第31話 どうしようもないクズ
やはり、というべきか。千尋の不在の影響は大きかった。
普段ならば終業時間の21時にはすぐに帰宅準備に入っている美幸だったが、
今日に関しては残業をすることになったのだ。
平常時なら、千尋に任せておけば当日の残業と翌日の準備の両方をこなす羽目に
なったとしても、日が変わる頃には終えることが出来ているらしかったが…。
渚のみの今日は、当日の残業だけで手一杯になってしまっていた。
副社長の安恵は美幸には帰るように言ってきたのだが、当人は事務作業を手伝う
つもりは無いらしく、このままでは渚に全ての負担が掛かってしまうような状況に
なる。
そういった経緯もあって、今日は美幸も残る判断をせざるをえなかった。
「…というわけなので、兄さん。迎えはこちらから連絡してからでお願いします」
『…へぇ、そうか。うん、わかった。そうすることにするよ』
美幸は電話で隆幸に簡単に経緯を説明した後、帰りが遅れる旨を伝えていた。
「それでは、終業後にまた改めてご連絡させて頂きますね?」
『うん、わかったよ。…実由、頑張ってね』
「あ、はい。ありがとうございます」
簡単に用件を伝えたところで、すぐに電話を切る美幸。
するとそこに、渚が隣から申し訳なさそうに声を掛けてきた。
「ゴメンね? 実由ちゃん。
明日の分の伝票整理だけやってくれれば、後はこっちでやっておくから…」
「はい。わかりました」
伝票整理だけでも美幸が片付けられれば、残りの雑務は渚だけでも何とかなる
らしい。
そして、それだけの仕事なら23時頃までには処理出来そうだった。
「アレ~? 実由チャン、今日は残業~? 珍しいね~」
美幸が手早く終わらせようと作業に取り掛かろうとした、その時。
不意に悠貴がそう言って話しかけてきた。
いつもなら、何だかんだと理由をつけて美幸を誘い出そうとしても、それが無理
ならさっさと帰っていくのだが…。
今日は何故かあれから一度も誘おうとしてきていないのに、職場にだけはずっと
残っている。
本人が言うには何やら社長に用があるらしいのだが、妙に機嫌の良いその様子が
渚には何処か不気味に感じられていた。
「ところで実由チャンってさ~、どのあたりに住んでんの~?」
「それは…秘密なんです。ごめんなさい」
「え~! いいじゃんか~それくらいさ~!
あ、でも…遠かったらオニーサンのお迎えも遅くなるんじゃないの~?
早めに連絡したりした方がいいかもよ~?」
「あ、いえ。それは大丈夫です。30分程度でここまで来られますから」
実際は研究所から2時間ほど掛かっているのだが、連絡したのはつい先ほどだ。
研究所から来ていることを知られるわけにはいかないので、普段から21時頃に
合わせて迎えに来られるように、隆幸は早めにあちらを出てくれているらしい。
案の定、隆幸は今日も既に近くまで来ていたらしく、美幸の仕事が終わるまでは
近くの適当な場所で時間を潰しておくと言ってくれていた。
…さっき隆幸から聞いた現在地を考えると、それくらいが妥当な到着時間だろう。
「…へぇ~、30分…ねぇ…」
それを聞いた悠貴は、美幸に気付かれないようにしてニヤリと笑った。
30分もあれば、十分に余裕がありそうだと思ったからだ。
「…今日はこれで失礼します。ええっと…小野さん、本当にもう大丈夫ですか?」
「うん、ありがとう。手伝ってくれて助かったよ。
これなら後は私だけでもなんとか日付が変わるまでには帰れそう」
とはいうものの、時刻は既に23時過ぎになってしまっていた。
いつもは自分のルートの伝票管理しかしていなかったこともあって、多少の時間
が掛かった美幸だが、流石に2時間ほどの時間を掛ければ終えることが出来た。
「そうですか…。あの…最後までお手伝い出来なくてすみません」
「いいよいいよ。これだけ手伝ってくれたら十分だよ。
私も難しいのは明日に回して千尋さんにお願いするつもりだから。
今日は出来る範囲しかしないつもりなの」
「そうですか、わかりました。…それではすみませんが、お先に失礼致します」
そう言って職場を後にした美幸は、外に出てすぐに隆幸に迎えのお願いをしよう
と携帯電話を取り出す。
…だが、まるでそのタイミングを計っていたかのように、美幸に声を掛けてくる
人物が居た。
「アッレ~! 実由チャンまだここに居たの~?
さっき見かけたんだけど、もうオニーサンの車が駐車場に来てたよ~?」
悠貴だった。
もうとっくに帰っていたと思っていた美幸は少し驚いたが、渚と話していた時の
会話を思い出してすぐに納得した。
話に出ていた“社長の用件”というものが長引いていたのだろう…と。
それよりも、悠貴の話ではもう隆幸の車が到着しているらしい。
帰りが遅い自分を心配して早めに着いて、待っていてくれたのだろうか?
社員用の駐車場はこの事務所から歩いて2、3分のところにある。
わざわざここまで来てもらうよりも、こちらから向かった方が早いだろう。
「あ、そうなんですか? なら、私は急いで向かうことにします。
内田さん、教えて頂いてありがとうございます」
「いいっていいって! オレも帰るとこだし~、駐車場まで一緒しようぜ~」
「え? あ、えぇ~っと……はい、わかりました」
以前、遥から『絶対について行っちゃ駄目』と言われたことを不意に思い出した
美幸だったが、駐車場までは距離もそう無い。
それに、そこからは別々に帰るのだから構わないのかも…と美幸は考えた。
言いつけとはいえ、ずっとその誘いを断り続けてもいたし、それくらいなら…と。
…もし、その時に言われていた『仕事の話以外は聞く耳持っちゃ駄目』という言葉
も重要視していれば、本当に到着しているのかを隆幸に電話で確認をしたのだろう
が…。
他人を疑うことが苦手な美幸は…この時、その確認をすることはなかった。
そして到着した駐車場には……見覚えの無い車が一台あるだけだった。
住宅街から少し外れたところにあるその駐車場は、道路側からは塀が邪魔をして
見えにくいが、敷地内に入ればどんな車が停まっているかは一目でわかる。
時間が遅いこともあって、今夜は車通勤の社員は美幸と悠貴以外は残って居ない
はずだった。
…しかし、そこに停まっていた車は悠貴のものでも隆幸のものでもない。
隆幸の車は普通の黒いセダン型の車だったし、美幸の記憶では悠貴の車は不自然
に車高の低いゴテゴテした装飾の付いた車だったはず…。
だが、そこに停まっていたのは、後部座席が濃いスモークガラスで見通せなく
された…シンプルなデザインの白いバンだった。
…しかも、運転席にも助手席にも、既に見覚えのない人物が乗っている。
「あれ? あの…あの車は私の兄さんのじゃないですよ?」
「あ~、そりゃね~。あれはオレのダチの車だし~」
そう言ったかと思うと、悠貴は突然美幸の腕を掴んできた。
「痛っ! えっ? な、何ですか!?」
「いや~。実由チャン、チョロ過ぎ。ヒャハハ!」
質問に答えることなく悠貴は美幸をその車の方に引きずっていく。
すると、車の中からその友人らしき2人が降りてくる。
「へぇ~その子が~。ホントにカワイイじゃん」
「悠ちゃん悪党~。誘拐犯だ~。ギャハハハ!」
「…!!」
いくら危機感が薄い美幸でも『誘拐』という言葉で流石に現状を理解した。
腕を振り払おうと抵抗してみるが、運送業で鍛えたその腕力には敵わない。
「暴れんなって! 明日にはとりあえず帰してやっからさぁ!」
美幸は純粋な性格だったが、それでもアンドロイドなのだ。
状況と悠貴達の会話から予想されるその目的を検索し、理解出来てしまった。
…そして、わが身にこの後訪れるであろう事態に恐れと嫌悪感が湧き上がる。
「やめてください! 離して!」
「アハハハハッ! 『離して!』だってよ! ホントカワイイな! でも――」
“パリン!”
悠貴が『でもムリ~』と軽い口調であざ笑おうとした―――その瞬間。
バンのサイドミラーが突然割れた。
そのミラーの本体には、まるで何かが通過したような、小さな穴が開いている。
悠貴達が音に反応してそのミラーに気を取られていると、すぐに“バタバタッ”
という慌ただしい足音と共に10人近い人数の人影が駐車場の敷地内に雪崩れ
込んできた。
「え、ちょ…なんだよ…! コレ!」
“(パシュ)ドガンッ”
くぐもった小さい音と同時に、今度は逆のサイドミラーが弾け飛んだ。
「…騒がしいな。こちらは君達に勝手な発言は許可していないよ?」
ここに来て、悠貴達3人は状況をやっと把握出来た。
…というより、流石に目の前で発砲されれば嫌でも解る。
今、悠貴たちは銃を構えた黒服の男達に取り囲まれているのだ。
しかも、ただ横に並んでいるというのではなく、こちらをあらゆる方向から監視
しつつ同士討ちにならないように上手く位置取りを考えられたフォーメーション。
…相手を制圧することに長けた、プロによる計算された包囲網だった。
悠貴達にはその立ち位置の詳しい意図までは理解出来なかったが、それが素人の
動きではないことだけは明白だった。
「…え~っと…アレ? あの…オニーサン……そっち系のヒト…だったんスか?」
驚きと恐れから思考が上手く回らない中、唯一見覚えのある笑顔の人物に悠貴は
そう声を掛けた。
人影は全員黒いスーツ姿だったが、服の上からでも分かるほどに屈強な体つきを
している。
…その様子から悠貴は、隆幸を俗に言う裏社会の人間だと判断したのだが――
“ドガァンッ”
しかし、返ってきたのは言葉ではなく銃声だった。
隆幸の持つ拳銃にだけはサイレンサーが付いておらず、その音は駐車場内に大きく
反響した。
…そして、上空に向けて撃った銃口を今度は悠貴に向けて、隆幸は言葉を返す。
「まだ理解出来ていないのかな? それとも記憶力が悪いのかな?
もう一度だけ言ってあげるけれど…発言の許可はしてないんだ。判るかい?
それと……君はいつまでその子の腕を掴んでいるつもりだい?」
言葉の最後、『それと』以降は途中で急に声のトーンが落ちた隆幸のその台詞
は、決して大きな声ではなかったが、妙な迫力を伴っていた。
…そして、ずっと浮かべている隆幸のその笑顔は、決して自分達に対して友好的な
モノではないということに、やっと悠貴は気付いた。
「……ぁ………」
遅れてきた命の危機に対する恐怖で思わず声を出しそうになって、悠貴は咄嗟に
“声を出したら死ぬ!”と美幸を掴んでいた手を放して両手で自らの口を塞いだ。
「っ! 兄さん!」
美幸は自由になった瞬間、隆幸に目掛けて走り寄って、その体に抱き付いた。
…余程、恐ろしかったのだろう。その体は小刻みに震えている。
隆幸は悠貴達から目を逸らさないままで、美幸の背中を“ぽんぽん”と軽く叩いて
安心させてやった。
「美幸、怪我はしていないかい?」
「はい…大丈夫…です。あの…ありがとうございます」
まだ少し混乱しているのか、たどたどしい口調で返答してきた美幸。
一瞬、視線を下に向けて様子を見てみると、抱きついてくる腕の力は緩んでいない
ものの、少しは安心してくれた様子だった。
…何とかギリギリ大丈夫そうな美幸に、隆幸はひとまずホッとした。
そして、美幸に気を遣いつつ、隆幸は恐怖で固まっている悠貴達に向き直った。
「こちらがタイミングよく駆けつけたから、もう解ってると思うけれど…
我々はこの子の身の安全を守るために、常にあらゆる場所から監視していたんだ。
その上で言うんだけれど…君達は今後二度とこの子へは近づかないように…ね?」
その台詞に半泣きになりながらも、悠貴の友人2人は頷いていた。
彼らからしてみればちょっとした悪巧みに加担しようと軽い気持ちで誘いに乗って
来たら、あっという間に彼らに包囲され、いきなり銃を突きつけられているのだ。
…突然の命の危機に、発狂寸前のパニックになっているのだろう。
だが、悠貴はそれを聞いてスッと手を挙げて発言の許可を求めてきた。
「ん? 何かな? うん、一時的に喋ってもいいよ?」
「あの~…んじゃオレ…これから職場にはどうやって行けば…良いんスかね?」
その予想以上の下らない質問に、隆幸は呆れ返った。
目の前のクズは、同僚を誘拐をしようとしておきながら、失敗してもまだ働けると
思っているらしい…。
あまりの馬鹿馬鹿しさに答える気にすらならなかったが、答えなければこの男は
きっと明日も何食わぬ顔で出勤してくるのだろう…とびきりの馬鹿だった。
「…もうここで働くのは諦めてくれ、それがお互いのためだよ」
「…じゃ、じゃあ月末に今月の給料を受け取りに来るだけなら…良いっスよね?」
“(パシュ)パリン!”
すぐ横にあったヘッドライトが砕け散り、悠貴は思わず『ひっ!』と短く悲鳴を
上げた。
…今回、隆幸は発砲の合図は出していない。
これは、あまりの悠貴の馬鹿さ加減に、協力してくれている部隊も堪忍袋の緒が
切れ掛かっているのだろう。
状況を察した隆幸は、事が大きくなる前に手早くこの場を収拾することにした。
「給料欲しさに現れて、今のライトみたいに君の頭が弾け飛んでも構わないなら…
それでも良いんじゃないかな?」
そう言うと、隆幸はニッコリと笑って見せた。
再び短く『ひっ!』と悲鳴を上げて、悠貴はブンブンと首を横に振っていた。
「分かったら今すぐここから消えてくれ。あと、他言はしないようにね?
あ、それから理解出来ていないと困るから、一応言っておくけれど…
ここの社長程度の金や権力では、僕らをどうにかするなんて無理だからさ、
復讐とかそういう余計なことは今後も考えない方が良いよ?」
悠貴の馬鹿さ加減は今さっき実感したばかりだ。
念を押しておかないと、今の恐怖を忘れたら、数日後にも再び美幸を誘拐しようと
しかねない。
この男こそ、本当に“馬鹿は死ななきゃ直らない”というやつだ。
再びブンブンと首を(今度は縦に)振って、悠貴とその友人達は、銃弾によって
あちこち壊されたその白いバンに乗り込むと、全速力で走り去っていった。
…ここまで脅しておけば、もう彼らが再び美幸の前に現れることはないだろう。
隆幸はとりあえず事態が落ち着いたのを見届けると、一度だけ大きな溜め息を
吐いて…まずは美幸の頭を撫でてやることに専念するのだった。




