幕間 その5 お悩み相談の着地点
美咲達が隆幸の昔の話をしていた…ちょうどその頃、隆幸は別室にて美幸の悩み
相談を受けていた。
毎日実施すると美幸の精神的負担が多いという判断から、数日に一度にすること
にしているこの悩み相談も、今回でもう3回目になる。
「…私のために何度も相談に乗って頂いて、ありがとうございます」
「別にそんなことは気にしなくても良いよ。
ほら、チーフがいつも言っているだろう? 家族なんだから…って」
「クスッ…そうですか。それでは、気にしないことにしますね?」
「うん。それくらい気楽にいこう」
「ふふ…はい。わかりました」
日付は10月12日。
試験が終わってから既に2週間近く経っていることもあって、美幸の精神状態も
ほぼ普段通りに戻ってきていた。
だからだろう。
今では、どちらかというと悩み相談というより、ただの雑談に近い雰囲気が漂って
いる。
「さて、まずは美幸が気にしていた佐藤運輸の現在の調査報告からしようか」
「はい。お願いします」
美幸は自分が抜けた後の事務員達の状況を引き続き調べてもらえるように、隆幸
にお願いしていた。
勤務自体はもう終わっているので、美幸には何も出来ないとはいえ、どうしても
千尋達のことが気になってしまったのだ。
「とりあえず、事務の方にも新しい人が入ったみたいだね。
といっても、まだ1人だけみたいだけど…」
「え? そうなんですか!? なら、とりあえずは安心ですね!」
まだ、通常の人数からすれば1人足りない状態ではあるが、それでもその新人
が仕事に慣れてくれれば、千尋達の負担も美幸が勤めていた頃程度には緩和する
ことだろう。
「…喜んでいるところに水を差すようで申し訳ないけど……今回は微妙かもね」
「え? 何かあったんですか?」
「ええっと、少し言い難いんだけどさ…募集の内容がね。割と嘘かなぁ…と」
「…どういうことですか?」
歯切れの悪い隆幸の言葉に、美幸が怪訝そうな表情を浮かべる。
佐藤運輸での試験の後から、明らかに美幸の浮かべる表情の幅が増えていた。
…恐らく、マイナスの方向性の感情を実感する機会が多かったからだろう。
研究という意味では感情の発露に多様性が出たことを喜ぶべきなのだろう。
だが、隆幸はそんな美幸の変化を何処か残念に思っていた。
…どうやら、隆幸は心の何処かで『美幸にはずっと無邪気に笑っていて欲しい』と
思っていたらしい。
それは、自らが作り笑顔を浮かべ続けてきたが故の感情だったのだが…。
隆幸自身はその感情の理由にまでは気付けなかった。
その疑いを知らない無垢な笑顔は、隆幸にとっては幼い頃に失ってしまった大事
なものだった。…それは羨望の対象であり、自らの理想でもあったのだ。
「実は佐藤運輸の求人募集が掲載された情報誌を手に入れて、募集内容を確認して
みたんだけど…そこに載っている条件が明らかに良過ぎるんだよ。
確か、あの土屋千尋さんの話では、昇給を含めて待遇改善は全く無いって話だった
だろう?
でも、それがこの記事ではほぼ全部あることになっているんだよ」
「本当に改善された…ということではないんですよね?」
「これは僕の想像になるけど…
実際に入った後は、また適当な理由をつけて誤魔化すつもりなんだと思うよ。
そうなった時に、その新人さんが残るか辞めるかは、正直微妙なところ…かな」
「………。それも、どうしようもないこと…なんですか?」
「うん、残念ながら…ね。
例えば、今回掲載されているこの求人情報誌の担当者にこれが嘘だと訴え出れば、
その紙面にはもう載せてもらえなくなるかもしれない。
でも、それなら他の情報誌に載せてもらえるようにすれば良いだけの話だしね」
「では、やはり結局は経営者の方々が自主的に改善するしかない…と?」
「うん。そうなるね」
今回の美幸は、その隆幸の言葉を冷静に受け止めていた。
そして、少し躊躇いがちに疑問をぶつけてくる。
「こんなことを言っても良いのか、正直に言って分からないのですが…」
「うん? 大丈夫だよ?
何かは知らないけど、言うだけなら特に問題はないと思うしね」
「あの…社長さん達は改心しなくても…特に不具合は出ないんでしょうか?」
本来は雇用者を守るために存在するはずの法律や制度が、実際はまるで機能して
いなかったことは、美幸にとって衝撃だった。
というよりも、実際に機能させようとすれば別の方法で対処されてしまうという
ことではあったのだが…結果的にはあまり意味がないのは確かだった。
「うん…そうだね。恐らく、特に不具合は無いと思うよ」
「そうですか…。
では、その不具合が出るべきだ…と思うのは……悪いこと…なんでしょうか?」
「本来なら『人の不幸を望むのは悪いことだよ』って言うべきなんだろうけど…。
僕の個人的な意見を言わせてもらえるなら、それは悪いことじゃないと思うよ。
今、美幸が言った言葉の根底には“正義感”っていうものがあると思うんだ。
だから、それを失くしてしまうことに比べれば、その考え方の良し悪しは問題に
ならないんじゃないかな」
「アンドロイドとしては、一部の方とはいえ人間の不幸を望むというのはかなり
致命的だと思うのですが…」
「あはは…確かに。でも、人間というのは案外そんなものだよ?
自分の嫌いな人間の幸せを心から願える人ってほとんど居ないんじゃないかな。
だから、人間らしいアンドロイドを望んでいた僕達としては、美幸からそういう
発想が自然に出てくるっていうのはむしろ嬉しいことなんだけどね」
そして、自らの発想が良いものではないことに対して思い悩めるということは、
逆に考えればとても真っ直ぐな証拠でもある。
隆幸は自分達の娘がそういった感覚の持ち主であることを誇らしく思えた。
「現実は厳しいものだ…っていうのは色々な方から伺いました。
…でも、私はどうしても思ってしまうんです。
真面目に頑張っている人には、ちゃんとその分だけ報われて欲しい…って。
そして、そんな頑張っている人を粗雑に扱うような人には報いがあるべきなんじゃ
ないか…って」
同じ“報い”という言葉でも、そこに含まれた意味は全くの正反対だ。
美幸としては珍しく、その台詞を口にした時の表情は少し険しいものだった。
「うん、よく分かるよ。それに、そういう考え方は間違いじゃないって思う」
「それでも…諦めなきゃいけない。…ですよね?」
「うん、そうだね。
さっき美幸が言っていた『報いを受けるべき』っていう話だけど…。
本でも映画でも良いんだけど、美幸は正義のヒーローみたいな話って好きかい?
正義の味方が悪い奴らを倒していくような…そういう話」
「…どうでしょう? 別に好きでも嫌いでもないと思います」
「ああいう話って、一般的には“勧善懲悪”って言われているものなんだけどさ、
正義が悪を倒すような内容のものでは、良い人は得をするし、悪い人は損をする。
途中では色々とあるかもしれないけど、最後には必ずそういった展開になる…。
だから、一般的な価値観ってことなら、美幸の考えはむしろ合っているんだよ」
「一生懸命に頑張れば得をして、他人に酷いことをする人は損をする…と」
「うん。でも…実際にはそうはいかないパターンも結構あったりする。
善は虐げられるまま損をし続けて、悪は酷いことをしたままでも得をする…。
そういったことも、やっぱり現実では多いんだ。
だからといって、物語の中のヒーローのように無理やり悪を裁こうとすると、
今度は自分が世間的には悪になってしまう…。
でも、そんな世の中でも時には善が報われたり、悪が報いを受けたりする。
たとえそれが偶然であっても、それが美しいから注目されるんだよ」
「美しいから…ですか?」
美幸は『美しい』という言葉が好きだった。
それは、真っ先に美月が思い浮かぶ言葉であり、美咲と美月とは『美』という名前
に含まれた文字で繋がっているように感じていたからだ。
「そう、美しいから。
そういう世の中であって欲しいという願い…っていうのかな。
でも、逆に言えば現実には中々叶わないことだからこそ、願うんだとも言える。
…つまりね?
実際に何らかの強力な力を使って、強引に佐藤夫妻へ報いを受けさせるのは、当然
良いことじゃない。
…でも、それを願うこと自体は別に構わないってこと。
自分の中に『正しいあり方』を持っているのは、とても貴重なことだと思うよ。
…まぁ、あくまでも僕個人の意見ではあるけどね」
隆幸は美幸にそう伝えながら、自らの過去を振り返っていた。
かつて、自分は祖父母からの愛情を得ることを願って努力していた。
しかし、結局はそれを得られることは…一度もありはしなかった。
もともと無いものを得られるわけがないのは、当たり前のことだった。
隆幸はそれを実感した時、その事実を無理やりにでも納得して飲み込まなければ
ならなかった。
…だが、それを得ようと願い、笑顔で居続けることを始めとして、祖父母にとって
幸せを感じさせる子供であろうとしていたこと、それ自体は今も間違っていたとは
思っていない。
「美幸は真っ直ぐだからね…中々簡単には諦めきれないと思う。
説得しなきゃいけない僕がこんなことを言っちゃいけないのかもしれないけど…
個人的な意見を言わせてもらえるなら、別に全部を諦めなくても良いと思うんだ」
「え? そうなんですか?」
無理やりにでも納得しなければならない…と考え始めていた美幸は、思わず隆幸
のその言葉の意味を聞き返した。
「うん。要はどこまで出来るのか、どんな方法ならしても良いのか…って話さ。
佐藤運輸の件で言えば、美幸の…というか研究所を含めた国の“権力”を使って圧力
を掛けるような解決法を実行してはいけないし、それは意味の無いことだ。
この世の中にはブラック企業はまだまだ沢山ある。
ここで佐藤運輸だけを無理やり変えたところで、似たような状況の会社の全てを
改善出来るわけじゃない。
だから、美幸がそれを諦めたくないなら、別の方法でブラック企業を失くす案を
考え出せば良いんじゃないかな?」
「…別の、方法…」
昔の…美月と付き合うようになる前の隆幸は、人間からの愛情を諦めていた。
その上で、人間に限りなく近いアンドロイドからの愛情を得る…という違った方法
で自分の信じられる愛情を求めようとしていた。
しかし、隆幸はその過程で美月と出会い、思わぬ形で求めていたもの…『疑いを
持つ必要がない愛情』を得ることが出来た。
…そして、そのことで隆幸の中ではそれまでの感覚が少し変化していたのだ。
諦め癖が完全に消えた…とまでは言わないが、完全に諦めてしまうのではなく、
他のアプローチで求めようとし続けるのは決して悪いことじゃない、と。
これまでとは別の方法で願いが叶うこともあるだろうし、思わぬ事態の進展で
突然、解決することもあるかもしれない。
諦めて全て捨ててしまうのではなく、取捨選択をして必要な部分を見極めて、
希望を持ち続けるのは無意味なでは無い…と、今の隆幸は考えていた。
心の片隅にでも諦めずに留めておけば、隆幸の時のように予想外の方向から、
突然、解決する可能性も十分にあり得るのだから。
「今回の場合は、美幸には申し訳ないけど佐藤運輸の件は諦めて欲しい。
今の環境や状況を考えれば、どんな対処をしたところで最終的には従業員にとって
悪い結果しか出ないと思う。
でもさ、そういう会社をどうにかしたいっていう思いは、今すぐに全て諦めて捨て
なくても良い…と、僕は思うよ」
「…はい。そうですね。なら、これからも私なりに考えていきたいと思います。
…正直に言えば、諦めなくても良いって言われて少し気が楽になりました」
「うん。それなら良かった。
重要なのはそれに捕らわれ過ぎて身動きが取れなくならないようにすることだよ。
捨てられない思いだけ持って、それで前に進んでいけば、
不意に違った解決策にぶつかるかもしれない…そういうことだよ」
「わかりました。隆幸さん、どうもありがとうございます」
そう答えた美幸の表情は少しすっきりしていた。目にも力がこもっている。
ここ最近抜け切っていなかった沈んだ雰囲気が、今はほとんど感じられない。
相談を始めた当初は、完全に佐藤運輸での経験は社会勉強の一環として割り切ら
せるように説得しようとも考えていた。
しかし、今の美幸の表情を見る限り、隆幸は今回の選択は間違いではなかったと
感じられた。
今回の経験を不満要素として内心で燻らせるのではなく、解決すべき課題として
捉えることで前向きな感情に変換出来たようだ。
美幸が最終的にどんな結論に辿り着くのかは、今はまだ分からない。
ただ、この優しいアンドロイドが出す結論は、少なくとも自分が佐藤社長達にした
ような強引なものではない、もっと平和的な方法なのだろうなと、隆幸は思った。
だが、この悩み相談での何より大きな収穫は、美幸に取り繕ったものではない…
元の明るい笑顔が戻ってきたことだろう。
そして、そう自然に思ってしまった自分の親バカぶりを自覚した隆幸も、慣れて
しまった作り笑いではない、ごく自然な笑顔を浮かべるのだった…。




