第33話 元気成分の充電
悠貴の誘拐未遂事件から数日後の日曜日。
美幸は莉緒と以前に学園で『遊ぼう』と約束していた通り、生まれて初めての
“友達と一緒にショッピング”というものにやって来ていた。
「美幸っち! 今度はあっち! あっち行こ!」
「ちょ、ちょっと待ってください! わっ! わわっ!」
商店街の真ん中で、美幸は莉緒に急に手を引かれてつんのめった。
「元気だねぇ…。こりゃ私も付いていくのが大変そうだ」
「元気過ぎです。はぁ…相変わらず落ち着きの無い子ね」
美幸と莉緒のその後ろ、美咲と遥は少し遅れてゆっくりと歩いて付いて行く。
「…それで、美幸はまだそこで働くんですか?」
「…あぁ、うん。まだ10日ほど期限が残ってるからね。
私としては少し休ませてあげたいんだけどさ…。
今回の試験は特に重要度が高いから…簡単には切り上げられないんだよ」
「…でも、あんなことがあったんですよ?」
遥は佐藤運輸で起こった事の顛末を、翌日の朝に美咲から聞いていた。
『また今度、遊びに来てやってくれる?』と頼まれた遥は、『今すぐ行きます』と
答えて、その日は学園を早退して美幸に会いに行ったのだ。
その日の美幸は流石に働けるような精神状態ではなかったため、翌日だけは会社
を休んでいた。
日が明けて多少は落ち着いてはいたが、やはり酷く疲れた様子だった美幸。
遥は顔を合わせてすぐ、以前に自分が母親の前で泣いてしまった時に美幸がそう
してくれたように、そっと抱き締めた。
美幸は、泣き出すことこそしなかったものの、無言で抱き締め返してきた。
その力は思いの外強く、美幸の心の叫びの強さを表しているような気がした。
恐れ、悲しみ、怒り……そこには色々な感情が入り混じっていたのだろう。
暫くして身を離した美幸は、『いらっしゃいませ』と笑顔を浮かべていたが…
やはり無理して笑っているのが丸わかりだった。
「あの日、私が会った時には多少は落ち着いていましたけれど…
『誘拐未遂の被害者』なんて、一般人でもそうそう経験することではありません。
精神的な負担という意味なら、もうそれで十分なんじゃないですか?」
遥は、その言葉遣いこそ丁寧だったが、口調には多分に棘が含まれていた。
「あー、うん。美月にも似たようなことを言われたよ。
でも、今回の試験だけは最低一月は続けないと上への説得力が…ね。
仮にここで中断させて認められなかったら、それこそ美幸の悲しみが無駄になる。
…それだけは、何としても避けたいんだよ」
「……………………………」
美咲の言うことにも一理ある…と考えた遥は、その言葉に無言で返した。
ただ、理解は出来るが、納得は出来ない……複雑な心境だった。
「まぁ、元凶の社長も高槻君が厳重に警告したし、
実行犯だった当の本人も、もう職場からは居なくなったからさ。
これ以降は大きな問題も起きないだろうってところで勘弁してくれないかな?」
「……本当に、もう大丈夫なんですね?」
そう言って、美咲に挑むような視線を向ける遥には、妙な迫力があった。
一回り以上も年下の少女とは思えないその雰囲気に、美咲は思わず怯む。
「う、うん。まぁ、同僚の事務員の人達はまともみたいでね?
あれ以降は美幸を気遣ってくれているらしいんだよ」
美幸の存在を秘匿する必要があるため、細かい事情は説明してはいなかったが、
美幸を駐車場に送っていった次の日に、突然、辞めていたことが発覚した悠貴と、
元気の無い美幸の様子を見て、ある程度の状況を察したらしい。
翌々日の千尋は、『本当にゴメン!』と謝罪した後、美幸の『なんとか兄さんが
駆けつけてくれましたから…』という言葉を聞くと、詳しい状況等を聞き返すこと
も無く、両手を握って『良かった…』と言って泣いてくれたらしい。
渚も、時刻が深夜に差し掛かっていたにもかかわらず、室内から黙って見送って
しまったのを後悔したらしく、涙ながらに謝ってくれたとのことだった。
ブラック企業といっても、社員全員がおかしいわけではないらしい。
隆幸の見立てでは、少なくとも事務仲間に関してはまともな人達のようだった。
むしろ、おかしい部分をフォローしている千尋達のような社員が居るからこそ、
破綻せずに経営出来ているのだろう。
問題があるのは、その人材の価値に気づけない会社の方なのだ。
「それなら良いんですけれど。
…何にせよ、私はもう何も起こらないことを祈っています」
「うん。それは私もそう思うよ。
明日からまた始まるけど…これ以降は平和に終わってもらいたいもんだ」
「明日から…。はぁ…。流石はブラック企業ですね…」
世間的にはシルバーウィークと言われる連休の真っ只中。
一般的な企業なら、今日を含めて水曜日まではずっと休みのはずだった。
運送業という職種の関係もあるのだろうが、週一回の休み以外は祝日だろうが
何だろうが完全スルーの業務形態は健在だった。
「ま、そこは仕方ないよ。流石にそこまでは曲げられないからね」
そんな美咲の言葉に、再び遥が『はぁ…』と深い溜め息を吐いて呆れていると、
先を行っていた莉緒が美咲達の傍まで走って戻ってきた。
「遥ちん! 変な味のソフトクリームが売ってたから、一緒に食べようよ!」
「嫌よ。…というか、その渾名は止めてちょうだい」
「えー! 可愛いじゃん! 私のことも『莉緒ちん』って呼んで良いよ!」
「…遠慮しておくわ。何だか、その単語を口にしたくないもの」
「ぶー! ケチー!」
そこに、緑色のソフトクリームを両手に1つずつ持った美幸が合流してきた。
「莉緒さん! ほら買ってきましたよ! 4人で半分ずつ食べましょう!」
「……食べる前に先に聞いておきたいんだけれど…美幸? それは何の味なの?」
パッと見では抹茶味のような色合いだったが…先ほどの莉緒の『変な味』発言を
憶えていた遥は、満面の笑みの美幸にそう聞き返した。
「はい! これはオクラ味だそうです!」
「……オクラ…味?」
遥が口元を引き攣らせて、そう呟きながら見た美幸の背後の立看板には――
『今が旬! 夏バテに効く! ネバネバ新食感のオクラ味!』
という、理解に苦しむ文字が並んでいた…。
「新食感…。出来れば一生体験したくないわね…」
「うーん。でも、もう2個買っちゃたしさ~。折角だから3人で分けようよ!
美味しいかは分かんないけどさ、きっと面白いよ!」
「はぁ…仕様がないわね…。……え……3人…?」
莉緒の言葉を受けて隣を振り返ってみると、美咲の姿が無くなっていた。
「あ、美咲さん? さっき急にそこの雑貨屋に入って行ったよ?」
遥の背後の店舗を指差して、莉緒がポツリとそう言った。
(しまった……逃げられたわ)
今日の美咲は一応は美幸の付き添いのはずだった。
普通に考えれば意味もなく居なくなったりはしない。
つまり…この失踪は意図的なものだろう。
「…じゃあ、私は美幸と半分ずつ食べるから。あなたは一人で一個食べなさい」
「え~っ! それだと私がなんか寂しいし、みんなで分けようよ~!」
その後、莉緒に押し負けて結局は3人で均等に食べることになったのだが……。
味はともかくとしても、問題の食感が里芋の摩り下ろしのようなものだったため、
ソフトクリームにもかかわらず口内が粘ついて最高に気持ち悪かった。
…ちなみに美咲は食後にいつの間にか合流していたのだが、口直し用のジュースを
持参していたため、何とか遥の許しを得ることが出来たのだった。
「結局、ほとんど冷やかしになっちゃったね~」
「でも、私は楽しかったですよ?」
「そうね…。私はやっぱり騒がしいのは苦手だけれど…。
まぁ、たまにはこうして皆で出掛けるというのも悪くはないわね」
「うん! また変な食べ物を見つけたら、みんなで食べよう!」
「それは嫌よ」
遥の素っ気無い返答に、莉緒が『え~!』と言いながら騒いでいる。
…そして、その横でそんな2人を見て笑っている美幸の様子を、美咲は少し離れた
ところから眺めていた。
本当に、あの短期留学を初めに実施していて良かった。
今日の外出は美幸の気分転換には最適だった。
美咲達、研究室のメンバーで出掛けることも出来たのだろうが、事情を知っている
人間だけでは、やはり美幸が沈み込む可能性は高かった。
しかし、今回は全く事情を知らない莉緒が居ることで、先日の事件を話題として
出すことは出来ない環境だ。
しかも、莉緒の底抜けに明るい性格に感化されたのか、最初こそ一目で空元気
だと判るような笑顔だった美幸が、今は本当に元気そうな笑顔に変わっている。
…そして、美咲の目に狂いが無ければ、莉緒は恐らく何かに気付いている様子だ。
彼女なりに事情を詮索しないままで元気付けようとしてくれているのだろう。
…美幸は僅か2ヶ月の留学で、本当に良い友人達を得られたようだった。
佐藤運輸での業務は残り10日余り。まだまだ勤務の予定日数は残っている。
とはいえ、流石に今回以上の問題はもう起こらないだろう。
あれ以降は社長の道彦も懲りたようで、美幸を避けるためか朝からほとんど会社
に居ないようだった。
念のために尾行を付けて調べさせてみたが、今回は喫茶店やパチンコ屋で時間を
潰しているだけのようで、特に怪しい動きも無いらしい。
起こったこと自体は決して歓迎出来るようなものではなかったが、結果としては
厄介者を纏めて排除出来たことによって美幸にとっての勤務環境は改善した。
心に負担をかける目的で実施された今回の試験。
“人間社会にとって危険が無いか”ということを証明するのが主な目的だったが、
おおよその予想通り、やはり美幸にはそんな兆候は見られなかった。
不平不満が無いわけではないし、やはり悠貴に対しては多少は怒りも覚えている
ようだが、起こったことを考えれば控えめ過ぎる程度だった。
そして、その心の傷も今日の様子を見るに大分マシにはなったようだし、何とか
今回の試験も乗り越えられそうで、美咲はホッとしていた。
今後も油断するつもりは無かったが、とりあえずは無事に終われそうだ。
今日の友達との買い物は、突然、決まったものだった。
結局、防犯の問題もあって、大きなショッピングモールのような場所へは連れて
行ってやれなかったのは残念だが、この小さな商店街でも美幸は十分に楽しめた
ようだ。
当初は『職権乱用だー!』等とからかわれたものだったが……。
美咲は『親バカもたまには悪くないもんだね』と、はしゃぎながら家路につく
3人の姿を後ろから眺めながら、数ヶ月前の自分の判断を、内心で褒めてやるの
だった。




