第27話 ブラック企業の現実
裏口から入ってすぐのところに佐藤夫妻の仕事部屋である、いわゆる『社長室』
があり、そこで美幸は安恵に仕事の詳しい説明を受ける事になった。
…しかし、その内容は事前に聞かされていたものとは微妙に違ったものだった。
まず、そもそも事務員の人数が違う。
美幸が隆幸から聞いた話では、朝7時から16時までの勤務と、12時から21時
の交代制で、それぞれ2人ずつ居るという話だった。
12時から16時の4時間は、電話本数や回収希望の荷物が多くなる傾向にある
ため、対応できるように一時的に4人になる。
そういった計算でシフトが組まれているはずだったのだが……安恵の話によると
実際は事務員は美幸を含めても全体で3人しかおらず、土屋千尋というキャリアの
最もある事務員が朝から閉店までずっと詰めて、不足を補ってしているらしい。
そして、配達員の方の人数も余裕があるという話だったのだが、実際はギリギリ
足りているという状態で、誰かが休んだ場合はその影響が現場だけでなく、事務側
にまで及ぶ可能性すらある……という話だった。
「…ごめんなさいね、東条さん。
今回、こちらから実施を早めてもらえるようにお願いしたのは、本当に人員不足を
補う臨時の人員が欲しかったっていう意味合いが強かったのよ。
あなた方の負担にならないように、こちらもなるべく早く正式な社員を確保できる
ように努力するわ。
あと、あなたにはあまり大変な仕事は振らないように他の者に言っておくから……
どうか、許してちょうだいね?」
「あ……いえ、私なら大丈夫です。
社会勉強の一環でもありますから、その辺りはあまりお気になさらないで下さい」
「ありがとう。
それから、私もなるべくは気を付けるけど、何か不満がある時は先ず私に言って?
そうしたら、出来る限り解決するようにするから。
だから……相談無しにご両親へ言うのだけは、やめてちょうだい」
「…わかりました。お気遣いありがとうございます」
安恵は説明の間中、ずっと怯えた目をして、おっかなびっくり話していた。
…余程こちらを警戒しているらしい。
美幸はその様子を見て少し申し訳ない気持ちになったが、理由はどうあれ安恵が
味方になってくれているのであればありがたい話だ、と考える事にした。
…覚悟はしてきたものの、やはり不安が全く無いわけではなかったからだ。
一通りの説明が終わった後、再び安恵に連れられて、いよいよ勤務場所である
事務所に案内してもらう事になった。
応接室を抜けて到着した事務所は、畳で言えば24畳程度の広さで、部屋の中心
に、事務机が4つ置かれており、その机の向こう側の正面入口の前にはカウンター
がある……といった造りになっていた。
話にあった朝からの勤務のスタッフだろうか……2つの席が既に埋まっていた。
一人はブラウンに染めたロングヘアーが目を引く派手めの女性で、年齢は美咲
より少し上といったところだろうか?
電話を受けながらも、同時に器用にパソコンを操作している。
そしてもう一人は、眼鏡に両サイドのお下げがいかにも大人しそうな印象を
受ける、少し若い女性だ。こちらは二十代前半といったところか。
既に打ち出し終えている配達票を、各ルート別に分けている真っ最中だった。
「…2人とも、ちょっといいかしら?」
安恵の言葉に事務員の2人がほぼ同時に反応を示した。
…だが、眼鏡の女性は作業を中断してこちらに向き直って『はい、大丈夫です』と
言ってきたのに対し、ロングヘアーの女性の方は、まさか客からの電話を切るわけ
にもいかず、視線のみをチラリと向けてくる程度に留まっていた。
「この子は、東条実由さん。
次の人が入るまで、今日から臨時で働いてもらう事になったの。
でも、彼女はあくまでも一時的な雇用になるから、なるべく重要度の高い案件や
多くの職務を与えないで下さいね?
折角、覚えてもらっても、一定期間での退職が決まっていますし、期限が来れば
結局は意味が無くなってしまいますから。
あと、残業も絶対に駄目です。時間が来たら家族の方が迎えが来るらしいので」
「あの……副社長、それでは彼女にはどういった仕事をお願いしましょうか?
電話番と簡単な伝票発行をお願いする程度……でしょうか?」
一旦、説明を終えた安恵に、眼鏡の女性が質問をしてくる。
おっかなびっくり質問するその様子から見て、見た目通り大人しい性格のようだ。
「ええ、そうね。
元々そういう予定だったし、それで構わないわ。
丁度良いわ、小野さん。
あなたがこの子に仕事を教えてあげてくれる?」
と、そこまで安恵が言ったところで、ちょうど電話を終えたロングヘアーの女性が
『すいません』と、割って入るように手を挙げて会話に入ってきた。
「副社長、その子の教育係は私に担当させてください。
小野は、まだ入社して3ヶ月です。
確かに電話番や伝票発行なら教えられるかも知れませんが、新人が新入社員に教え
ながらですと、やはり本人の効率が落ちます。
これ以上、仕事全体の効率が落ちると、正直言って厳しいので……。
宜しくお願いします」
「…わかったわ。
それじゃ、宜しくお願いするわね? 土屋さん?」
途中で話に割って入られたから、だろうか?
安恵は多少気分を害したような雰囲気を纏いながら、土屋にそう返した。
「それじゃ、私は社長室に戻っておくから……。
2人とも、くれぐれも東条さんをよろしくね?」
『はい、承りました』
最低限の紹介を済ませると、安恵はさっさと社長室へと引っ込んでいった。
安恵からすれば、美幸の存在は何時、どんな理由で爆発するか判らない爆弾の
ようなものだ。
…本音を言えば、出来る限りかかわりたくはないのだろう。
そんな安恵に『ご紹介して頂いて、ありがとうございました』と頭を下げた美幸
は、引き続いて先輩となる事務員2人にも挨拶をする事にした。
「はじめまして、東条実由と申します。どうぞ宜しくお願い致します」
「はい、こちらこそ宜しくお願いします。私は小野渚と言います」
「…あたしは土屋千尋。ヨロシク。
まぁ、一応そこそこ長いから、何かあったら質問とかはあたしにね?」
…と、そこまで言った所で――千尋は美幸の顔をまじまじと覗き込んでくる。
「…綺麗な顔ねぇ。うん、やっぱおかしいわこれ。
東条さんだっけ? あんた……いったい、何者?」
「…えっ!?」
千尋からの突然の質問に、美幸はうろたえた。
『まさかアンドロイドだと見抜かれた!? 一目で!?』
…と、そう思った美幸は、途端に焦ってしまう。
たしか、今回は正体がバレた地点で試用試験は終了の予定だったはず。
…初日数分で終了したのでは試験も何も無いし、美咲達にも申し訳なさ過ぎる。
そんな考えを巡らせながら、一人で焦る……美幸だったが、次に続いた千尋の
発言は、そんな美幸の予想とは全く違ったものだった。
「あぁ、そっか……ゴメンね。ちょっと言い方が失礼だった。
あのさ……ここだけの話だけどね?
あの人、自分より若かったり美人だったりすると、あからさまに態度に出んの。
それが『重要度の高い案件や多くの職務を与えないで下さい』よ?
あなたみたいな見た目の子が相手なら、普段は『臨時要員とはいえ職員なのだから
選り好みせずに仕事を振って下さい。勿論、問題があれば自己責任で』とか、平気
で言うから……何かおかしいって思ったのよ」
そう言う千尋は、どちらかと言えば地味で目立たない渚とは真逆の雰囲気の女性
で、いわゆる『派手めの美人』と評されるような人目を惹く容姿をしている。
…そういえば、先程の安恵は、千尋が自分の意見に異議を唱えただけでイラついて
いたようにも見えた。
…千尋の言葉が真実なら、話に割って入ったから不愉快そうな反応を返したのでは
なく、ただその容姿に嫉妬していただけ……という事なのだろう。
「ああ……そういう事でしたか。
突然、『何者?』と聞かれたので、少し驚いてしまいました」
「あはは……ゴメンね?
あまりにも違和感があって気になったから、焦っちゃったわ」
とりあえず、自分の正体はバレていなかったようでホッとした美幸……。
そして、千尋の反応を確認し、彼女が“こちらが人間かどうか”を疑ってはいない
可能性が高い事を改めて確認した後、その質問に対して答え返した。
「それは……実は、私の家族がこちらの社長さん達とお知り合いでして……。
私が社会勉強も兼ねてアルバイトを探していた所にお声を掛けて頂いたんです。
…ですので、私の扱いが違ったのは、その辺りの影響ではないでしょうか?」
これは事前に美咲達と相談して、既に決めていた回答だった。
これならば、深刻な人材不足のタイミングにもかかわらず、どう見ても若過ぎる
美幸が、短い期間だとわかっていながら採用されたことへの説得力もある。
「へぇ……なるほど?
…ちなみに、だけど……その家族って男だったりしない?」
「え? あ、はい。そうですけれど……」
「間柄は? 歳は? それと……顔はイケメン?」
どことなく怪しんでいるような視線で美幸を見つめながら、千尋がそう矢継ぎ早
に聞いてくる。
「え、ええっ! あ、あの……間柄は、私の兄さんです。
それから、歳は27才で、容姿の方は……個人的な感想ですが、とても格好良いと
思いますよ?」
そんな千尋の勢いに気圧されて若干驚きつつも、聞かれた質問には律儀に答えて
いく、美幸……。
…そして、質問をした千尋はその答えを一通り聞くと、顔がやっと“納得いった”と
いった表情に変わる。
「やっぱりね……うん、理由はきっとそれだわ。
あの人、イケメンには弱いからなぁ……んじゃ、今回はそのお兄さん狙いか。
あなたのお兄さんだってんなら、そりゃイイ男だろうし」
「あ、でも私の兄さんは、もう結婚していますよ?」
「あ~……いやいや、それは特に関係ないのよ。
あの人的には、自分が暇な時に一緒に食事しながら話相手になってくれるだけでも
良いみたいだし。
まぁ……親密になれるに越したことは無いんでしょうけどさ。
何て言うか、自分専用のホストみたいな感覚なんでしょ? 多分だけど……」
なるほど……と、今度は美幸が納得する。
浮気の相手を求めているという事ではなく、あくまでも暇潰しの相手としての話
だったらしい。
「ふん、まったく……お気楽な話よね。
自分は私達の給料で遊び回ってる癖に、こっちの見た目や歳に嫉妬されてたんじゃ
あたしらも堪ったもんじゃないわ……」
「………え? 土屋さん達の、お給料……ですか?」
千尋の発言に『あ、あの……土屋さん、それは……!』と渚が止めようとするが
『…いいわよ、別に。本当の事だし』と言って、キョトンとしている美幸に、千尋
は詳しく説明してくる。
「お給料をね、勝手に改竄されてるのよ。
…ほら、ここって正社員でも月給制じゃなくて、全員が時給制でしょ?
それで、毎月、実際に働いた時間分よりも給料をかなり少なく計上されてるの。
こっちが気付いてないとでも思ってるのか知らないけどさ……。
まったく……一体、何のためのタイムカードなのか、ワケわかんないわよ……」
「…残業、多いんですか?」
美幸が遠慮がちにそう尋ねると、ため息混じりに千尋は続ける。
「はぁ……多いなんてもんじゃないわ。
私なんて、ここ最近は朝から晩までずっと働いてるのよ?
週休1日で朝7時から夜21時が普通って……計算上は1日に14時間よ?
しかも、その中で休憩が1時間あるなんて、嘘八百だしさ。
普通のオフィスと違って、休憩中に代わりになる人員なんて居ないし、電話受付
を切ってる時間帯なんて無いのよ? この環境でどう休むって言うのよ……。
今はたまたま電話が落ち着いてるからこうして話も出来てるけどさ。
普段は電話受けと伝票発行だけで空き時間なんてほとんど無いから、他の仕事は
電話受付を終えた20時から始めるわけで……。
大体は21時どころか日が変わる頃までずっと仕事……ってパターンよ?」
それを聞いて、美幸は絶句する。
確かに、千尋が朝から晩まで勤務しているという話は安恵から聞いていたが……
まさか休憩も無しの状態で、しかも残業もあるとは思わなかった。
勤務前に美咲からブラック企業について簡単な説明は受けていたものの……流石
にこれは行き過ぎている。
「そこまで頑張ってても、待遇なんていつまで経っても変わらないのよ?
皆勤手当も、定期昇給も、賞与も、退職金も、夜間手当も……な~んにも無し。
本当に時給分だけしか払われないの。
しかも、その時給の額もそこらのコンビニ勤務より安いし……。
なのに、その少ない時給すら裏で弄っといて、自分はブランドに身を包んで徒歩で
5分程度の場所に行くのに家一軒が買えるような高級外車を乗り回してるのよ?
…そりゃあ、流石にこっちも愚痴ぐらいこぼすっての」
そう言って半ば呆れたような顔で再び深いため息を漏らす、千尋。
…そんな千尋に、美幸は自然と浮かんだ疑問をぶつける。
「あ、あの……失礼を承知で伺いたいんですが……。
それならどうして、土屋さんはこちらで働いていらっしゃるんですか?」
美幸にはそんな待遇で働き続ける、その理由が分からなかった。
確かに生きるために働く事は重要だが……そこまでの処遇を受けてまでこの会社
にこだわる理由を知りたいと思ったのだ。
「ああ……そんなの、簡単よ。
ここを辞めたら、あたしなんかが次に行く所なんて……無いもの。
『選り好みしなければ求人はある』なんて、現実を何も知らない連中は言うけど、
実際は三十半ばの人間のまともな採用なんて、ほとんど無いに等しいのよ。
たとえ年齢制限内の求人に応募したって、結局は大した学歴が無けりゃ、ほとんど
若い応募者の方が選ばれるわ。
だから採用されるのなんて、精々が此処と変わんないような悪い条件の企業くらい
だから……それじゃ、職場が変わったって大して意味は無いでしょ?
むしろ仕事を一から覚えなきゃならない分、むしろマイナスよ。
…まぁ、あの人達はそんなあたしの状況を理解してるからこそ、安心してこっちの
給料削れるってもんなんでしょうけど……ね」
酷い話だった。
人の弱みに付け込むとは、まさにこういう事なのだろう。
…先ほど自己紹介されたばかりだが、美幸は千尋の事を不憫に思ってしまった。
「…まぁ、あなたくらい綺麗な子なら、就職もどうとでもなるだろうし、こういう
所は避けたほうが良いわよ? って、『はい、もしもし……』」
そこまで聞いたところで再び電話が鳴り始め、雑談はここで打ち切りとなった。
…この後、美幸は千尋から電話の受け答えや伝票の発行方法等を重点的に教わり、
アンドロイドである事もあって勤務時間が終わる頃には、問題なく業務をこなせる
ようになっていた。
即戦力になると判った千尋には『覚えが早くて助かる』と礼を言われたが……。
美幸は、そんな千尋の顔を見る度に昼間の愚痴を思い出してしまい、何とも言え
ない複雑な感情が自分の中に渦巻いているのを、確かに感じるのだった。




