第56話 複雑な心
愛を放って朝食を作るのも気が引けた美幸は、自分もその場に同席しようと、
そのまま一緒に心矢の部屋まで行くことにした。
「すみません。心矢さん? お友達がいらっしゃいましたよ?」
「…お友達? 誰?」
「斉藤愛さんです」
「心矢君、おはよう!」
「なんだ、お友達って…愛のことかよ…」
今日は初対面の美幸が傍に居るので借りてきた猫の如く大人しい愛だが、本来は
かなり勝ち気な性格だ。
いつもなら問答無用で部屋に乗り込んでくるので、『お友達が来た』という発言
に心矢は一瞬ピンと来なかったのだ。
「なんだ…ってなによ。…それで、今日はどうするの?」
「…今日は行かない」
「…そう。んじゃ、またお話したいし、部屋…入っても良い?」
「いつもは勝手に入ってくるじゃん。…好きにすれば?」
「…うん! お邪魔しまーす!」
正式に許可が出たことで嬉しくなったのか、急に元気になった愛は素早く室内に
入って行く。
玄関先での質問攻めの途中で美幸も気付いたが、愛は心矢のことが本当に大好き
なようだった。
恋愛というものがまだ良く解っていない美幸から見ても判る、隠し切れていない
その小さな恋心は、傍から見ていてとても微笑ましい。
そんな表情も声も格段に明るく変わった愛に続いて、美幸も心矢の部屋に入る。
…すると、愛と一緒に入ってくるその姿を見て、心矢がすぐに反応してきた。
「なんだお前! なんでお前まで入って来るんだ! 俺の朝食はどうした!」
「ええっと、私もお話の仲間に入れてもらえないかな、と…いけませんか?」
「だ、駄目だ! 出てけ!」
美幸の笑顔に一瞬見惚れそうになるが、慌てて表情を引き締めた心矢は、即座に
美幸を部屋から追い出そうとする。
しかし、今回は先ほどとは違い、心矢の思い通りにはいかなかった。
…その場に、愛が居たからだ。
「ちょっと心矢君! そんなこと言ったら駄目でしょ! 何言ってんの!」
「な…何って…。こ、こいつは俺の子分なんだ! だから、これで良いんだよ!」
「子分!? なにバカなこと言ってんの! おばさんに言いつけるわよ!」
「ふ……ふん!」
愛に叱られて、あからさまにたじろぐ心矢。
こうなると、もう完全に愛のペースだった。
「どういうつもりか知らないけど、そんなだから学校でも上手くいかないんだよ?
別に偉くないのに偉そうにだけしてたって格好良くないし、嫌われるだけだよ?」
「……………」
言い返す言葉が無い心矢は、不満顔で何も無い壁の方を見つめ続ける。
目尻にはうっすらと涙も浮かんでいた。
もう一息で、心矢は泣き出してしまうだろう…。
その様子を後ろから眺めていた美幸は、愛のその態度を意外に感じていた。
てっきり、愛は心矢にはダダ甘なのだと思っていたのだが、予想に反して真っ先に
叱り付けたためだ。
「はぁ…。原田さん、心矢君のわがままに付き合わなくてもいいんですよ?」
「クスッ…そうですね。私も出来れば子分ではなく、お友達になりたいです」
美幸のその『友達』という言葉に反応して、心矢が振り返る。
泣きそうな表情は相変わらずだが、その目からは微かな照れと期待が見て取れる。
「…………ふん! じゃあ、仕方ないから…友達で勘弁しといてやる」
「またそんな言い方…。やっぱり、おばさんに言っとこうっと!」
「なっ…卑怯だぞ! 子分じゃなくしたんだから、もういいだろ!」
焦る心矢とは裏腹に愛は怒っているように見せて、よく見ると何処か楽しそうに
していた。
その状況を楽しむような愛の様子から、普段からこういうやり取りをしているの
だろうことが見て取れた。
…きっとこれも、愛なりのコミュニケーションなのだ。
「クスクスッ…斉藤さん。私はお友達になれて嬉しいですし…。
今回はそれくらいで許してあげてくれませんか?」
「しょうがないなぁ…。それじゃ、おばさんには黙っててあげる」
愛からの許しが出てホッとした心矢は、それを悟られないようにか、またしても
何も無い方向を向いて黙り込んでしまった。
…そして、そんな心矢を愛は優しい目で眺めていた。
そんな愛の視線で、美幸はその心情が更に詳しく理解出来たような気がした。
勿論、恋心はあるのだろう。
しかし、それだけではなく…『庇護欲』ともいうべき感情も強く感じ取れる。
恐らく、愛は恋人のように傍に居て、姉のように守ってあげたいのだ。
…そして、美幸はそんな愛の優しさが…何故だか、とても嬉しくなった。
「ところで、斉藤さん。私は斉藤さんともお友達になりたいです」
「え? あ、えと……それは、もちろん良いですけど…」
突然、自分に矛先が向いたからか、驚いた様子の愛。
…やはり、まだ美幸には慣れていないようだ。
「…でも、それなら『愛』でいいです。…原田さんの方が年上ですから」
「わかりました。では親しみを込めて『愛ちゃん』って呼ばせてもらいますね?
それと、私のことも『美幸』で構いませんよ」
「はい。じゃあ、私は年上への尊敬を込めて『美幸さん』って呼びます」
愛からの提案を受けて、初めに美月の姿が頭に浮かんだ。
美月は年下の美幸を優しく“ちゃん”付けで呼んでくれている。
そのイメージから『愛さん』より、『愛ちゃん』の方が親しみがあって良い気が
したので、思い切ってちゃん付けを提案したのだ。
…ついでに、美月の口調もほんの少しだけ、真似しながら。
それに…よく考えれば、ちゃん付けで誰かを呼ぶのは愛が初めてになる。
そして、何故だか理由は分からなかったが、ちゃん付けする年下を相手にすると、
なるべく味方してあげたくなるし、しっかりと手を引いて導いてあげなければ…と
いう使命感にも似た感覚が湧き上がってくる。
…なるほど、これも美月達から見た美幸への感覚なのだろうか?
何にせよ、これは今回の試験の重要な目的の一つでもある『対象を庇護すること
によって得られる経験』に繋がる、大事な感情のような気がする。
…ならば、美幸にはもう一つ、しなければならないことがあるだろう。
「…それでは心矢さんともお友達になったのなら“さん”付けは変ですね…。
私も愛ちゃんと同じく『心矢君』ってお呼びたいんですけれど…。
心矢さん、私もそう呼んで構わないでしょうか?」
「…………好きにすれば?」
「はい! そうさせて頂きますね?」
「…ふん!」
再び横を向いてしまった心矢だが、頬が赤くなっている。照れているのだ。
だが、これでもう一つの重要な目的…“心矢と友達になる”ということも無事に達成
することが出来た。初日にしては上出来だろう。
「あ! そろそろ学校へ行かないと! 心矢君、明日は一緒に行こうね?」
「…まぁ、気が向いたらな」
「うん! それじゃ、行ってきます!」
そう言って心矢の部屋を後にする愛。
そして、それを見送るために、美幸もその後に続く。
しかし…そんな美幸達が部屋を出て行く直前、閉まりかかった扉の隙間から不安
を強く感じているような目で、こちらを振り返る心矢がチラリと見えた。
そして、その顔を見て美幸は気付く。…心矢は本当は寂しいのだろう。
だから、表面上はあんな態度でも、毎日こうして愛が来るのを、内心では楽しみに
しているに違いなかった。
「それでは、気をつけていってらっしゃいませ」
「え……あ、はい」
まるで、専属の使用人のように恭しく自分を見送る美幸に、愛は動揺する。
母親の百倍は丁寧な…良家のお嬢様のような扱われ方をされてしまい…。
嬉しい反面……ちょっと反応に困る。
しかし、最後にどうしても聞きたいことが出来た愛は、緊張しながらも、美幸に
再び質問をすることにした。
「あの、美幸さん。また1つ質問…いいですか?」
「え? あ、はい。構いませんよ?」
相変わらず、二つ返事で了承してくれる美幸。
先ほどから気付いていたが、美幸は一度もこちらを侮っている様子が無い。
普通は愛くらいの年齢の子供を相手にする際、大人は“子供が相手だから”と何処
か甘く見ているようなところがある。
…そして、意外とそういった部分は、子供の側にも伝わってくるものだ。
しかし、美幸は年上として見守ってくれているような雰囲気こそあるものの、
いたって真剣にこちらの話に耳を傾けてくれている。
愛はそんな美幸に、素直に好感を持った。
この人は決して自分達を“子供だから”と、馬鹿にはしない人なのだ…と。
「私、明日からもこうして来てもいいですか?」
「? ええ、勿論ですが…どうかしましたか?」
「いえ、美幸さんが居るなら、別に私が様子を見に来なくてもいいのかな…って」
正直、愛は美幸が『気にしないで、今後もいらして下さいね』と答えるだろうと
予想はしていた。
だが…だからこそ、今後も気兼ねなく訪れられるように、きちんと言質を取って
おきたかったのだ。
しかし、次に返って来た美幸の言葉は、内容こそ予想通りだったものの、一部に
愛の予想外の情報が含まれていた。
「そんなことはありません。明日からも、どうぞ来てあげて下さい。
…心矢君も、愛ちゃんが来るのを楽しみにしているみたいですからね」
「…え? 心矢君が?」
「ええ。さっき愛ちゃんが部屋を出る際に少し名残惜しそうにしていましたから。
あ…でも、このことは心矢君には内緒ですよ?
また恥ずかしがって、お話をしてくれなくなりますからね」
そう言うと、美幸はまたいつもの美月の真似をして、自身の人差し指を立てて
唇に当てながら、愛にウインクしてみせた。
…うん。きっと使い所は間違っていないはずだ。
「……ふふっ…はい!
それでは明日からも来ますので、よろしくお願いします!」
「はい。こちらこそ。明日もお待ちしていますね?」
そんなやり取りを経て、改めて『いってらっしゃいませ』と言う美幸に対して、
今度こそ『行ってきます!』と元気よく返して、愛は登校して行った。
今朝やって来た時とは違い、その様子には緊張が感じられない。
愛はやっと、美幸に気を許してくれたようだった…。




