第29話 美幸のストレス度・中間報告
「こちらが、ここ2週間の経過報告です」
隆幸は、美幸が働き始めてからの詳細情報が記された報告書を、美咲と洋一に
手渡しながら、口頭でもある程度の経過を伝えていた。
「…うん。順調といえば順調だね。それで隆幸君。問題の社長はどうなのかね?」
「それなんですが…この2週間、副社長の安恵が必要以上に目を光らせていたこと
もあって、大人しくしています。
どうやら自社の社員にもおしどり夫婦を装っているらしく、安恵の前ではおかしな
行動はしないようですね。
精々、小野渚という気弱そうな事務員にセクハラ紛いの発言をして軽く揉める程度
…でしょうか」
この様子だと、安恵は美幸が勤務している期間は道彦の動きを警戒して、ずっと
出かけずに会社に居るつもりのようだ。
面倒が無いのは正直に言うと助かるが、逆に抑圧されてストレスが溜まった社長
の道彦が大胆な行動に出る可能性は十分にあった。
今の所は美幸の身には何も起こってはいないが、隆幸は引き続き油断しないよう
に心掛けていた。
「それよりも警戒すべきなのは、内田悠貴という人物ですね。
とりあえず美幸には相手にしないようにさせていますが…
顔を合わせる度に、毎日のようにしつこく言い寄って来ています」
「内田悠貴?
…あぁ、この夜間配達担当の青年か。問題のある人物なのかね?」
「はい。すぐに専門機関に調べさせたのですが、わかりやすい遊び人ですね。
最も分かりやすい表現をするなら…安いチンピラです」
「安いチンピラ、って…。
ふむ、隆幸君にしては中々に厳しい物言いをするんだね?」
いつも穏やかでにこやかなイメージのある隆幸の、その辛辣な表現に面食らう
洋一だったが、そこに美咲がフォローを入れてくる。
「いや、所長。アレは仕方ありませんよ。
私も美幸の監視記録で確認しましたけど、何も考えてないアホの典型でしたよ。
中途半端に顔が良いんで、周りの似たような連中の評価を勘違いして、自分に変な
自信を持っている。
実際、まともに相手にすると一番面倒なタイプですね…」
美咲はそう言った後、眉間に皺を寄せる。
自分の経験上、ああいうタイプは行動の結果を想像出来ないので、致命的なところ
まで気付かずに踏み込んでしまうことが多い傾向がある。
過去に似たような男が美咲に言い寄ってきたこともあるが、何回あしらっても、
“照れているだけ”とか“いずれは自分に惚れる”とか都合のいい解釈しか出来ずに
しつこく付きまとって来たことがあった。
結局、その男は美咲が警察に相談する段階になって初めて自分の行動のマズさに
気付いたらしい。
それでも、その男は『美咲の方が変な感覚の女だったのだろう』と思ったようで、
自分が間違っていたことにはまるで気付けなかったらしく、すぐに別の女性に同じ
ように声をかけていて、反省した様子も見られなかった。
しかも、そんな実体験のある美咲の見立てでは、問題の内田悠貴はその男よりも
更に頭が悪そうな印象だったのだから、救いようがない。
…あの社長といい、この内田悠貴といい、本当に佐藤運輸は碌な職場環境ではない
ようだった。
「…まぁ、実害が無いのなら美幸ちゃんがストレスを感じる分には良いのか。
度が過ぎないなら、今回の試験に関してはむしろプラスになるだろうね」
…美咲が辛辣なのはある意味通常運転なので、洋一はそこには触れなかった。
「…それで、そのストレスなんだがね。美幸ちゃんは何と言っているんだい?」
「はい、それはチーフの想定通りと言いますか…今のところは順調なようです。
美幸自身はそれほど悪い扱いを受けていないんですが、佐藤夫妻からの他の従業員
の扱われ方を目にして、ストレス…と言うか不満のようなものは頻繁に感じている
ようですね」
そう言って、隆幸は資料を基に具体例を2人に報告することにした。
具体例1:社員へのプライベートな用件の依頼について
その日の業務は忙し過ぎず、暇過ぎずの安定した進捗状況。
その状況を見た佐藤夫妻はそれぞれ次のような指示を出した。
『俺の借りてたレンタル品を店舗に返してきてくれ。
期限が今日までだから、今日中に忘れずに…な。
もし忘れて延滞になったら、金はお前の給料から引かせてもらうぞ』
『ちょうど私の友人の家に届け物があったんです。
その家の方角の担当者に、ついでに配達してもらうよう手配をお願いします。
あぁ…でも、その方はこれから1時間後に外出されるらしいので、
それまでには配達をお願いしますね?』
この指示の影響で配送のペースが乱れた結果、業務全体に遅延が発生した。
しかし、それに対しての佐藤夫妻からの回答は次のようなものだった。
『余裕があったから頼んだのだからこちらの責任ではない』
『これによって発生した残業分の時給は各々の自己責任とし、支払わない』
『今案件は儲けの出る仕事ではないため、要した時間の報酬は発生しない』
担当した者は、用件を条件通りにこなしたにも関わらず、佐藤夫妻からは遅れに
対しての叱責を受け、同僚からは業務遅延を非難される最悪の結果となった。
従業員の私物化というべきものであり、業務と私用との分別がしっかりとされて
いないといったケース。
具体例2:社員毎に対しての扱いの違いについて
主に美幸の担当する東ルート配達員2名の扱いの違いについて。
内田悠貴に関しては、荷物の扱いが荒く、業務態度も比較的悪いとされており、
客からのクレームも寄せられ、同僚がそのフォローにまわることも少なくない。
しかし、佐藤道彦に対しては従順であり、佐藤安恵とは時折その食事に付き合う
などの個人的な繋がりがあることから、社内で優遇されている。
対して、広瀬耕太は丁寧な仕事をし、客からの評価も上々。
更に、クレーム処理等の面倒事も自ら進んでこなし、同僚からの信頼も厚い。
しかし、必要ならば社長である佐藤道彦にも意見し、その容姿が優れないことで
佐藤安恵からも冷たい扱いを受けており、内田悠貴とは真逆に冷遇されている。
給料面でも差が出ており、残業を含めると内田悠貴より広瀬耕太の方が勤務時間
が多いにもかかわらず、内田悠貴は広瀬耕太の約50%増しの給金を得ている。
業務内容に対しての正当な評価が得られず、経営者の個人的な趣向で、報酬すら
理不尽に定められているというケース。
具体例3:人員不足の穴埋めを全て部下に負わせる環境について
基本的な人員の不足の影響下、土屋千尋が週6日で長時間労働を強いられている
状況であるにもかかわらず、佐藤夫妻はその環境を深刻なものと捉えていない。
しかし、いざ土屋千尋が休暇を申請しようものなら当人が体調不良を訴えている
ような状況でも勤務を強要し、どうしても難しい場合は小野渚に勤務時間の延長を
要求してくる。
そのような状況の場合でも、自らの取るに足らない私用を優先している模様で、
人員が致命的に足りない日の業務時間中に電話番もせずに、行きつけの店舗で寛い
でいる佐藤安恵の姿が配達員によって、目撃されている。
にもかかわらず、仕事が遅れ気味になると、給料から天引きする形で罰金を科す
場合もあるようだ。
環境や外的要因による事情によって起こったあらゆる損害を、全て従業員に負担
させているケース。
「…主な具体例としては以上です。
他にも色々と細かなことでストレスを感じているようですが…。
ここに挙げた3点には、特に強いストレスを感じたようですね」
「ふむ…なるほどね。
まぁでも、大体は小規模なブラック企業にはありがちなものばかりか」
隆幸の報告を受けた洋一が頷きながら答える。
悪い環境ではあるが、その内容は概ね予想していた範疇だった。
「それで、隆幸君。美幸ちゃんのメンタルはどうだい?
危険な思考になったりは……まぁ、流石にしていないのだろうけれど…。
試験期間が終わるまでの間、その勤務環境には耐えられそうなのかい?」
「はい、そちらは問題なく。
確かに多少は参っている部分はあるようですが、労働が難しくなるほどの精神的な
ダメージは今のところは無いようです。
恐らく、友人である富吉遥との交流によってある程度のストレスを解消出来ている
ことも大きいのでしょう」
美幸本人に聞き取り調査をしたところ、遥に電話で相談すると気が楽になって、
労働意欲が回復してくるという話だった。
遥との友情は美幸にとって今回の試験継続には無くてはならないもののようだ。
遥にのみ事前に可能な限りの情報を開示しておいたのは正しい判断だったらしい。
「当初の予想通りではあるが、美幸ちゃんの精神は平和そのものだからねぇ。
まぁ、この程度の環境に置かれたくらいでは、怒りもしないのだろう」
「所長…それが、そうでもないようですよ?」
隆幸のその発言に、洋一は『ほぅ…』と興味を示して先を促した。
「先日、この研究所を訪れた際に、その相談相手の富吉遥さんにも聞き取り調査に
協力してもらったのですが…
その電話口では、ある程度ですが愚痴のようなものも言っていたらしいんです。
とはいえ、流石に凶悪と判断できるレベルの内容ではないようですが…」
やはり、美咲の睨んだ通り、家族以外に相談相手を作っておいて正解だった。
隆幸が美幸に聞き取り調査をした際は、遠慮もあるのか…感情がそこまで乱れる
ような素振りは見せなかったが…。
やはり、そこには家族と友人という精神的な距離の違いもあったのだろう。
もし、遥に相談することが出来ない環境だったなら、美幸が内心で怒っていても
心配させまいとその感情を隠してしまい、家族として接している美咲達には気付け
なかったかも知れない。
最悪、美咲には美幸のメンタルデータの履歴を閲覧する権限があるにはあるが…
それは美幸の頭の中を覗き見ることに他ならない。
美咲達は、美幸とは出来うる限り家族として接していきたいと考えている。
だから、出来ればそういった強引な方法での確認は避けたかったこともあって、
遥への聞き取りで怒りの感情が確認出来たのは、正直ありがたい話だった。
「肝心の愚痴の内容についてですが…。
主に劣悪な環境を改善出来ない世間への不満がほとんどのようですね。
そこに佐藤夫妻の従業員への発言・行動への疑問が少しある程度です」
「…不満に対しての対策には、どんな思考が働いているのかね?」
「それに関しては先ほど所長がおっしゃっていた通り、至極平和な思考です。
環境の改善には法の整備で何とか出来ないか…といった考え方でしたし、佐藤夫妻
には従業員の皆で話し合えば、双方にとって良い妥協案が見つかるのではないか…
といった、いわゆる危険とはかけ離れた発想です。
今現在の調査結果を鑑みるに、美幸に限って言えば、間違ってもストライキなどの
強攻策を提案したりは、今後もしないでしょう」
そこまでの報告を聞いて、とりあえず洋一は『ふぅ…』と一息ついた。
「とりあえず、今のところはなんとか上手くいきそうで良かったよ。
調査に関しても、このままいけば上に報告できるレベルにはなりそうだし…。
美幸ちゃんの反応も、実用化に向けての許容範囲内のものみたいだしね。
仮に危険な思考に走るような傾向が少しでも見られたら、すぐに機能の強制停止も
視野に入れなければいけない、デリケートな案件だからね…。
美幸ちゃんを止めずに済みそうで…本当に安心したよ」
言葉通りに安心した様子のその洋一の言葉をきっかけに、室内の緊張感が解けて
いく。
何だかんだ言っても、この研究所の開発者一同、親バカ揃いなのだ。
この試験の終了後も問題なく美幸を引き続き運用していられそうな今回の報告は、
十分に吉報と言って差し支えなかった。
「まぁ、仮に多少過激な思考が観測されても、所長サマに何とかしてもらうつもり
でしたけどね~、私は」
…と、悪巧みをする時のニヤニヤ顔で美咲が洋一の安堵した顔を見ながら言った。
「おいおい、流石に私でもそういった虚偽の報告までは出来ないよ?」
少し焦り気味にそう返す洋一に、更に美咲の追い討ちが入る。
「いや、その時は“誤魔化す”んじゃなくて、“押し通して”もらうんですよ。
ちょっとぐらい過激な思考でも、実行しなけりゃ実質は無害なんですから。
それに、そのくらいで機能停止になるなら、私なんてとっくに危険人物ですよ?」
「なるほど…。
流石にチーフが言うと、もの凄い説得力ですね」
「自分で言っといて何だけど…高槻君、ぶん殴るよ?」
目の前でいつものように漫才を始める原田AI研究分室の2人を見つめながら、
本当にこの研究チームの面々は仲が良いな、と思いつつ…。
ところで、“誤魔化すにしろ、押し通すにしろ、その際に実際に上を強引に納得
させることになる自分の心配は誰もしてはくれないのだろうか?”と、僅かばかり
の寂しさを密かに一人噛み締める研究所所長、洋一だった…。




