第54話 気難しいお年頃
6月1日の朝。
遂に美幸が真知子の息子、心矢と初対面する日がやってきていた。
研究所から乾家に向かう車の中、助手席に座る美幸に真知子が運転の傍ら話しかける。
「それじゃ、美幸ちゃん。
今日から研究所以外での私は『親戚の叔母さん』ってことにしておいてね?」
「…分かりました。真知子叔母さん」
「…自分でお願いしておいて何だけど……なんか、ちょっと切ないなぁ…」
いつもの如く登録を一時的に変更したのだろう。
瞬時に『真知子さん』から『真知子叔母さん』へと呼び方が変わった美幸に対し、
少しだけ落ち込んだ様子で、そう呟いて返す真知子。
つい先日に誕生日を迎えて、35歳になったばかりの真知子。
“おばさん”の響きで呼ばれることには、まだ若干の戸惑いを覚える…そんな微妙な
お年頃だった…。
「ええっと……今まで通りに『真知子さん』でいきましょうか?」
「…いいえ。そのままで良いわ…。少しでもそれっぽくしておかないとね」
息子の心矢には『遠くに住む親戚の姪っ子が海外留学する前に一度、長期で遊び
に来る予定になっている』とだけ説明していた。
海外の学校は8、9月から始業するところも珍しくないため、この説明なら8月
から美幸を全く見かけなくなっても、違和感は少ないだろう。
それでも、今まで存在すらしていなかったはずの親戚が突然現れるのだ。
子供相手の話とはいえ、油断しないに越したことはない。
「…確か、今は旦那さんが単身赴任されているんですよね?」
「ええ、まぁね。
でも、予定では次に帰って来るのは秋頃のはずだったから…
余程のことがない限り、美幸ちゃんと顔を合わせる可能性は無いと思うわ」
「そうですか、わかりました」
それなら、不意に帰って来た真知子の夫とばったり会って、試験に混乱を生む…
といった展開にはならなさそうだ。
…そういえば、遥の父親も仕事の都合で家を空けていることが多いらしい。
様々な理由があるので、仕方がない部分もあるのだろうが…。
一人で子供の世話をしながら働くというのは、さぞかし大変なことなのだろう。
…アンドロイドの美幸には、遥の母や真知子のその苦労は想像すら出来ない。
「でも…『旦那さん』といえば、さっきの高槻君達は面白かったね」
「え? …ああ、そうですね。ふふっ…少し大げさでした」
真知子に話を振られてついさっきのことを思い出し、クスクスと笑う美幸。
美幸は昨日の夜、『暫くの間、会えなくなるから』ということで、“お泊り会”と
称して美咲の家に美月と一緒に泊まることになった。
3人で並んで眠るのは久しぶりだったこともあって、川の字になって眠りにつく
まで交わした会話は、とても楽しいものだった。
…しかし、逆に洋一と隆幸にとっては、それを理由に昨日は美幸を昼頃から早々に
美咲達に連れて行かれてしまうことになってしまった。
美幸が試験を終了するまでの間、気軽に世間話すら出来なくなるのは、洋一達も
同じだったため、洋一達も共に過ごす時間をとりたいと考えていたのだが…。
…結局はそのまま、今朝までほとんど話が出来ていない状態だった。
それもあって、なんとか少しでも長く話をしていたかったのだろう。
洋一達は会話を途切れさせまいと、研究所を離れる直前まで美幸に対してしきりに
話しかけ続けていた。
ただ、あまりにもギリギリまで美幸を引き止めようとし続けたため、最終的には
美月に強めに注意されて、渋々ながら洋一達も引き下がらざるをえなくなった。
その別れ際の(主に洋一の)態度が、まるで“今生の別れ”のようであって…。
見送られる立場の美幸ですら、若干苦笑いするほどだったのだ。
「…でもまあ、何て言うか。
傍から見ても一目で分かるくらい…温かい家族、だよね」
「それは……はい」
真知子のその言葉に、美幸の笑顔が楽しそうなものから、和やかな…柔らかな
ものに変わる。
しかし…その一方で、真知子の表情は少しだけ暗いものになってしまう。
「それに比べて……本当、私はダメな親よね。
我が子が悩んで落ち込んでいる時に、付いて居てすらやれないなんて…。
…美幸ちゃん。
親として無責任なことを言うようだけど……あの子をお願いね?」
「…わかりました。私なりに、精一杯頑張ります。
ですから、真知子叔母さんも……“私の姉妹達”を、どうか宜しくお願いします」
「“姉妹”か……そっか、そうね…。
ええ。それなら私も期待に応えられるように一生懸命、頑張らせてもらうわ」
新型素体の開発は、いよいよ大詰めの段階にまで来ていた。
そして、生物学側のボディ部門の責任者でもある真知子は、実際のところ、今も
美幸をこうして自宅まで送る余裕など到底無いほどに多忙を極める身の上だった。
だから、美幸を心矢に会わせた後は、すぐに研究室へ戻らなければならない。
しかし…確かにそう言われてみて気付いたが、美幸からすれば自分のシステムを
基礎としたAIを搭載する初めてのモデルのボディなのだ。
そう考えれば『姉妹』という表現も、あながち間違いとは言えないだろう。
自分の息子を勇気付けるためにこうして尽力しようとしてくれている美幸の姉妹の
ボディだとういうのなら、自分も適当なことは出来ない。
勿論、初めからいいかげんな仕事をするつもりは微塵も無いが、美幸のその言葉
を受けて、真知子は改めて自分の役割の重さを自覚していた。
「…ただいま。心矢ー! ちょっと来なさーい!」
ようやく着いた乾家の玄関口から二階へと続く階段に向かって真知子が叫ぶと、
ノロノロとした歩みで小さな人影が降りてくる。
「……なに?」
「『なに?』じゃないわ! ほら、前に話してた親戚のお姉ちゃんが来たのよ!」
「…あー………え?」
今日は通学しない日らしく、今さっきまで寝ていたために眠気でダルそうにして
いた心矢だったが…。
…美幸を見た瞬間に、お手本のような二度見をしてみせた。
美月譲りの美幸のその美貌は、寝惚け目の心矢にとって、とびきりの目覚ましに
なったようだ。
「はじめまして、原田美幸と申します。
今日から2ヵ月の間、どうぞ…よろしくお願いしますね?」
ニコリと微笑を浮かべながら、美幸は丁寧に頭を下げて挨拶をした。
すると、それを切欠に止まっていた心矢の時間が再び動き始める。
「…ふ…ふん!」
「あ、ちょっと! コラ! 心矢!」
美幸を一瞥したかと思うと、心矢は急に不機嫌そうな態度を取って再び二階の
自室へと走り去ってしまった。
「あっ…どうしましょう!? 私、いきなり嫌われちゃったみたいです!」
少し焦った様子で、反射的に真知子を振り返る美幸。
だが…そうして振り向いた先では、真知子が可笑しそうに笑っていた。
「あははっ、違うわよ美幸ちゃん。
あれはね? きっと、ただ単に照れくさくて逃げただけよ」
「えっ、あ……そう、なんですか?」
何となく理解したような顔の美幸に、補足として更に真知子は続けた。
「あれぐらいの男の子はね、大体はあんなものよ?
変に格好つけたがって、特に意味も無く偉そうにするのよ。
勘違いっていうかね? 素直になれないのが普通の状態って言うか…。
まあ…とにかく、あまり気にしなくても良いわ」
「はぁ……そんなもの、なんですね…」
今までも照れている男の人を見る機会は、美月の近くにいれば飽きるほどあった
美幸だが、考えてみると大人以外の反応はあまり見たことが無かった。
大人なら照れても視線を逸らす程度で、あんな風に走り去ったりはしないが…。
…なるほど、あれがあの年頃の子の照れた時の普通の反応らしい。
「自分の子を貶したいわけじゃないけど……今は反抗期でね。
こちらが何を言っても、とりあえずは逆らってくるのよ。
そのせいで愛ちゃん…仲良くしてくれてる女の子にも最近は態度が悪くて…。
…まあでも、単純といえば単純だから。
話してる内に、すぐに本当に嫌がってるかどうか分かってくるわ」
「わかりました。それでは、改めて今度はちゃんとお話ししてみます」
「あははっ。うん、そうしてあげて?
あと、真面目になり過ぎなくても良いわ…ある程度は適当でね?」
「適当…ですか?」
「ええ。良いことじゃないけど…学校を休む日は一日中、家にいるから。
…時間もまだまだあるわけだし、もっと気楽な感じで大丈夫よ」
「…わかりました。アドバイス、ありがとうございます」
美幸のお礼に対して、笑顔で返す真知子。
…どうやら、意気込みが伝わってしまうくらい肩に力が入っていたらしい。
子供は理屈よりもそういった雰囲気を敏感に感じ取るらしいので、美幸がそんな
調子では心矢の方も緊張してしまうだろう。
真知子の『適当で』という言葉は、良い具合に美幸の緊張を解いてくれていた。
次はもう少しだけ、気楽に接することにしよう…と美幸は思う。
「それじゃ、わたしはそろそろ仕事に行ってくるわ。
ああ…それから、今日は夕方頃にあの子の担任の先生が来るらしいのよ。
大した用件でもないから、その応対だけお願い出来る?」
「あ、はい。わかりました」
「それと………よいしょ…っと。
この子が今さっき言った、仲良しの斉藤愛ちゃん。
この子は幼稚園の時からの友達だから、来たら無条件で家に上げて良いわよ」
鞄の中から携帯電話を取り出した真知子は、カメラで撮られた2ショット写真を
美幸に見せてくる。
今さっき走り去った心矢の隣に、可愛らしく笑う女の子が写っていた。
「無条件、ですか…」
「ええ。別に心矢に許可を取らなくても良いわ。
心矢に伝えたら、また『帰らせろ!』とか生意気な態度で返してくるだけだし。
…それに、この子とすら会わなくなったら、あの子…それこそ本当に学校へ行かなく
なるでしょうしね…」
「…はい。わかりました。それでは、そうします」
「ええ、よろしくね? …それじゃ、今度こそ行ってきます」
「はい。それでは……お気をつけて、いってらっしゃいませ」
「あ……うん」
まるで専属の使用人の如く、玄関先で丁寧に頭を下げて見送ってくれる美幸の姿
を数秒間見つめた後、小さく『…いいなあ、美咲ちゃんは』と呟きながら、真知子
は研究所へと戻って行った…。
真知子の車が走り去った後…玄関のドアを閉めた屋内は、ほぼ無音に近い静寂に
包まれていた。
美幸はくるりと体ごと振り返って、目の前の階段を見つめて深呼吸をする。
そして、先ほどの真知子のアドバイス通り…あまり気負い過ぎないように心掛け
ながら、研究所の中庭に散歩に出かける時のような軽やかな気持ちで、2階にある
心矢の部屋へと向かうのだった。




