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第34話 ブラック経営者の思想とは

 日付は9月28日。

美幸の佐藤運輸での勤務も今日を含めて残り3日となっていた。


 美咲の想定通りと言うべきか…あの誘拐未遂事件より後は、これといって何かが

起こることも無く、平穏なままで終わりそうな様子だった。


 とはいえ、それはあくまで美幸に関することであって、悠貴が居なくなった影響

で東ルートの配送は広瀬耕太のみになり、その業務はより過酷になっていた。


 流石に一人では捌ききれない物量のため、他のルートの配達員達もある程度は

カバーしていたのだが、それでも根本的な人数だけはどうにもならない。


 結局は、耕太が朝から晩まで一日中勤務することになってしまっていた。


「あの、私も来月からは千尋さんみたいに一日中の勤務になるんですか?」


「そうしてくれるとありがたいけど…渚ちゃんは大丈夫なの?」


「はい、出来る限りは頑張ります…厳しい時はあると思いますが」


「うん。ならヨロシク。まぁ、電話受付が終わったら帰っても良いからさ」


 新人の募集はかけていたが、未だに応募は来ていない。

このままいけば、美幸が辞めた後は事務所の人数は2人になってしまうだろう。


 一人ではあらゆる対応が出来なくなるだろう。

どうやら2人ともが一日中の勤務で頑張るしか無さそうだった。


「あの…ごめんなさい。私、何もお力になれなくて…」


「あー、いや、実由ちゃんは悪くないって!

そもそも途中で酷い目に遭い掛けたのに辞めないでいてくれただけで十分だよ!」


「そうだよ? 千尋さんの言う通りだよ。

それに、本当なら9月からそうなってたんだし、私も1ヵ月分も仕事に慣れる期間

が増えただけで、凄くありがたかったんだから」


 もともと短期ということは事前に決まっていたのだが、やはりこの逼迫ひっぱくした状況

で自分だけ抜けることになるのは少々気が引ける美幸だった。


 こちらとしては目立った問題が無くなったこともあり、試験を継続するのは可能

な環境ではある。


 しかし、当の佐藤運輸から正式に9月いっぱいでの終了を申請されている以上、

美幸の意思だけではどうにもならない状況だった。


 それに、千尋達には申し訳ないと思う反面、美幸は心の何処かでこの職場で働く

ことを拒絶している部分もあったのは事実だ。


…未遂に終わったとはいえ、誘拐されかけたことを綺麗さっぱり忘れるなど出来る

はずがない。


 ましてや美幸はアンドロイドだ。

記録を消去しなければ、思い返そうとすれば何度でも思い返せてしまう。


 美咲達の勧めで、既に意識的にロックを解除しないと鮮明には思い出せないよう

には処理していたものの、記憶の連続性に不自然さが出ないように、ある程度まで

は思い返すことが出来るようにはしていた。


 だが、そのある程度の記憶ですら、美幸にとっては負担になっているらしい。

自らの記憶ではあったが、出来ることなら、未来永劫このロックを解除する機会が

訪れないことを願うのみだった。


「ありがとうございます。…そう言って頂けると助かります」


「いやいや、ホントのことだから。

実由ちゃんはあたし達にとっては十分、助けになってくれてたよ」


 そう言って笑う千尋に美幸はもう一度頭を下げたが、そういった暗い空気が苦手

なのだろう。

 千尋は『はい! この話は終わり!』と美幸の退職の話題を打ち切った。


「しっかし、流石に一日中勤務ってなると身体的にもキツくなってくるし…。

…渚ちゃんさ、あたしと一緒に賃上げ交渉しに行こっか?」


「賃上げ交渉、ですか…。それって通るんですかね?」


「望み薄ではあるけど…まぁ、しないよりマシじゃない? 

正直、あたしも今までずっとこの長時間労働に耐えてきたんだし、

そろそろ少しくらいは上げてもらえないと流石に腹も立つしさ。

…何より、母さんの医者代も掛かるから、今は少しでも多いほうが良いんだよね」


「なるほど、ここの場合は少なくとも自分から言いに行かないと、

社長達からの評価なんて何時まで経っても期待出来ないですもんね」


「おっ! 渚ちゃんも言うようになったねー。ま、それくらいの方が良いよ。

実由ちゃんみたいに従順で真っ直ぐなのは人間的には良いけど、

ここじゃただ単に損するだけで、得なんて1つも無いんだからね」


 ここでの勤続年数が一番長く、佐藤夫妻の性格を良く知っている千尋のその言葉

には確かな説得力があった。


 この職場ではどれだけ長時間働こうと、どれだけ会社の利益に貢献しようとも、

『ご苦労』『助かったわ』といった言葉を掛けられる以上の展開は無い。


…愚かな彼らからすれば、“(ねぎら)ってやってるのだからそれで十分”といったところ

なのだろう。


 彼らは根本的な部分で勘違いをしているのだ。


 職員は部下ではあっても奴隷ではない。ましてや自分達の家族でもない。

彼らの機嫌や繁栄のために職場に勤務しているわけではない。


…本来は考えるまでもないことだが、各々が自分の生活のために働いているのだ。


 当然、金銭を得るために働きに来ている以上、お褒めの言葉よりも昇給の方が

良いに決まっている。


 しかし、彼らからすれば社員とは、会社…ひいては自分達自身に利益をもたらす

ための替えの利く駒に過ぎないのだろう。


…少なくとも、その従業員の生活や後の人生を預かっている…という感覚は欠片も

無いに違いなかった。



「あ、そういうことなら、僕もその賃上げ交渉に参加しても良いですか?」


 千尋達がそんな話をしていると、その会話に入ってくる人物がいた。

今、最も悠貴の退社の影響を受けている、広瀬耕太だった。


「あー、そうね。広瀬君も大変だもんね。んじゃ、3人で交渉してみよっか」


「やっぱり一日中ずっとはキツイですからね…。僕も流石に疲れてきましたよ」


「広瀬君は真面目過ぎるんだよ。もっと他の人に荷物押し付けちゃえばいいのに」


「そうもいきませんよ…。他のルートだって人数ギリギリなんですから」


「ホントに真面目だねぇ…。

それで顔が良けりゃ、内田君みたいに副社長からの謎手当がもらえただろうにね」


「…自分の容姿ぐらいは自覚してますけど…ホント、容赦ないですね…土屋さん」


…千尋のその歯に衣着せぬ物言いに、思わずうな垂れる耕太だった。


 耕太は美幸から見ても信用に値する人格者だ。

真面目で丁寧な仕事振りは顧客にも同僚にも好評で、まだ若いが社内では頼られる

存在だった。


…逆に悠貴は問題児と言って良い仕事振りではあったが、安恵のお気に入りという

だけで高給取りだったのは社内では有名な話だ。 


 だが、今はその悠貴の分まで働いているのだから、耕太にも十分に賃上げを主張

出来る権利はあるように思える。


「よーし、それじゃ思い立ったが吉日っていうし。

今日の仕事の後にでも、みんなで一緒に社長達に交渉してみますか!」


 その千尋の発言に『おー』と覇気の無い返事をする渚と耕太。

そんな2人に『元気が足りんぞ!』と言う千尋に笑いが起こる。


…来月からは激務が予想されることもあって沈みかけていた社内が、その千尋の声

で少しは明るくなったような気がした。




 9月29日。

出勤して早々、美幸はその室内の空気に驚かされた。


「ぁー、おはよう」

「…おはよう、実由ちゃん…」


「あ、おはよう…ございます」


 その分かり易いぐらいに沈んだ様子の先輩2人の雰囲気に、美幸はいきなり何と

言って良いか分からなくなった。


「あー、ゴメン。うん。ちょっとね…」


 その様子だけで昨日の交渉が失敗に終わったことは察する事が出来た。


 触れるのも申し訳ないと思い、その話題を避けようと別の会話を考え始める美幸

だったが――


「実由ちゃんにはあんまり関係ないかもだけどさ。…聞いてくれる?」


と、千尋から水を向けられるかたちになり、美幸は聞くだけでも構わないならと、

その経緯を聞いてみることにした。


「え…あ、はい。私で良ければお伺い致します」


「いや、実由ちゃんが良いんだよ…

あたし達だと当事者だからね。とてもじゃないけど気が紛れないんだ」


 千尋が疲れたような…諦めを含んだ瞳で見つめ返してくる。

…これは、昨日は相当面倒なやり取りが繰り広げられたらしい。


「まず、結論から言うと…

まぁ、何となく分かってるだろうけど……賃上げ交渉は決裂だったよ」


「それは…はい」


 言葉が見当たらない様子の美幸に、千尋は軽く笑って『適当に相槌あいづちうっといて』

と言って話を続ける。


「長時間労働は、“状況がそうなってるだけで関係無い”んだってさ。

社長が言うには『もっと効率を良くすれば残業なんて起こらない』って…。

…馬鹿馬鹿しいでしょ? 流石に私も呆れ返ったたわよ。

仕事はそこそこどころじゃない量があるのに、人数は少ない。

なのに残業になるのは効率のせいだって……んじゃ、自分でやってみろっての。

こんな状態で2人でやって、ちゃんと仕事をこなして…。

それで残業ゼロで収められたら、万歳三唱で拍手喝采してやるわよ」


「それにね、別に私達が長時間働いたところで売り上げは変わらないから…

利益が得られない仕事だから、給料も上げられないんだって…」


 悲しそうな表情の渚が、千尋のその台詞に補足してきていた。

こちらは怒りより落胆の方が大きかったらしい。


 そして、怒りが収まりきらない千尋は、更に美幸に話し続ける。


「あたし達だって馬鹿じゃないから分かってるっての!

人数が少ない状態で無理やりまわしてるってことは、

少なくともその足りない人数分の人件費は浮いてきてるってことでしょ!?

その分を自分達の懐じゃなくって、こっちにまわせって言ってんのよ!」


 本来なら時間帯によって2・4・2の人数で処理するはずの仕事なのだ。

終日2人でこなすのなら、4人で働くはずの時間帯の2人分の人件費が浮いてくる

計算になるのは確かだった。


 1日につき数時間分とはいえ、それが1か月分ともなれば、合計するとそこそこ

の金額になるはずだった。


「まったく!

何一つ手当も付けない上に時給削られてるのだって黙認してたってのに!

腹が立ったから、そのことを訴え出たら…あの副社長、何て言ったと思う!?

『効率が悪くて余計な時間が掛かっている分を削ってるだけですよ?』だってさ!

じゃあ、初めから本人にそう言えば良いだろう!

黙って削っといて、いざ指摘されたら開き直るって…。

こっちから見たらそんなもん、ほとんど居直り強盗みたいなもんだよ!」


「あの、土屋さん。ええっと…その…」


「…ぁ、あー、ゴメン実由ちゃん。ちょっと熱くなり過ぎたかもね…」


 美幸の声にハッとなって、冷静さを取り戻した千尋。

ある程度は怒りを外に吐き出したからか…やっと落ち着いた様子だった。


「でも、広瀬君にはちょっと悪いことしたかな…。

まさか解雇にまでなるとは、あたしも流石に思わなかったし…」


「…えっ!? 広瀬さんが解雇…って、何故ですか!?」


 その言葉に今度は美幸が声を上げることになった。

耕太は周囲に助けられながらとはいえ、悠貴の不在を一人で補っていて、その仕事

振りも非難されるような所は何一つ無いはずだ。

 少なくとも、美幸から見て辞めさせられる要素があるとは思えなかった。


「理由はね『大人数で訴えてきたその根性が気に喰わない』ってことだってさ。

でもね、ホントの理由なんてこっちには丸分かり。

内田君が辞めた後に配達員の方も募集をかけてたんだけどね? 

事務員と違って、そっちはすぐに応募が来たんだってさ。

多分、それがあの副社長好みの男だったんでしょうよ。

本人は隠してるつもりだったんだろうけど、あの人すぐに顔に出るから…。

代わりの当てが出来たって言った時のニヤけ顔で、あたしにはすぐわかったよ」


 千尋の説明を受けて、渚が同情を込めた顔で更に美幸に言ってくる。


「だからね? 広瀬さんも実由ちゃんと同じで今月いっぱいになったんだよ。

本人は『自分から話に乗っていったので』って言ってくれたけど…。

私達からすれば、一緒に交渉に行かなければ辞めなくて済んだのかなって思って…

それで、ちょっと今は複雑な気持ちなんだよ…」


 確かに以前に遥も『辞めさせるだけならいくらでもやり方はある』というような

話をしていたが、これはもうそんなレベルではなかった。

耕太の解雇に至っては理屈ですらなく、もうほとんど気分の問題だった。


 千尋達が揃って沈んだ表情をしていたのは、どうやらこちらの理由も大きかった

ようだ。


…人数の問題で自分達、事務員組は残留出来ることになっているのが、逆に申し訳

ないのだろう。


 千尋から話を聞いただけの美幸も、今まで会社のために懸命に働いてきた耕太の

気持ちを思うと何とも言えない心持ちになったのだった。

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