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第30話 愚者達の奸計

 その日の業務は慌ただしく始まった。


「おはようございま…」


「実由ちゃん! 今日は電話番だけでいいから! なるべく全部出てね!」


 出勤早々にそう指示を受けた美幸は即座に状況を理解した。

渚以外の人影が事務室に無いのだ。つまり…見える範囲に千尋が居ない(・・・・・・)


「わかりました!」


 美幸が手早く準備を整えてデスクに着くと、ちょうど電話が鳴り始めた。


 幸いまだ電話の多い時間帯まで少し余裕があることもあって、その電話を受けた

後には、すぐに電話は続かなかった。


 なので、美幸はその隙に念のために渚に事情を確認することにした。


「小野さん。土屋さんは、今日はお休みされているんですか?」


「うん。なんかお母さんが階段から落ちちゃったらしくてね?

それで足の骨が折れたってことで、入院手続きで急遽(きゅうきょ)来れなくなったらしいの」


 配達伝票の方角別の仕分けの作業をしながらも、渚は事情を説明してくれた。


「でも、今日は私が千尋さんの代わりに最後まで居る予定にしてて、

夕方以降も実由ちゃん一人にはならないようにするから、そこは安心してね」


 勤務が始まって既に3週目の半ば、美幸も仕事に慣れてきてはいた。

しかし、流石に一人で全てを切り盛りできるほどの余裕があるわけではなかった

ので、渚のその言葉には素直に安堵した。


「ありがとうございます。それはとても助かります」


「ううん。こっらこそ助かってるよ。

私もやっぱり一人で一日中じゃ、ちょっと厳しいから。

…でも、再来週からはこんな事態でも一人だと思うと…気が重いなぁ」


 美幸の試験期間は、今回も最大で2ヶ月を予定していたのだが、

佐藤運輸側から…というより副社長の安恵から、9月いっぱいでの美幸の雇用期間

の終了を申し出られていた。


 研究所の側からすればもう少しデータを取りたいところだったのだが、最低限の

データ量は得られそうなので、この提案を受け入れることになった。


 拒否することで余計な問題を呼び込むリスクを考慮し、ここは妥協した方が良い

と判断したのだ。


 だが、佐藤運輸には(いま)だ新しい人員は確保されていない。

今の状態で10月に入れば、渚が危惧した通り…間違いなく今より厳しい労働環境

になってしまうだろう。


 その上、直接の被害は無いものの社長の道彦がセクハラ発言をしてきたり、食事

に連れて行かれそうになったりと、渚にとっては心労の溜まる職場だった。 


…しかし、だからといって渚が辞めれば、それこそ千尋一人になってしまう。


 同情で続けていくような職場ではなかったが、3ヶ月とはいえ今まで千尋に色々

と気を遣ってもらい、お世話になった手前、渚は辞職を決断出来ないでいた。


「実由ちゃんは今後就職するって時にはもっと大きい所に入った方が良いよ?」


「…はい。ありがとうございます」


 何処か諦めたような瞳をした渚の横顔を見て美幸は何も言えなくなった。


 美咲や遥に相談した時にも『放っておくのが一番』と言われていたので具体的な

ことはしていない美幸だったが、やはり身近な人間の苦悩を感じ取ると、何か自分

にも出来ることは無いのかと、つい考えてしまう。


「…あの、1つ伺っても宜しいでしょうか?」


「ん? なぁに?」


「小野さんは、その…どうしてここに就職しようと思ったのですか?」


「え? …あぁ、うん」


 美幸のその言葉を聞いて、渚は美幸の出勤初日の千尋との会話に思い至った。


 そういえば千尋は転職をしない理由に年齢を挙げていた。

そういう意味では、今年23歳になったばかりの渚なら、十分に転職できる水準

なのではないのか…という話なのだろう。


「私の場合は、年齢というより学歴面でちょっと…ね」


 作業の手を止めないままで、渚は美幸にも分かり易く説明することにした。


 まだ2週間と少しの付き合いではあったが、美幸には無知な部分…言葉を選ばず

に言うなら、“世間知らず”なところがあるのには気付いていた。


 自分で『社会勉強も兼ねて』とも言っていたし、美幸はこちらが思っている以上

に無知なのかもしれない…と渚は考えている。


「私の家って、あんまりお金持ちじゃなくてね…。

大学、親は行けって言ってくれたんだけど…負担になるのがわかってたから。

高校を卒業したらすぐに、知り合いの紹介で他の会社に就職したの。

でも、経営不振が原因でその会社が数年で倒産しちゃってね…。

それで、再就職として…ここに来たんだ」


「その時にこちらに決めたのは、その…何故なんでしょう?」


 失礼な質問かもしれない…と思った美幸は少し躊躇いがちにそう尋ねてみる。

そんな美幸に、渚はなるべく軽い口調になるようにしながら答えた。


「前に千尋さんが言ってたと思うんだけどね? 

学歴がないと若い人が選ばれるって…そういうことなんだよ。

歳がそう変わらなくても、高卒と大卒じゃやっぱり違うからね…。

世間的にはね? 学歴が無いのは勉強熱心じゃないっていう認識になるの。

それなら会社に入れても碌に役に立たないじゃないか…って判断になるんだよ」


「でも…新米の私がこういうことを言うのは逆に失礼になるかもしれませんが、

小野さんはとても優秀な方だと思います」


「ふふっ…ありがとう。実由ちゃんは本当に優しいなぁ…」


 美幸の心遣いが嬉しくて、涙(もろ)い渚は不意に泣きそうになってグッと堪える。


…渚は美幸が働き始めて3日程経った時に、千尋が言っていた言葉を思い出した。

『あの子は、今時では絶滅危惧レベルの純真っ子だ』と。


「確かに、実力主義っていう会社も沢山あるけどね?

それは、入社後(・・・)に年齢や勤続年数で判断しないってことなの」


「でも、小野さんは経済的な理由で大学に行っていないだけ…なのですよね?」


「それは仕方ないよ…会社の人だって暇じゃないから。

就職希望者の全員を研修社員にするわけにはいかないでしょう?

その数を減らすために(ふるい)にかけるには“学歴”ってちょうどいい基準になるんだよ」


「あの、それじゃあその…やはり再就職は難しいんですね…」


 まるで自分のことのように落ち込む美幸の姿を見て、渚は逆に申し訳ない気持ち

になった。


「うん。でも、それは仕方ないよ。

運が悪かっただけ…って言ったら雇ってくれてるこの会社に失礼だけどね。

最初の会社が倒産したのだって、偶然そのタイミングで親会社が倒産したのが

理由だったし…。

人生って、案外そういうものだと思うよ?」


 『気にしないでね?』と言って、渚に逆に気遣われてしまったことに申し訳なさ

を覚えながら、美幸はまた、この世間というものの現実に疑問を覚えてしまう。


(つまづ)いて膝を擦り剥いたらもう立ち上がれない…というのはとても悲しい話だ。


 アンドロイドの美幸から見ても、評価を下す側の人間と評価される立場の人間に

そこまでの大きな違いがあるようには思えなかった。


 以前、学園に居た頃に音楽教師が授業に参加していない遥に対して苦言を呈して

いたことがあったが……美幸はアンドロイド故に、気付いてしまっていた。


…遥のピアノの方が、その音楽教師よりもより正確に演奏出来ていたことに。


 だが、その話が話題に出た時にも、遥に言われていたのだ。

『実力よりも経歴が評価される世界は、美幸が思っているよりも広いのよ』と。

                    

 海外の有名な音楽大学出身であるその教師の発言力は、校内では(・・・・)そこそこのもの

らしい。


…ただ、所詮は出身というだけ…といった程度の成績だったらしく、それもあって

遥の母は娘の指導をその教師には任せなかったらしいが。


『世の中というものはね。ややこしくて、時にとても理不尽なものなんだよ』と、

そう美咲には聞いていたが、実際に具体的な形として目にすると…やはり素直には

納得出来ない美幸だった。




「アッレ? 土屋サンは今日お休みッスか~?」


 軽い口調で事務所に入ってきたのは美幸の担当している東ルートの夜シフト、

内田悠貴だった。


…時刻は13時。出勤時間を1時間も過ぎているが気にする様子は全く無い。


「え…ええ。今日は急用でね。明日からは来られるらしいですよ」


…渚は悠貴が苦手だった。


 見た目通りの軽い性格もそうだが、今までは同年代という理由で必要以上に話し

かけてきていたにもかかわらず、実由が出勤し始めてから急に実由にばかり絡んで

いる。


 正直、話しかけられないのは逆にありがたいくらいだったが、そのあからさまな

反応で何が目的なのか嫌でも分かってしまうのだ。


 渚も鈍いわけではないので分かってはいたのだが、自分以外が絡まれている様子

を見て、ここまではっきり態度に出ている目的…その標的の一人に数えられていた

のかと思うと、寒気がする。


 実由は少女らしい幼さは残るものの、凄く綺麗な子であるのは間違いない。

暇さえあれば、こうして事務所にやって来て“食事”だとか“遊び”だとか口実は様々

だが、執拗(しつよう)に実由を休日に誘い出そうとしている。


 これが普通の恋心なら、まだ微笑ましいのだろうが…。

綺麗な子を見つけるとすぐに声をかけてまわるその態度は、あまりにも下心が見え

見え過ぎて、嫌悪感が湧いてくるほどだ。


…きっと、この男は女性を“欲望の対象”程度にしか見ていないのだろう。


 正直、社長にも同じ雰囲気を感じていたが、あちらは副社長が居る間は大人しく

していることが多いので、抑制出来ない分、悠貴の方がより性質(たち)が悪かった。


「あー! 実由チャンみぃ~けっ! どう? 今度の週末のハナシ」


「あ、はい。すみません。やはりお出かけは難しそうです」


「なに? また例のオニーサン?

そんなの無視しちゃいなよ! たまには冒険ゴコロも大事だよ?」


 実由にしつこく食い下がる悠貴。

その困っている様子を見た渚は、その会話に横から割って入った。


「すいませんが、内田さん。

今日は千尋さんがお休みで、とても忙しいんです。

実由ちゃんを誘うのは、また別の機会にお願いします」


 いつもなら千尋が適当に追い払うのだが、今日はその千尋は居ない。

実由は、知り合って20日も経っていない渚のことを、自分のことのように真剣に

悩んでくれていた、とても優しい子だ。


 相変わらず悠貴のことは苦手な渚だったが、『この“絶滅危惧レベルの純真っ子”

を、今日は私が守らないと』と勇気を振り絞ったのだ。


…しかし、それに対する悠貴の反応は、あまり良いものではなかった。

“バンッ”とカウンターを手の平で叩き、苛立った様子で睨みつけてきたのだ。




「あの~? 小野サ~ン? カンケーないんで~、引っ込んでてくれます~?」


 気の強い千尋が居ない今日を都合が良いと思っていた悠貴は、横から思わぬ邪魔

が入ったことに我慢ならなかった。 


…それに、渚に対して荒々しい態度をとってそれを見せ付ければ、その隣の実由が

自分の迫力にビビって、こちらの言う通りに週末の誘いにも乗ってくのではないか

とも思っていた。


 悠貴にしてみれば、一度誘い出してしまえばこっちのものだ。


 適当に理由を付けて人気の無い所に連れ込めさえすれば、恥ずかしい写真の一枚

でも撮って、あとはそれをネタにいくらでも言いなりに出来る。


 ましてや、実由はかなり騙し易そうだし、誘い出せれば後は確実だろう…。

そう思っていた。


 それが、いつも大人しい、根暗そうな女に邪魔されたのだ。

『いっそこいつから弱みを握って脅してやろうか?』そう思った…その時だった。


「あ、内田君。もう来てたのか。…今、ちょっといいかな」


 社長の道彦が計ったようなタイミングで悠貴に声を掛けてきのだ。


 流石に悠貴も社長を相手に声を荒げるわけにもいかない。

…今日のところは大人しく引き揚げるしかなかった


 渚を一睨みして『チッ』と聞こえるように舌打ちして、悠貴はその場を去った。



「悠貴、例の件…場所の確保が出来たぞ」


 社長室で悠貴と2人きりになると、すぐに道彦はそう言ってきた。


 今、副社長の安恵はこの部屋には居なかった。

とはいえ、近所に買い物に行っているだけだ。すぐに戻ってくるだろう。


 美幸が入社して以来、安恵は過剰なくらいに道彦の行動を監視してきている。

内緒話をするのなら、なるべく早く済ませた方が良い。


「マジっすか! んじゃ、早速今日決行しても良いっスか?」


「急だな、オイ。さっきも邪魔されてたし…。何だ? 腹でも立ったか?」


「見てたんスか? じゃあ助けてくださいよ!

つか、そうじゃなくて今日はめんどくせぇババァもいねぇし、丁度良いんスよ」


「そうか。でも昼間は止めとけ。やるなら人目につきにくい…夜だ」


「は? なんかあるんスか?」


「あぁ、最近入ったガキの方な。どっか良いとこの娘らしいんだよ。

何かネタ掴む前に揉め事でも起こしたりしたら、ちょっと厄介そうでな…」


「え~! んじゃ実由ちゃん、ダメっスか?」


「いいや、構わねぇよ。弱みさえ握ったら、もうこっちのもんだからな。

むしろ面倒だから早めに片づけときたいし…そっちの方が良い。

但し、やることやったら縛り上げて部屋にでも転がしとけよ?

…俺も後で行って、楽しませてもらうからよ」


「了解っス! でも、もし失敗してもちゃんと助けてくださいよ?」


「分かってるよ、金ならある。どうなっても問題ねぇよ」


 下卑た笑みを浮かべながら、道彦は悠貴に最近買い取った、とある物件の鍵を

手渡した。


 そして、それを受け取った悠貴もまた、同じような悪い表情を浮かべながら、

事務所で懸命に働く美幸の姿を横目で盗み見るのだった。

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