第48話 彼女なりの決着のつけ方
訳知り顔で笑い合う美幸と由利子に置いてけぼり状態にされている美咲達には、
何故、由利子の夢がとっくに醒めてしまっていたことが、良いことだと判断された
のか…その会話の意味がよくわからなかった。
…しかし、真の目的が由利子を笑顔にさせることであった以上、美咲達にとっても
今の状態は悪いものには見えなかったため、結局は誰も何も言えない…。
現状では…室内はそんな微妙な雰囲気が漂っている状態だった。
そうして美幸との会話が一段落すると、由利子は手近に居た美咲に尋ねた。
「…ねえ、美咲ちゃん? これってこの美幸ちゃんの実験か何かなのよね?」
「え? …ええ。そうです」
「そう…。それで、発案者は…誰なのかしら?」
その質問が飛び出した瞬間、室内の空気が止まったかのような雰囲気が流れる。
…そんな中、その発案者が自ら一歩前に踏み出して、口を開いた。
「…私だよ。私が美咲ちゃんに提案したんだ」
室内を見回しながら質問してきた由利子に対し、洋一が勤めて冷静に答える。
「…そうなの。それで…この実験の意図は? どういう狙いだったのかしら?」
「それは……病人の世話をさせる経験を積ませることだ」
洋一は予め用意しておいた答えを口にした。
しかし、その回答を聞いた由利子は眉間に皺を寄せる。
「私は別に建前が聞きたいわけじゃないわ…。
そもそも介護に関しては試験の必要も無いくらい、既に導入されているじゃない。
今更、この家で改めて実施する理由としては……弱いわ」
由利子の言葉の通り、現在、アンドロイドが導入されている職業のトップ3は、
介護、警備、事務だ。
だからといって、美幸にそういう試験が全く必要ない…とは確かに言えない。
だが、それなら当然実際の病院に配属した方が、より実践的な経験を積ませること
が出来るだろう。
…わざわざ夏目家を試験場所にして、由利子の世話をさせるメリットは何も無い。
「私が聞いたのは、何故、私の世話をさせようとしたか…よ。
それに…もしもそれが理由なら、わざわざ美幸ちゃんに美月ちゃんのフリをさせる
理由なんて無いでしょう?」
由利子の表情は、普段は美咲達には見せない、とても厳しいものだった。
その質問と言うより詰問に近い由利子の様子に、洋一は観念せざるを得なかった。
これ以上惚けたところで、あまり意味は無いだろう。
…何より、由利子なら洋一の真意にもほぼ気付いているのだろうから。
「私はね…由利子。お前に…ずっと夢を見させてやりたかったんだよ。
幸せな夢を……最期まで…ね」
その返答を聞いて数秒間、厳しい視線を洋一に向け続けた由利子は、その視線を
外すと盛大に溜め息を吐いた。
「はあ…。どうせそんなことだろうとは思っていたけれど…。
まったく、本当に仕様が無い人ね…あなたは。
……ちょっとこっちに来なさい」
洋一は親に叱られた子供のように、しゅん…とした様子で、よろよろと由利子の
すぐ傍までゆっくりと近付いていった。
洋一が手の届く距離まで近付いてくると、由利子は右手を振り上げて―――
“ぺちん”
…由利子の手の平が、勢い良く洋一の頬にそっと当てられた。
今はそこまでの力はもう出ないのか、それとも意図的にそうしたのだろうか?
…何にしても、勢いはあったものの、それはビンタというよりも、“音が出る位の
速度で頬に手を添えた”といった様子だった。
「ふふ。…どう? 痛いかしら?」
「…ああ。とても…な」
物理的な威力という意味では、ほとんど無いと言っても良いその手の平からの
衝撃は、しかし…洋一の心には確かに強く響いた気がした。
「あなたは昔からそうね…。肝心な時にはすぐに音を上げて。
今までなら、その度にいつもいつも、私がこうやって叱ってきたけど…。
この先、私が居なくなったら…あなたはどうするつもりなの?」
「……考えたくも無い」
「まったく…。いつまでも甘えてるんじゃありませんよ。
あなたが言った我が儘のせいで、ここに居るみんなが辛い思いをしたのよ?
…年長者なんだから、もっとしっかりして頂戴」
勿論、由利子はそもそもの原因が自分にあることも、今回の試験そのものが、
ここに居る人達全員の自分への思い遣りの結果だということもわかっている。
しかし、自分は近い将来、洋一を置いて先に居なくなってしまうのだ。
それなのに『妻が可哀想だ』などという理由で大勢を巻き込んで、こんなことを
してしまうような状態で、いざ自分が死んでしまったのなら…。
きっと、洋一はその悲しみに耐えられないだろう。
今、由利子が妻として、そんな夫にしてやれることがあるとすれば、自分が亡く
なった後もしっかりと生きていけるように、『しっかり受け止めて耐えろ』と叱咤
激励することぐらいだった。
今回の洋一の優しさには、やはり感謝もしている。
…しかし、その上で敢えて、由利子は洋一を叱り付けているのだ。
洋一との間には、長年連れ添って育んだ、夫婦としての深い絆がある。
わざわざ言葉にして感謝を伝えなくても、洋一はこちらの心情を正確に汲み取って
くれるだろうから…。
「『しっかり』…か。その、たった一言を実現するのは…とても難しいなぁ…」
そう答えた洋一はギリギリのところで涙を堪えて、ぎこちない笑顔を浮かべる。
「難しくても、するんですよ…。
…大丈夫。私だって、出切る限り…長く生きてみせるわ。
だから、あなたはその時が来るまでに、どうにかすれば良いの」
ゆっくりと…その手を洋一の頬から離した由利子は、今度は美咲と美月を順番に
見てから、まずは美咲に視線を合わせて口を開く。
「美咲ちゃん。ごめんなさいね。こんなことに巻き込んでしまって…。
美月ちゃんと、喧嘩…したんじゃないの?」
「…ええ、まぁ。
…でも、別に巻き込まれたってわけじゃないですよ。
私が、自分の意思で進んで協力したんです。
だから、美月と意見が合わなくて喧嘩したのも、全て私自身の判断であって、
おじさんのせいとかではありませんから…」
「いいえ…。それは違うわ。
確かに、協力したのは美咲ちゃんの意思だったのかもしれないけど…
美月ちゃんと喧嘩したのは、やっぱりこの人が居たからよ。
これがあなただけだったなら、美月ちゃん相手にこんな判断はしていないわ。
…これでも私は、あなた達の第二の母親のつもりなの。
いくらなんでも…それくらいは判るわよ?」
「それは……。クスッ…確かに、そうかもしれませんね」
美咲はその返答に、つい笑ってしまった。
流石に由利子はよく見ている。
確かにこれが洋一以外の意見なら、美月の置かれる状況を考えれば、試験を始める
前に没にしていただろう。
…美咲もその程度には妹に甘い自覚があった。
血の繋がりもなく、親子というより祖母と孫と言って良いほど歳も離れている。
だが、確かに目の前の人は自分にとって“第二の母”なのだろう。
「美月ちゃんも、ごめんなさいね。
美咲ちゃんもそうだけど、あなたも他人を優先して考えられる子だから…。
美咲ちゃんに美幸ちゃん、それに多分この人のことも…色々と悩んだでしょう?」
「…そうですね。悩まなかった…とは言えません。
…ですが、平気ですよ。
おばさんはこうしてちゃんと私のことを憶えていてくれましたし…。
…それに何より、今回の私は1人じゃありませんでしたから」
そう言って嬉しそうな美月に目配せされた隆幸は、そっと微笑み返す。
「そういえば……思い出したわ。美月ちゃん、隆幸君と結婚したのよね?」
不意に海中から浮上してきた潜水艦のように、記憶の断片が突然、由利子の頭に
浮かんできた。
確か…以前に一度、2人揃って入籍したことを報告に来たくれていたはずだ。
「…ご無沙汰しております。なかなか伺えなくて、申し訳ありません」
「ふふふ、良いのよ。それこそ、毎回この人が妙な態度を取るのが原因じゃない」
由利子の指摘に急に居心地が悪くなった洋一は、素知らぬ顔で何も無い壁の方を
見て誤魔化していた。
「でも…そうなの。
それなら、美月ちゃんは今後も安心ね…。良かったわ。
…隆幸君、美月ちゃんのこと…これからも改めてよろしくね?」
「…はい。勿論です」
隆幸は由利子の穏やかな瞳の奥にある真剣さに応えられるよう、はっきりとした
口調で、そう返した。
隆幸のその返答に満足そうに頷いた由利子は、そのままその視線を横にスライド
させて、すぐ後ろに居る真知子に合わせる。
「まちちゃん。今日は美月ちゃん達をちゃんと連れて来てくれて、ありがとう」
「いえ…。先生にはお世話になりましたから…。これくらいは」
正直、こうして対面させる瞬間まで真知子は本当に会わせるべきか悩んでいた。
結局は本人たっての頼みなのだからと、引き受けた通りに連れてきたわけだが…
由利子の楽しそうな様子を見て、ひとまずホッとしていた。
「お世話になって…ね。…それなら、まちちゃん。
お返しに、もう一つだけ私のお願いを聞いてくれるかしら?」
「え? ええ、勿論です。私に出来ることでしたら…」
今回、美月達を連れてきたのは、真知子の中では恩返しと言うよりも、ほとんど
罪滅ぼしに近い感覚だった。
…由利子を騙していたのだから、事実がバレた以上、連れてくるのは当然だ…と。
だからこそ、由利子に違うお願いをされるのなら、それこそ望むところだった。
「それじゃあね…。
今度からこういう風にこの人が馬鹿なことを言い出したら、止めてあげて頂戴。
見ての通り、美咲ちゃんが味方したら、仮に反対意見があったとしても、結局は
こうして実現しちゃうでしょう?
…でも、まちちゃんの立場からの意見なら、そう簡単には無視できないわ」
真知子は美咲と同じ、一部門の最高責任者だ。
確かに発言力としては申し分ないだろう。
「…はい。引き受けました。任せてください」
「ええ。お願いね? 個人的な感情じゃなく、次からはあくまで公平に…ね?」
「…はい。今後は…私なりに見極めます」
今回の件に真知子の私情が入っていたことはお見通しなのだろう。
笑顔でされた念押しには…その雰囲気とは裏腹に、確かな重みを感じた。
「さて…。最後は……あなたね、美幸ちゃん」
そう言うと、由利子は改めて美幸に向き直って…頭を下げた。
「本当に、ごめんなさい。
こんな年寄りの我が儘に付き合って…さぞかし大変だったでしょう?
私はあなたと知り合って、まだ一月も経っていないけれど…
あなたがどんな子かは、もう十分にわかっているつもりよ?
真面目で優しいあなたは、きっと周りの大人達全員のことを心配して…
ずっと…たった一人で悩んでいたんでしょうね…」
ゆっくりと頭を上げた由利子は、しっかり美幸と目線を合わせて続ける。
「でも、最初にも言ったけど…あなたは誰も騙していないし、何も悪くないのよ?
そうね…あなたはただ単に、歳の離れた友達と遊んでくれただけなの」
「…友達?」
突然飛び出したその単語に、美幸は…つい、キョトンとしてしまった。
「ふふふ、そうよ。だって、毎日一緒に遊んでくれたじゃない。
それとも……こんなお婆ちゃんの友達は…嫌かしら?」
美幸の返答が予想出来ているのだろう…。
その表情は深刻そうではなく、楽しそうにニヤニヤしていた。
イタズラっぽい…他人をからかっている時の美咲にそっくりなその表情。
…やはり、この人は血が繋がっていなくても美咲達の母親なのだろう。
不意に見せる仕草が、とてもよく似ていた。
「いいえ。由利子さんは間違いなく、私の友達です!」
そう答えた瞬間、美幸の中に残っていた由利子の対する罪悪感や後悔は、
それまでが嘘のように…跡形も無く吹き飛んでいた。




