第47話 赤い日記帳
最初、開いてすぐのページに注意事項のようなものがいくつか書かれているのが
目に入ってくる。
“今の私は記憶が曖昧になっているので、下記の情報を初めに再確認すること”
“今は20××年。美咲ちゃんは29歳、美月ちゃんは20歳になっています”
“私は朝にこの日記へ内容を書き込んで、それをその日の行動指針にします”
“夜には一日を振り返って、その評価として必ず感想を書き込むこと”
他にも細々とした内容が書かれており、その中には美幸と日記を見せるという
約束をしたことも含まれていた。
そして、この注意事項の最下段にはそこだけ赤い文字で――こう書かれていた。
“この日記は、目の前の子との楽しい思い出を忘れてしまわないためにあります”
「……………」
数秒間、美幸はその一行から目が離せなかった。
つまり、この日記は単純に美幸と過ごす時間のために用意されたものだったのだ。
そして、一度深呼吸して気持ちを落ち着けた美幸は、ゆっくりとその内容に目を
通し始めた。
そこには、試験が始まってから昨日までの毎日の出来事が記録されていた。
そして、その中でも特に印象深い日々の記録が美幸の目に留まる――
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12月4日
今日はお庭で折り紙を折ります。確かこの頃の美月ちゃんとは折紙で遊んだこと
は無かったわ。
まだ小さい頃に遊んだ時には、綺麗に折ろうと何度もやり直して…最後には紙が
くちゃくちゃになって泣いちゃったんだっけ…。
さて、この子の腕前はどうなのかしら? 今から楽しみだわ。
今日の評価
今日は100点満点。とっても楽しい時間を過ごせました。
あの子はこんなお婆ちゃんの相手を本当に楽しそうにしてくれます。
最初に折鶴を折った時には感心したわ。流石はアンドロイドね。
寸分狂わずに折っていく様子は、本当に見事なものだった。
でも本当に感心したのは、その後。
私の方も折り紙には少し自信があったから「勝負しましょう?」って言ってみたの
だけど…。
きっと私を勝たせたかったのね。最後の仕上げで折り目をずらして折ったから、
頭だけ不恰好な折鶴が出来上がったの。
私は何だかその折鶴が愛しくなって、あの子にねだってその折鶴を貰ったわ。
そしたら、あの子…今度は綺麗に折った方が嬉しいだろうと思ったんでしょうね。
「折り直しましょうか?」って言ってきたのよ?
その気遣いがとっても嬉しくて、とても幸せな気持ちになれたわ。
だから、今日は100点満点。初日から幸先が良いスタートね。
※明日からはあの子をアンドロイドと思わないでおきましょう。
いくら私が元研究者だといっても、こんなに優しくて良い子をそんな先入観で
見るべきじゃないわ。
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12月10日
今日はあの子に歌を歌ってもらうの。
友達と一緒に練習したらしいけれど、『遥ちゃん』っていう友達は美月ちゃんから
は聞いたことがないわね…。もしかして本当にあの子のお友達なのかしら?
もしそうだったら、一度は私も会ってみたいわね。
美月ちゃんは昔から歌だけは苦手で、そのことは家族だけの秘密だったっけ…。
あの子はどんな風に歌うのかしら? 今日は本当に楽しみだわ。
今日の評価
今日の評価は100点満点。綺麗な歌声に癒された一日でした。
そのお友達とたくさん練習したのかしら? とっても上手な歌でした。
お友達はピアノが上手らしいし、もし本当にそのお友達が居て、私も会うことが
出来たなら、今度はその子の伴奏付きでもう一度聴いてみたいわ。
歌っている間、とっても楽しそうだったから、きっとあの子にとってもあの歌は
とても良い思い出なのでしょう。
それにしても、懐かしい歌だったわ…。あれは美雪ちゃんが大好きだった曲ね。
美雪ちゃんったら子守唄にも歌うものだから、あの頃はよく注意していたわ。
「恋の歌を子守唄で歌うなんて…」って。
そしたら「この子にも好きになってもらいたいから、今から刷り込んでるんです」
って言われて…。思わず笑っちゃたのよね…。
美雪ちゃん。事故とはいえ、私より先になんて……夢にも思わなかった。
でも、美雪ちゃんの研究の成果は多くの人を感動させたし、その娘達も、今は後を
引き継いで一生懸命頑張ってる。
今日は綺麗な歌を聴けたし、美雪ちゃんのことも懐かしむことが出来ました。
亡くなった時のことを思い出して少しだけ悲しくなったけれど、こうして忘れずに
思い出せるのは悪いことじゃないと思うし…やっぱり、今日は100点満点ね。
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12月18日
今日は雨が降っていて、特に寒く感じる日。予報では一日中降るらしいわ。
だから外にも出られないし、あの子と相談して読書討論会をすることにしました。
私は明るい気持ちになれるように、コメディタッチの冒険譚を描いた作品にでも
しようかしら?
美月ちゃんは意外と冒険譚が好きだったし、この子も好きなら良いのだけれど。
今日の評価
今日は60点ね。あんまり思ったようにいかない日だったわ。
読む本は各自で自由に選ぶようにしたのだけれど、こうなるのなら私のお勧めの本
を読んでもらった方が良かったのかも…。
あの子が選んだのは、悲恋の話。
展開はありがちなものだったのだけれど、その内容が不味かったわね。
ただでさえ純粋なあの子は、病床のヒロインに感情移入してその悲しい結末に心
を痛めていたのに、よりにもよってそのヒロインが選んだ手段が『嘘の態度で恋人
を騙して幸せに導く』っていうものだったから、あの子は落ち込んでしまったの。
「嘘も思いやりがあれば時には良いことなのよ」って教えたのだけれど…。
ずっと沈んだ表情だったから、きっとあの子はまだ気にしているんでしょうね。
あの子があのタイミングで落ち込む理由なんて、そうは無いでしょうし。
私の予想通りなら、私に対して正体を偽っていることを気にしていたのかしらね。
このままずっと私に付き合わせるのも可哀想だわ。
あの演技が何時までの予定なのかはわからないけれど…あんまり長いようなら、
あの子にだけこっそり私が気付いていることを教えてあげましょう。
春の陽だまりみたいな雰囲気が一番似合う子だもの…。
あんな…今日みたいな真冬の雨に打たれているような顔をさせては駄目ね。
…今日は失敗。60点。
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12月25日
今日はクリスマス。本当にもう…そんな歳でもないでしょうに…。
あの人はみんなの中で一番はしゃいで「今日はパーティーだ!」って言って騒いで
いて……恥ずかしいわ。
だから、今夜はあの子が作った料理を楽しむために、まちちゃんも連れて3人で
帰って来るらしいの。
でも、責任者が揃って早めに帰るって……本当に研究所の方は良いのかしら?
今日のあの子は料理の準備に忙しいみたいだし…予定を立てるのはお休みね。
伝えた時は少し残念そうだったけれど…そんなに私と過ごす時間を楽しんでくれて
いるのかしら? もしそうなら、凄く嬉しいわね。
この歳になったらクリスマスなんて特に気にしないけれど、若い子にとっては
楽しみなイベントなんでしょうね。
美月ちゃんは元気かしら? 美月ちゃんも楽しいクリスマスなら良いわね。
今日の出来事
今日の帰り際、週明けに美月ちゃんを連れて来てもらうようにお願いしました。
だから……今度の月曜日には種明かしすることに決めました。
駄目ね。本当に駄目。
今日、美月ちゃんの話を振った瞬間に、みんなが暗い顔をしてしまったわ。
きっと、この状況は私のために用意されたもの。
…この子達は、みんな優しいもの。
病人を巻き込むことを“仕事だから”って割り切れるタイプじゃないわ。
私が過ごしたかった時間を、環境を作って…それを維持してくれていた。
きっと、提案者は美咲ちゃんかあの人ね。
さしずめ、『冥土の土産』…といったところかしら。
正直に言えばその思い遣りは、とっても嬉しい。
あの可愛らしくて一生懸命な子と過ごす時間も、とても楽しかった。
でも、やっぱり駄目。あの様子だと、きっと今も美月ちゃんは悲しんでるわ。
それだけじゃない。今日集まってくれた全員が心の中でずっと苦しんでる。
だからもうこれ以上は、この演技を続けさせちゃいけない。
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昨日の日付まで読み進めたところで、美幸は顔を上げた。
すると正面には、にこやかな表情の由利子が居た。
「どう? 日記の中の私は、あなたとの時間を楽しんでいたでしょう?」
「…はい。…とても嬉しいです」
日記の中では、美幸のことを一度も『美月』とは書いていなかった。
『あの子』『この子』という表現ではあったが、美月として扱ってはいない。
むしろ、毎日必ず美月のことに触れて意図的に別人だと主張している節があった。
美幸は自分が由利子を騙していなかったということより、由利子がちゃんと自分
自身を認識した上で接してくれていたことが、無性に嬉しくなった。
…そして、同時に美月から奪っていたかもしれない物の大きさを理解した。
「ふふふ…。それで、どうかしら? 種明かしして…良かったでしょう?」
「…はい。それは間違いありません」
それについては、日記を読んだ今なら完全に同意出来る。
昨日の日記の様子だと、由利子自身も現状を悲しんでいた。
関係者全員が不幸になるのなら、その嘘には本当に何の意味も、価値も無い。
何より―――美幸はハッピーエンドが好きなのだ。
「さて…と。私ね? 実は今日、一番楽しみにしていたことがあるの」
「? 何でしょう?」
「ふふ…。あなたの……お名前は?」
「…ぁ……美幸…です…。『美』しい『幸』せと書いて…『美幸』です!」
「そう。『美幸ちゃん』っていうの…。良い名前ね…。あなたにピッタリ」
正直に言えば、今の美幸は色々なことで頭が混乱していると言って差し支えない
状態だった。
しかし、試験が始まってから多くの時間を共に過ごしてきた由利子に、初めて
本来の名前を呼んでもらえたことは――
美幸にとっては間違いなく……とても嬉しいことだった。
「はい。私も…この名前が大好きです!」




