第62話 不登校の克服
「あの……本当に、大丈夫ですか?」
「うん」
心配そうに尋ねる美幸に対し、はっきりとそう答える心矢。
「美幸さん、大丈夫だよ。私も付いてるし!」
「…いや、お前はクラス違うじゃん」
「それは……そうだけど! とにかく! 私がいるから大丈夫なの!」
「……なんだそれ。変なの」
必死に食い下がる愛の様子が可愛らしく、美幸は思わず微笑む。
今日も愛は、心矢を構いたくて仕方ない様子だった。
「それでは、そろそろ出発しましょうか。
心矢君、忘れ物はありませんか?」
「大丈夫! ちゃんとコレも着けてるし!」
そう言って服の下からハートのペンダントを引っ張り出す心矢。
「クスッ、大事にしてくれるのは嬉しいですが……。
先生や他の生徒さんには見つからないようにしないといけませんよ?」
「うん、わかった! 俺も取り上げられるのは嫌だし」
「ええ。気をつけて下さいね?」
今日は水曜日。
今週の心矢は昨日の火曜日に、既に学校に行っていた。
補習以外に週に一日登校するのが学校から提示された条件だったため、今までの
心矢なら日曜の補習までは自宅に居るのがお決まりの流れだったのだが……。
月曜の夜に突然、心矢が『これからはなるべく登校する』と言い出したのだ。
月曜日、美幸が台所で夕食を準備していた頃。
心矢にしては珍しく、勉強そっちのけで美幸からもらったハートのペンダントを
ずっと眺めていた。
作り始めた時には、ドラゴンや車の形をしたペンダントを想像していたのだが、
作った人物を思い浮かべれば、妙に納得だった。
…美幸なら、いかにもこういう物を作りそうな気がする。
何度見ても男の子の持つ物としては可愛らしすぎるデザインだったが、今の心矢
は逆にそれが好きになっていた。
綺麗で可愛らしいそのペンダントを見ると、美幸の笑顔がイメージとして頭の中
に浮かんで……自然と頬が緩んでニヤニヤしてしまう。
それにこうして触れていると、まるで美幸が傍で見守ってくれているような気分
にすらなった。
“コンコン”
「…心矢君? お夕飯が出来ましたので、お勉強に区切りがつきましたら、下まで
降りてきて下さいね?」
ボーッとペンダントを眺めていた心矢は、突然扉の向こうから聞こえた美幸の声
に驚いて、思わず“ビクッ”となった。
「あ……うん、わかった。ちょうど良いところだから、すぐに行く」
「…はい。それでは、お待ちしていますね?」
扉越しにそう返して、美幸はそのまま階段を降りていく……。
…心矢は美幸のこういう些細な気遣いが嬉しかった。
これが母親である真知子なら、ノックもせずに扉を開け放って『ご飯が冷める前
には下りてくるのよ!』と、一方的に言ってくるだろうし、愛ならば『勉強なんて
後にして、一緒に食べようよ!』と言って、やはりこちらの都合などお構いなしに
突撃してくるだろう。
だが、美幸の場合は真知子や愛とは違い、こちらが許可しなければ勝手に部屋に
入っては来ることは決して無かった。
心矢にとって、それは自分をちゃんと“対等に扱ってもらえている証拠”のような
気がして、無性に嬉しかったのだ。
『子供だから構わないだろう』と軽く考えられてはいないと、そう思えた。
「あら? 美幸ちゃんが呼んだら、すぐに降りてくるのね?」
「あ、お母さん……帰ってたんだ」
「……なんで、そんなに残念そうなのよ……」
美幸と2人きりでの夕食を期待していた心矢は、急に気分が冷めてしまう。
「別に……今日から、帰って来るの早いの?」
「あ、それは……。ええっと、ゴメンね?
今は仕事が忙しいから、たまたま今日は早く帰って来れたってだけなのよ。
だから、また明日からしばらくは帰りが遅くなると思うわ」
「そ、そっか!」
「いや、だから……なんで今度は嬉しそうなのよ」
流石に真知子もそこまで鈍くは無いので、理由はすぐに思い当たったが……。
反抗期の真っ只中だったはずの息子が、その日のうちに打ち解けただけでなく、
たった一週間で自分より美幸に懐いている事実に、もう思わずツッコまざるを得な
かった。
『流石は我らが美幸ちゃん!』とは思うものの……やはり、どこか納得出来ない。
“リン…”
そんなことを考えながら、美幸を振り返ってみた時だった。
不意に、真知子の耳に澄んだ音色が飛び込んできた。
その音に引かれて、真知子の視線がその発生源である美幸の胸元に向かう。
「…あら? それ、どうしたの?」
美幸の胸元には……あれは銀、だろうか?
蛍光灯の光を反射して、キラキラと輝くベルのペンダントが下がっていた。
よく見ると既製品にしては微妙に形が歪んでいて、ハンドメイドのアクセサリー
なのは一目でわかる。
「あ、これはですね……。なんと、心矢君が作ってくれたんです!」
「えっ? ホントに!? あら、すごいじゃない!」
「そうでしょう? 私もとっても上手だったので、驚いたんですよ?」
「べ、別に……そんなことないし」
自分でも『我ながら上手く出来たなぁ』とは思っていた心矢だったが、美幸達が
揃って褒めてきたのが妙に恥ずかしく、そっぽを向いた。
「いいなぁ、美幸ちゃん……」
「あげませんよ? これは私の宝物なんですから」
「! ……宝物……!」
その時、『私の宝物』という言葉を聞いて心矢は美幸のペンダントを振り返る。
…当たり前だが、そこにはお昼に自分が作ったベルが輝いていた。
「……あの、俺。明日は、学校に行くことにする……」
「…えっ? ええ……うん。わかった。
でも……また嫌になったら、帰ってきても良いからね?」
真知子は、息子のその言葉を聞いて、すぐに優しい顔になってそう返答した。
一瞬、『頑張りなさい』と言いかけて……その言葉を急いで飲み込んだ。
心矢は、今も懸命に頑張っている。
それなら、自分は逃げ出せる場所であればいい。
…優しく、包み込むように接している美幸を見て、それを学んだのだった。
「…うん。でも……頑張ってみる」
「……そう」
今も嫌がらせは無くなっていない。
そんな中、学校側からの最低条件とはいえ、週に一回だけでも自分から登校しよう
とする我が子を、心の中で応援しながら。
…だが、その次に続いた心矢の言葉に、真知子は我が耳を疑うことになる。
「それに俺、これからはなるべくは登校するようにもする」
「…………え?」
「なんか、急に馬鹿馬鹿しくなった……。だから、もう気にしない」
・
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「でも、心矢君…。なんで急に学校行こうと思ったの?
…あっ、もしかして……私と一緒に登校したくなった、とか?」
「…なんでだよ。
俺が学校へ行く時は、愛は黙ってても、いつもくっついてくるじゃん」
「クスッ……お2人は本当に仲良しですね?」
「…美幸さんと心矢君も仲良しじゃない。
今も手なんて繋いじゃってさ……」
「し、親戚だから、良いんだよ!」
美幸と心矢は家を出てからずっと手を繋いでいた。
改めてそのことを愛に指摘された心矢は、よくわからない理由でそう反論する。
…しかし、美幸はそんな愛のどこか不満そうな様子を見て、ひとつお願いをする
ことにした。
「これは、逸れてしまわないための対処なんです。
だから、愛ちゃんも逸れないように、心矢君と手を繋いでいてくれますか?」
「…え? わ、私も手を繋いで良いの!?」
「…えー……」
パッと表情を明るくして喜ぶ愛とは対照的に、面倒臭そうな目で愛を見る心矢。
すると、今度はその心矢の嫌そうな態度を受けて、美幸が更に続けて言った。
「心矢君。手を繋がなくて良いのなら、今すぐ私も手を放しますよ?」
「…わ、わかった。うん、愛とも繋ぐ」
心矢はそう答えると、愛に向かって多少乱暴に空いていた右手を突き出す。
「わーい! これで私も仲良しー!
ふふっ、これからは毎日こうやって手を繋いで登校しようねっ!」
「…しょーがねーなー」
「………クスッ…」
心矢の前ではお姉ちゃんぶっている愛だが、こうやって喜ぶ姿は歳相応でやはり
可愛らしい。美幸は思わず笑ってしまっていた。
…美幸には、これからこの穏やかな登校の時間が日々の楽しみのひとつになりそう
だった。
「ねぇ、心矢君。明日からもこうやって一緒に行こっ!
大丈夫! 池崎達が何かしてきたら、ちゃんと私が追い払ってあげるよ!」
「…ううん、愛が何かしなくても、俺は別にもう大丈夫だから」
「…心矢君は偉いですね。私も負けていられません」
そう答え返しながら、美幸は先日のことを思い返す……。
一昨日の夜、てっきり週に一度の登校の事だと思っていた真知子は、心矢からの
『これからはなるべく学校へ行く』という言葉には心底驚いている様子だった。
そして、そんな真知子は、美幸にも感謝の言葉を伝えてきたのだ。
『これも美幸ちゃんが心矢に勇気をくれたおかげね』と。
美幸の方も、日頃からボディのメンテナンスでお世話になってばかりいる真知子
に対して、ささやかな恩返しが出来たような気がして、嬉しかったものだ。
そして、そんな心矢が今後も学校に通うにあたって出した条件は、主に2つだ。
1つ目は『美幸が一緒に登校すること』。
そして、2つ目が『ペンダントを着けていくこと』だった。
それを聞いた美幸は、予め聞いていた桜子の連絡先に電話して、2つ目の条件
であるペンダントの着用を特別に許可してもらうことにしたのだが……。
しかし、やはり学校全体で許されたわけではなく、あくまでも担任の桜子のみが
黙認するというだけのものに留まらざるを得なかった。
そのため、今も心矢はペンダントを服の下に隠して身に着けている状態だ。
だがそれでも、一応の許可が貰えたのは良かったと言える。
後は、一緒に登校する際に、出来る限り元気付けられるように努めるだけだ。
「べ、別に……俺は偉くないし」
心矢は本当にそう思っていたので、美幸の賞賛に対してそう答える。
…心矢はただ、ペンダントを着けていると、美幸が傍に居てくれるような気がして
勇気が出た…というだけだった。
…きっと、これが無ければ今もこうして登校などしていなかっただろう。
「そんなことはありません。心矢君は偉いですよ。私が保証します」
そう言うと、隣を歩く美幸が空いた左手で心矢の頭を軽く撫でてくれた。
“リン…”
体を動かした弾みで、美幸の胸元にかかったペンダントが少しだけ鳴った。
その澄んだ音が、心矢の耳にも届いてくる。
…実は、心矢が2日前に学校に行こうと最終的に決意出来たのは、自身の胸にある
ハートのペンダントではなく、美幸が身に着けているベルのペンダントが決め手に
なっていた。
あのペンダントは、美幸の言った通り、今もとても綺麗な音を奏でている。
そして、そのペンダントを、他ならぬ美幸が『宝物だ』と言ってくれた……。
更に、その鐘の舌の部分には、あの壊されたペンの先が使われている。
それを意識した時、心矢は急に今までの自分が馬鹿馬鹿しくなった。
今までの心矢は、時折、壊れたペンを取り出して見つめては、池崎の腹立たしい
顔を思い浮かべて、部屋で一人……恨み言を呟いていた。
そして、その池崎の楽しそうな表情を想像して、ずっと思っていたのだ。
『あんなヤツを喜ばせる材料になるくらいなら、学校になんか行かない』と。
日々、嫌な目に遭いながらも、頑張ってテストで良い点をとった。
そのご褒美に親に買ってもらえた……本当に大事にしていたペンだった。
…それを、面白半分で目の前で壊された時には、深い絶望感に襲われたものだ。
何より、その件において、ほとんど何も相手が罰を受けなかったことは、心矢に
強い敗北感を感じさせるには十分な出来事だった。
…だが、今はその恨みの象徴であったはずのペンの残骸は、大好きな美幸の宝物の
一部として、とても美しい音を奏でている。
今では、その美幸のペンダントは心矢にとっても宝物であり、元のペンであった
時よりもずっと大事な物となっていた。
(見ろ! お前が壊してくれたおかげで、あのペンはこんなに綺麗な音を奏でる物
に変わったぞ!)
そう思った心矢は、池崎を見返してやれたような……そんな気分になった。
そして、それと同時に思ったのだ。
何故、今まで自分はあんな下らない人間に張り合って意地を張っていたのかと。
『あんな低レベルなヤツ、相手にしなければ良いのだ』と、そう思えてきたのだ。
確かに、殴られれば痛いが……それは耐えれば良い。
再び大事な物を壊されたなら、また今回のように、それを更に素晴らしいものへと
変えてしまえば良いだけだ。
一人では無理でも、きっと美幸ならそれを喜んで手伝ってくれるだろう。
そう確信を持って思えた心矢は、もう学校に行くのが特に嫌ではなくなったのだ。




