたり
美月が出した最低条件は、姉である美咲も含め、最終段階に差し掛かるまでは一切
その内容を他の人間が閲覧しないことだ。
その美月の意見を受けて、『いくら大人びた雰囲気だろうと、美月もまだ思春期
の女の子。姉が相手とはいえ頭の中を覗かれるのを嫌がるのは当然だろう』という
美咲の判断で、その入力データは数年後の最終調整の時まで、本人以外には秘密で
構わないことになっている。
国家的に重要なプロジェクトであり、失敗が許されない研究で、そういった対応
をすることに対しては、若干ながら物議を呼ぶことになったのだが…。
最終的には当時の美月の立場が一般の学生であったこともあり、その辺りの話は
美咲の美月への信用を理由に、現場の判断に委ねられることになったのだった。
そんな事情もあり、当時の美月のデスクは壁を背にした端の位置で、直接は画面
が見えないように、隆幸のデスクは向かい側という配置になっていた。
…そして、この時の美月はその配慮に深く感謝していた。
―――ここ最近のデータは、姉の美咲は勿論、隆幸にも見られたくはない。
「…少し話もしたいし、ちょっとそっちに行っても大丈夫かな?」
「え? ああ、はい。大丈夫です。もう今日の入力分は終わりましたので…」
「もう終わったのかい? 相変わらず早いね…。
流石はチーフの妹さん…という言い方は、少し失礼だったかな?」
「いいえ。そんなことはありませんよ。
私がこういう作業に慣れているのは、姉の影響もありますから…」
自分の席から立ち上がってこちらに向かいながらそう言ってくる隆幸に、美月は
『気にしないで下さい』という意味も込めて、僅かに微笑みながら答えた。
隆幸は美月が中学生だからといって、決して子供扱いはしてこない。
だからといって、下心を感じる…ということでもなく、適度な距離感を保ちつつ、
至って誠実に接してくれていた。
「チーフ…お姉さんに言い辛い悩みなら、僕でも聞くぐらいは出来るよ?
…まぁ、解決までは補償出来ないけれど」
少しおちゃらけた様子を交えながら、隆幸は美月にそう切り出してきた。
実際、ここ最近では学校での出来事などで悩みを抱えた時は、隆幸に聞いてもらう
ことも多くなってきている。
それこそ初めの一年半近くは警戒しっ放しで、にこやかに挨拶されても頭を軽く
下げる程度で、隆幸とは碌に口も開かなかった美月。
それでも毎日、顔を合わせる度にきちんとこちらを向いて挨拶をしてくれていた
隆幸のことは、内心では高く評価していた。
そういう好印象もあったのだろう。
打ち解けてからは、割とすぐに隆幸とは比較的良好な関係を築くことが出来た。
確かにクラスメイトとの女性同士の微妙な人間関係の悩みなどは、隆幸には解決
が難しいこともあり、これまでもそういった話の時には軽いアドバイスをもらえる
程度で、結局は美月が一人で悩んで出した結論とそう大差がないこともあった。
しかし『話すだけでもスッキリするよ?』という隆幸の言葉通り、吐き出すだけ
でも意外と心のつっかえが取れるような気がするのも確かだった。
特にこの時期は、あと少しすれば美月も受験生の仲間入り…ということもあり、
小さな悩みも含めればいくら相談しても足りないほどだ。
「あ、ええっと…大丈夫です。
今日は特に急いで作業したので、少し目が疲れただけですから…」
「…そう? それならいいんだけれど…遠慮はしなくてもいいよ?」
その言い回しで、“本当は悩んでいるのに誤魔化した”ことに気づかれていると
何となく察する美月…。
…相変わらず、洞察力の鋭い人だ。
これは、本当に感づかれないように気をつけねばならないだろう。
「…はい、ありがとうございます。
またその時には、遠慮なくご相談させて頂きます」
「うん、わかった。
本当に何時でも大丈夫だよ? こう見えて、僕は意外と暇なんだ」
「クスクスッ…。
それ…姉さんが聞いたら、ここぞとばかりに書類の山を押し付けてきますよ?」
「あー…それは困るなぁ…。
美月ちゃん、今のは2人だけの秘密にしておいてくれるかい?」
「クスッ…はい、わかりました」
よく話すようになって分かったことだが、隆幸はこういう会話のやり取りで嫌味
にならない程度にはユーモアを交えて話せる人物で、ただの雑談であっても意外と
楽しませてくれる。
「そういえば、以前から気になっていたんですが…
高槻さんは、どうしてアンドロイドAIの開発に携わろうと思われたんですか?」
「…ええっと、それは……そうだね…。
アンドロイドが進化すれば、将来が明るくなりそうだったから…かな?」
一瞬迷うような暗い表情を見せた後、美月にそう答え返した隆幸。
しかし、この時の美月には思案しているようにしか見えなかったため、その一瞬
に垣間見せた隆幸の様子に気付けてはいなかった。
「将来…ですか?
それは、よく聞く『アンドロイドAIの開発が切り開く世界が、未来を変える』と
いったことでしょうか?」
美月が口にした『アンドロイドAIの開発が~』とは、研究を続けていくために
研究所が掲げている意義…つまり、研究費を国に捻出してもらうための建前だ。
莫大な研究費を必要としているにもかかわらず、未だ社会に浸透しているとは
言い辛いアンドロイド研究の分野…。
一定の評価はされているものの、やはり世間からの風当たりはまだまだ強い。
夏目夫妻の研究が世界を驚かせてから数十年。
美月達の母親である原田美雪の研究によって再び世界に注目を浴びるまで、頻繁に
使われていたその言葉は、今現在でも研究者達の間で、まるで合言葉のように飛び
交っていた。
「いや、そういう高尚なものじゃなくてね? 単純に楽しそうかな…と。
将来、アンドロイドが普通に町を行き交うようになった時にさ…
人間が持つ当たり前の感情…友情とか愛情とかそういうものを備えていた方が、
楽しい未来になりそうかな…って思っただけだよ」
「へぇ…。そういう理由だったんですね…」
一応は納得したように見せたものの、その返答は美月には少し意外に感じた。
何故なら、その意見はどちらかというと美咲が言いそうな内容で、隆幸のイメージ
には合わなかったからだ。
先ほどはふざけて『暇だ』などと言っていたが、美月から見ても隆幸は仕事熱心
と言って差し支えないくらいに、この研究に対して積極的に取り組んでいるように
感じる。
そんな隆幸のイメージには『なんだか楽しそう』という、あやふやな動機が何処
かしっくりとこなかったのだ。
…しかし、今の美月にはそんな些細な違和感よりも気になっていることがあった。
「…それじゃあ、その…やはり姉さんの助けになりたかったから…という理由では
ないんですね?」
「……あぁ、そういうことか。
うん…まぁ、ある意味では助けになれれば…とは思っているのは事実だけれど、
特にそういった裏の意図は無いよ。
…そもそも、僕がこの道を志したのは、チーフに会うよりも前のことだからね」
「そうですか…。なんだか、何度もすみません…」
「いいや、構わないよ。チーフは美人だからね。
そういう風に思う人も…というより、大学ではほとんどの人からそう思われていた
みたいだからね。
特に美月ちゃんからすれば大事なお姉さんのことなんだから、そういう意味では、
他の人よりも真剣に考えていて当然だよ。
あ…もしかして、悩みってそういうことだったのかな?」
「え? ああ! いいえ、違います!」
「『違う』…か。…ということは、やっぱり悩み自体はあるんだね?」
「………あ」
隆幸からの急な鋭い指摘に、美月は思わず固まってしまった。
焦ってしまった勢いで、先ほどは存在自体を否定していたはずの“悩み”がある
ことを遠回しに肯定してしまっていた。
「あはは…ゴメンね?
そんなつもりじゃなかったんだけど、鎌をかけるような形になってしまって…」
「…いいえ、構いません」
「…あまり言うと余計なお節介になるから、これ以上はもう詮索しないけれど…
あまり一人で抱え込まないようにね?
男の僕に言い辛いような内容なら、他の人に話すのでも良いだろうし…
それこそ、チーフなんて美月ちゃんが大好きだからね。
どんな悩みだって、喜んで相談に乗ってくれるだろうからさ」
―――その時、不意に出た姉の話題に反応した美月は、とある覚悟を決めた。
「……あの、高槻さん」
「うん?」
「それでは明日、ご相談したいことがあるので…
少しだけ、お時間を作って頂けますか?」
「…うん、わかった。それじゃ、今くらいの時間を空けておくよ」
「はい…。ありがとうございます」
ここ最近の美月の悩み事とは、隆幸や美咲にも深く関わることだった。
そういった理由もあり、本来なら当事者の2人に相談するのは躊躇われる…。
だが、だからといって何時までも一人で思い悩んでいても解決する類のものでも
なかったし…。
まだ随分と先だとはいえ、パソコン内にデータにして残してしまっている以上、
少なくとも最終チェックをするはずの美咲には、数年後には全て知られてしまう
ことになる。
それに思い至った美月は、思い切って悩みの元凶ともいえる隆幸に、直接相談
してみる…という、大胆な策に打って出ることにしたのだった。




