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第71話 美しいもの

「いってらっしゃい、遥」


「ええ。今日も昼過ぎに練習を終えたら、またこちらに伺わせてもらうわ。

まぁ、一旦は家に帰ってからになるとは思うけれど……」


「はい。楽しみにお待ちしていますね」


 7月に入って、数日がたったある日。

最近、よく夏目家へと泊まりに来ている遥は、この日の朝も美幸に見送られながら

学園へ向かうところだった。


「そういえば…。……はぁ。

あの、美幸? 正直に言って、私はあまり気が進まないのだけれど…」


 しかし、不意に何かを思い出したような仕草をみせたかと思うと、遥は溜め息を

吐いて、どこか呆れたような…諦めたような顔をする。

 そして、後ろの美幸を振り返って、その話を切り出そうとした。


…だが、当の美幸は遥のその様子で、何となく誰のことを思い浮かべたのか察する

ことが出来てしまい…話を聞く前から既に笑いそうになってしまう。


…そんな美幸の様子に、遥は眉根を寄せてその顔を不機嫌そうなものに変えた。


「…ちょっと、美幸? あなた……何故、もうそんな顔をしているのよ。

…私、まだ何も言っていないわよ?」


「クスクスッ……ごめんなさい。

ただ……以前に『私の連絡先を教えて欲しいと、しつこく言われて困っている』と

相談された時にも、電話の向こうでそんな顔をしていたのかと思うと……」


 そう言って、小さく声を殺して笑い続ける美幸に『はぁ…』と、再び先ほどより

大きな溜め息を漏らす遥。


「…そこまで言うのなら、用件の中身も分かっているわよね?」


「はい。莉緒さんにも『楽しみにお待ちしています』と、お伝え下さい」


「やっぱり、あなたならそう答えるわよね……憂鬱だわ。

私、今日はここに来るの止めようかしら……」


「クスッ……そんなことを言わないで下さい。

私は遥が来るのだって、きちんと楽しみにしているんですから……ね?」


「…はぁ。まぁ、とりあえず……いって来るわね?」


 本日3度目の溜め息を吐きながら、遥は今度こそ学校へと向かっていった。




 玄関先で遥を見送った美幸は、今度はそのまま由利子の部屋へと向かう。


「遥ちゃんは? 今日も来るって言っていた?」


「はい。いつものようにお昼までピアノを弾いたら来るとのことです。

あっ! それから、今日は莉緒さんも後からいらっしゃるみたいですよ?」


「あら! そうなの? それは賑やかになりそうで嬉しいわ。

じゃあ、今日の日記には4人で遊ぶ内容を書いておかなきゃね」


 由利子は早速、いつもの赤い日記帳に今日の予定を書き込み始めた。


 ここ最近は気力に溢れている由利子は、つい先日の診断でも主治医から良い結果

を聞くことが出来たばかりだった。


 去年の11月には『長くても半年から一年でしょう』と、言われていた余命も、

『この調子なら、あと2、3年は持つかもしれません』と、言ってもらえたのだ。


 医師の話では、しっかり食事を食べられるようになったことと、軽く屋内を歩く

程度だとはいえ、一日中ベッドで横になっていることが少なくなったことで体力が

若干ながら戻ってきたのが、診断の主な理由らしかった。


「そういえば……今日も美月ちゃんの帰りは遅いのかしら?」


「そうですね。恐らくはそうなるかと思います。

先日、ついに新型の素体が無事に出来上がったそうなので……。

今度はそれに合わせて、搭載するAI部分の調整を行っている段階とのことです。

だから、そういう理由で今の美咲さん達はとても忙しいらしいんですよ。

勿論、私としても完成が待ち遠しいのは確かなのですが……。

それよりも、私は皆さんが体を壊してしまわないかが、少し心配ですね」


「ふふふ…。心配しなくても、それは大丈夫よ。美幸ちゃん。

美咲ちゃんが責任者でいる間は、美月ちゃんがハードワークで倒れるようなことは

絶対に無いわ。

私は…それよりも、むしろ美咲ちゃんの方が心配ね」


「え? 美咲さんがですか? やはり……無理をしているのでしょうか?」


 何だかんだ言っても、美咲は責任感が強い性格だ。


 美月や隆幸に負担が掛かり過ぎないように気遣って、自分が多くの仕事を抱えて

しまう可能性も十分にありえるだろう。


…だが、真面目に心配そうな顔をしている美幸に、由利子はあくまでも楽しそうな

様子で、その心配な理由を付け加えた。


「いいえ、違うわ。そういう心配じゃなくて。

美咲ちゃんの場合、美月ちゃんに怒られ過ぎて倒れるかもしれないじゃない?」


「…え? …ぷっ……クスクスッ……。

そうですね! それは、私もとっても心配です!」


 美咲はどんなに忙しくても、職場の空気を明るくするためにわざとふざけようと

するところがある。


…そして、その大体は美月のお説教で結末を迎えるのがお約束となっていた。

美月に叱られている美咲の姿を思い浮かべて、美幸は可笑しくなって笑う。



―――そうして、明るく笑っている今の美幸の姿は…一見すると、もう何の憂いも

無いかのように感じられる…。


 だが…そんな美幸に対して、由利子はこれまで意識的に避けていた“ある言葉”を

含んだ台詞を投げかけた。


「そういえば…。ねぇ…美幸ちゃん。

美咲ちゃんの髪が、なんでショートカットなのか…知ってるかしら?」


 由利子が『髪』という言葉を口にした、その瞬間。

美幸の顔から、先ほどまでの笑みが一瞬で消え失せた…。


 そんな美幸を見て、由利子は『やっぱり…』と内心で呟いた。


 あれから日が経ち、周囲には元気を取り戻したように見せていても、どこか無理

をしているように感じられていたのは、どうやら気のせいではなかったらしい。


「…美咲ちゃんの髪ね、本当は以前の美幸ちゃんよりも長かったのよ?」


「えっ! そう……なんですか?」


 ショックを受けた様子を見せつつも、きちんと反応を返す美幸を確認しながら、

由利子は話の続きを口にした。


「ええ。あれはね? 実は美月ちゃんが原因だったのよ」


「……………え?」


 由利子の言葉に、美幸は意外そうな声を出した。

てっきり“研究に没頭するのに邪魔だから”といったような、ごく個人的な理由だと

思っていたからだ。


「あれは、みゆきちゃん…ああ、これは“幸”じゃなくて“雪”の方の…美咲ちゃん達

のお母さんの方の『美雪ちゃん』ね?

その美雪ちゃんが交通事故で亡くなってから、すぐの頃だったかしら…。

美咲ちゃんは『お母さんと同じ研究者になる』とは以前から言ってたんだけどね?

それでも…それまでは、まぁ…『勉強熱心な子』っていう程度だったの。

でも、あの頃から急に、取り憑かれたように勉強するようになって…。

それで、お手入れすら面倒がるものだから、髪も随分と痛んじゃってね。

毛先なんて枝毛だらけになっちゃて…もうパサパサ」


「それは……」


 由利子の言葉に驚いた様子を見せる、美幸。

それは、今の美咲からは想像も出来ないことだった。


 今の美咲なら、徹夜で研究所にこもった翌朝に寝癖がついている…ということは

あっても、一度、家に帰って戻ってきた時に、きちんと髪を櫛で梳いて綺麗にして

戻ってきている。


…だからこそ、美幸には今の由利子の話はとても信じられない内容だった。


「そんな時にね? その髪を見た美月ちゃんが『私が姉さんの髪を綺麗にする!』

って言い出したんだけど…。

…でも、当時の美月ちゃんって、まだ8歳でしょう?

初めは枝毛の部分だけを切るつもりだったのが、思い通りにいかなくてね…。

あっちを切って、こっちを切って…ってしてるうちに、美咲ちゃんの髪がどんどん

短くなっていっちゃって…」


 その時の光景を思い出したのか…由利子は可笑しそうに笑う。


…由利子にとって、大切な思い出の1つなのだろう。

懐かしそうなその表情は、とても穏やかで楽しげなものだった。


「気付いたら…ちょうど今の美幸ちゃんくらいの長さになっていたのよ。

それで、流石に申し訳なくなったんでしょうね…。

美月ちゃん…『ごめんなさい』って言って、珍しく大泣きしちゃってねぇ…」


「…………それで…どうなったんですか?」


 経緯こそ違えど、髪を失くした悲しみは今の美幸にはよく理解できる。

その話の先が気になって続きを促した美幸は、無意識に身を乗り出すような体制に

なっていた。


…しかし、深刻そうな表情でそう聞き返してきた美幸に対して、由利子は一貫して

笑顔のまま話を続ける。


「それがね…美咲ちゃんは、そんな美月ちゃんに『ありがとう』って言ったの」


「『ありがとう』…ですか?」


 美咲のその感謝の意味が分からず、首を傾げる美幸。

『ごめんなさい』と謝る相手に『ありがとう』とは、一体どういうことだろう?


 そんな『よくわからない』と、いう顔をしている美幸に、由利子は続ける。


「ええ。美咲ちゃんが言うのにはね?

『髪が痛んで、バッサリ切ろうか悩んでいたけれど、どうにも踏ん切りがつけられ

なくて困っていたんだ』って。『良い切欠になったよ』ってね。

そうしたら、大声で泣いてた美月ちゃんが、やっと笑ってくれてね…」


 きっと、その時の美咲も、いつも美幸にしてくれているように美月の頭を優しく

撫でながら言っていたのだろう…。


 美幸には、その温かな光景が目の前に見えるようだった。


「そう言って美月ちゃんを慰めた美咲ちゃんは、翌日には直ぐに美容院へ行って、

改めて今くらいの長さにカットし直してもらってきたの。

でも、私にはその時の美咲ちゃんの表情は、どこか誇らしげに見えたわ。

当然だけど、『切ろうとしてた』なんて…嘘に決まってるのにね…。

…でもね? きっと…美咲ちゃんにとって、ショートカットで居る自分は、本当に

誇らしかったのよ。“妹の笑顔を守れた”っていう意味で…ね」


 それまで、どこか遠くを見ているような様子で当時を思い出しながら語っていた

由利子は、ここにきて美幸に正面から視線を合わせてくる。


「…ねぇ、美幸ちゃん?

あなたの場合は、自分で望んで切ったというわけではないし…。

その時の美咲ちゃん達とは、事情は随分と違うのかもしれない。

でも、あなたの今のその髪も、誰かを救おうとした…その結果なのでしょう?

悲しいのは当然だし、それは仕方ないけれど…。

…でも、私は今の髪も少しは誇っても良いと思うわ。

確かに、以前よりも短くはなってしまったけれど…。

きっと、その『髪』は――以前よりもずっと“美しいもの”のはずよ?」


「…そう…ですね。……ありがとうございます」


 その時の美幸は、由利子の『以前よりもずっと美しい』という言葉に、どこか

救われたような気がした。


 今までの美幸は、短くなった長さの分だけ、美しさも同時に失われてしまった

のだと…そう思っていたから。


…あれから初めて、美幸は穏やかな気持ちで自らの髪にそっと触れた。


 今、美幸の髪は肩に触れるかどうかという所で、綺麗に切り揃えられている。

自分で雑に切ってしまっていた髪を今の形に整えてくれたのは、その美月だった。


 そして…思い返せばその時の美月も、由利子と同じようなことを言っていた。


『私は今の髪型の美幸ちゃんも大好きですよ。

あなたが自分の娘であることを、私は誇りに思います』と。


…今の美月は、その当時の美咲の心中を見抜いているのかもしれない。


「あ、でも…。…あの、由利子さん。

1つだけ、質問をさせてもらっても良いですか?」


「ええ。構わないけれど…何かしら?」


 そう答えながら、由利子は美幸の表情を観察してみた。

先ほどまで覗いていた暗い雰囲気は、今は綺麗に無くなってしまっている。

…由利子の言葉は、きちんと美幸へと届いたようだった。


 やはり、美幸の心を動かすのには、家族や友人の話をするのが一番らしい。

由利子は、自分がそんな『友人』のうちの1人であることを嬉しく感じながらも、

その質問に耳を傾けた。


「それなら、いつから美月さんはあんなにカットが上手くなったんですか?

今回は私も今の長さに切ってもらいましたけれど、こんなに綺麗ですし…。

美咲さんの髪も、毎月カットしているのを見かけますよ?」


「ああ…。ふふふっ…それはね? 何度も練習したのよ」


「練習…ですか?」


「ええ。毎月、決まった時期になると、あの人の髪型が変わるのよ…。

左右で全然違う長さだったりとか、そもそも、ほとんど髪が残って無かったり…

それでも、上機嫌でそのまま出勤するものだから、部下の研究員の子達も必死に

笑いを堪えてるの。凄く面白かったわよ?」


「それは……。クスクスッ…研究員の方々は大変ですね?」


「ええ。…本当、困った人でしょう?」


 変なヘアースタイルなのに、満面の笑みを浮かべて出勤する洋一を思い浮かべて

2人はしばらくの間、一緒になって笑うのだった。




「…ただいま」

「ごめんくださーい!」


 昼過ぎになると、玄関から2人分の声が聞こえてきた。

遥の落ち着き払った声と…何故か授業中のはずの、莉緒の元気な声が。


「おかえりなさい、遥。

それと…ようこそいらっしゃいました、莉緒さん。

…でも、今日は学校はどうされたんですか?

莉緒さんは、まだ今は授業がある時間帯ですよね?」

                 

 玄関まで2人を出迎えにやってきて、すぐに不思議そうにそう尋ねる美幸。

そんな美幸に…莉緒は先ほどと同じく、元気良く(・・・・)答えた。


「今日の私は体調不良なのです! えっへん!」


「……………………」


 胸を張り、ふんぞり返ってそう答えた莉緒に、美幸はその笑顔を凍りつかせる。


「……本当に体調不良なのでしたら、ご自宅までお送りしますよ?」


「わーっ! 嘘です! 仮病です! ゴメンなさい!」


「莉緒、あなた…一体何がしたいのよ…」


 焦って謝る莉緒を、遥は心底呆れた目で見つめる。

しかし、ふとその視線が美幸に向いた時、遥は少し意外そうな顔をして呟いた。


「…あら、美幸。ちょっと元気になったみたいね。…何かあった?」


「……え?」


「こういうのを“影が取れた”っていうのかしらね…。

今朝、見送ってくれた時と比べると、随分と表情が明るくなったわ」


…どうやら、美幸が思っていたほど、遥には隠し切れていなかったらしい。

由利子にも見抜かれていたようだったし…この様子だと、美咲達も気付いている

可能性は高いだろう。

…まだまだ美幸には隆幸のようなポーカーフェイスは難しいようだ。


「なになに!? 美幸っち、元気無かったの?

そういう時こそ、この莉緒様の出番だよ! 元気のお裾分けだ!」


「……あなた、私には“ちん”付けで、自分は“様”って…。一体どういう了見りょうけんよ?」


「え? あー…そこは、ほら…自分贔屓だよ!」


「クスクスッ……では、遥は莉緒さんに『遥様!』って呼ばれたいんですか?」


「………そうね…ごめんなさい。それは、とても………とても気持ち悪いわ」


「そんな繰り返すほど!? 遥ちん、失礼だよ! 前からずっとだけどさ!」


 一瞬だけシリアスな雰囲気が流れたが、莉緒が会話に入ってくると、すぐに会話

が脇に逸れて、脱線してしまう。

 だが、美幸はそんなとりとめのない会話が嫌いではなかった。


…そして、それは遥も同じだったようで…。

急に真面目な様子になった遥は、莉緒に向かって穏やかな口調で言った。


「でも…本当のことを言うと、私もあなたのその明るさには助かっているところも

あるのは確かよ。…いつも、ありがとう」


「…ぇ………遥ちゃん…」


 突然の遥からの感謝の言葉に、感動する莉緒………なのだと思ったのだが。


「……ゴメン。…遥ちんに真面目に褒められるの………なんか気持ち悪いや」


「…ぐっ………あなたは…。

莉緒? あなた、もう二度と他人に『失礼』って言っちゃダメよ」


 珍しく真面目に伝えた感謝を全否定されて拗ねてしまった遥を、今度は必死で

フォローし始める莉緒。


 しかし、感謝を伝えられた時に、莉緒の口調が『遥ちん』から『遥ちゃん』に

変わっていた事実を美幸は聞き逃さなかった。

…きっと、先ほどの言葉は莉緒なりの照れ隠しだったのだろう。


 いつも通りに遥と莉緒が騒いでいる様子を、楽しそうに眺めていた美幸。

すると、不意に莉緒がクスクスと笑っている美幸を振り返って―――こう言った。


「あ、そうだ…。

前からずっと言おうと思ってたんだけどさ…美幸ちゃん?」


「はい。何でしょう?」


「その新しい髪型、良く似合ってるよ! すっごく可愛い!」


「…! …っ……は、はい! ありがとうございます!!」」 


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