第26話 愚かなる者
「それでは、本日から実由の事を宜しくお願い致します」
「ええ、ええ! 任せておいて下さい! 実由さんにとって良い経験になるよう、
こちらも精一杯協力させて頂きますとも!」
必要以上に威勢の良い返答を返してきたのは、今日が初対面になる社長の道彦
だった。
今日は美幸の佐藤運輸への初出勤の日。
今は顔見せも兼ねて、先日、安恵と初めて顔を合わせた店舗の裏口で、隆幸も付き
添う形で挨拶を交わしている最中だ。
「あの、本日からお世話になります。
東条実由と申します。どうぞ、宜しくお願い致します」
佐藤夫妻と初めて顔を合わせる美幸は、緊張を少し滲ませながらもペコリと頭を
下げて、そう自己紹介をする。
「いやいや、こちらこそヨロシクねぇ……実由ちゃん」
そんな美幸に対して、初対面から『東条さん』ではなく『実由ちゃん』と呼んで
ニヤニヤしている道彦のいやらしい目付きを見て、隆幸は早くも道彦に事前に警告
出来なかった事を、改めて後悔し始めていた。
まるでキャバクラの店員とでも話しているかのようなその態度に、隆幸は内心で
深く溜め息を吐いてしまう……。
道彦には今日までに何度もアポイントメントを取り付けようとしていたのだが、
あれこれと理由をつけて躱され続けてしまい、結局、当日になってしまった。
…やはり、こちらを“面倒なだけの取るに足らない相手”程度にしか考えていない
ようだ。
しかし、これも『似た者夫婦』と言うべきなのか……。
美幸の容姿を見た瞬間から、道彦は目に見えて機嫌が良くなった。
…いや、それを言えば、まだ妻の安恵の方が幾分かはマシだっただろうか。
先日の安恵は喫茶店に入るまでは、まだ機嫌が良いという程度だったが……。
目の前の男は、その好色そうな表情を取り繕うことすらせず、今も美幸の全身を
舐めるように眺め続けている。
「…先にお伝えしておきますが、実由の身に何か危害が及んだ場合は、どういった
事態になっても、我々は保障致しかねます。
こちらからお願いした件とはいえ、その点だけはくれぐれもご留意のほど、どうぞ
宜しくお願い致しますね?」
隆幸は『くれぐれも』を強調した言い方で話し、多少のプレッシャーを与える
つもりで、道彦を睨みつけるようにしながら最後の念押しする。
すると、道彦ではなく、安恵の方が『ひいっ……』という悲鳴と共に反応した。
「ちょ……ちょっと! ホントに丁重に扱ってよ!?
あんたがこの子に何かして巻き添えを喰うなんて、私はゴメンなんだからね!」
安恵が道彦の腕を掴んで、そうヒステリックに訴えかける。
この口ぶりだと、先日の件は安恵の口から道彦の耳にも入っているようだ。
「チッ! うるさいぞ! おまえはいつも通り、部屋で金の勘定でもしてろ!」
そう言って、道彦は乱暴にその安恵の両手を腕から振り払った。
…どうやら、事前情報の通り、仮面夫婦だというのは本当らしい。
しかも、実際には相当に仲も悪いようだ。
…この様子では、道彦は妻の話をまともに聞いていなかった可能性が高い。
軽く挨拶を済ませて引き揚げようと考えていた隆幸だったが、もう一度だけ道彦
に言っておくことにする。
「佐藤社長、本当にお願い致しますね?
私達も今回の件はなるべく穏便に……何事も無く済ませたいんです。
実施の期日もそちらの希望に合わせて、調整させて頂きましたし……。
これ以上の厄介事で、余計な手間をかけるわけにもいきませんので」
いつも通りの笑顔を貼り付けたまま、隆幸が更に念を押す。
その笑顔にトラウマでも出来たのか、安恵はまた短く悲鳴をあげて怯えていた。
「…はぁ。まぁ、一応……私は気を付けますよ?
ですけど、仮に目の届かない所で何かあったとしても、私は知りませんからねぇ」
そう言って……道彦は隆幸の顔を、至近距離で覗きこむようにしてくる。
…いわゆる“ガンを飛ばす”というものだ。
先程までの愛想笑いは“表向きの社長の顔”といったところなのだろう。
隆幸の警告するような物言いがカンに触ったのか……道彦の態度が急変した。
「それにねぇ……国家公務員さん。
いいや、お兄さんっていう“設定”でしたっけ?
あんた、これからは目上の者への口の利き方には気をつけた方が良いよ?
まだ若いみたいだから、世間ってものを知らないんだろうけどさぁ……。
こっちはアンタ個人を名誉毀損で訴えるって対応だって出来るんだよ?
もしそうなったら、こっちは金で良い弁護士つけられるからなぁ……。
そしたらアンタ、裁判ではもう勝ち目なんて無くなるぞ?
面倒事になっても、アンタみたいな末端を国が助けると思えんしな。
…もしそうなったら、アンタの人生……そこで終わりなんだよなぁ~」
その後には、『ま、アンタが俺よりも金持ちなら少しは面白くなるかもな?』と
小馬鹿にした言い方が続き、嫌味な顔で笑い声をあげる、道彦。
…そんな道彦を前に、隆幸はもう呆れを通り越して、既に諦めの心境だった。
(ああ……これは駄目だ……。いくら何でもこれは……馬鹿過ぎる)
先日の安恵の件を聞いた上でこう言ってくるという事は、この道彦という人物は
ただ単に頭が悪いというだけではなく、あらゆる物事を自分に都合の良い方向へと
解釈する人物らしい。
隆幸のことは……『現場に直接足を運んでいるならどうせ下っ端だ』
問題があっても……『こちらから訴えてやれば公務員なんてイチコロだ』
見張っているとは言うが……『バレなければどうとでもなる』
悪さをしてバレたとしても……『前みたいに口外すると脅せば問題ない』
…と、でも思っているだろう事は、容易に想像出来る。
実際、この件においては現場の決定権の全ては隆幸にあるので、下っ端どころか
権限は最も強いと言っていいし、訴えを起こそうとするなら弁護士がどうだという
以前に、即刻、道彦は国家機密漏洩の疑いで拘束される手筈になっている。
それに、美幸はアンドロイドなので、監視には美幸自身の視覚・聴覚情報を取得
して、それを付近でモニタリングする予定になっている。
そのため、隆幸達の側からすれば、“目が届かない”だとか“バレない”といった
状況自体がそもそもありえないし、証拠も美幸の記憶メモリー内に確実に残る。
もし仮に、何かしらを道彦が仕出かして、美幸に致命的な損害をもたらしたなら
その命の保障すらされない可能性もある。
道彦は経営者としては2代目という話だったが……親の背中を見て利口に育った
のではなく、ただ単に権力と財力の使い方だけを覚えてしまったタイプらしい。
こういうタイプの人間は、苦労なく高い地位を得てしまったために、全ての物事
が都合良く思い通りに進むものと心の底から信じている。
外野が何を言っても自分の考え以外は絶対に信じないし、聞く耳も持たない。
隆幸は“後手に回ってしまうが、何か起こってから対処するしかないか”と、道彦
への警告を早々に諦める事にした。
…今ここで、道彦に『世間知らずの愚か者はお前だ』と言ったところで、あちらが
腹を立てるだけで効果など欠片もないだろうことはわかりきっている。
それに、損傷や略取といった致命的な事態さえ防ぐ事が出来れば、逆にこの性格
は美幸にとって、いずれ大きなストレスをもたらす可能性もある。
…少々可哀想な気もするが、試験として考えればこちらに利点もある以上、ここは
大人しく引き下がるのが懸命だと判断することにしたのだった。
「…わかりました。ですが、確かにお伝えはしましたからね?」
無駄とは解っていたが一応は警告した事実を確認して、大人しく引き下がる。
…だが、そんな隆幸を見た道彦は、“自分の脅しが効いた”と勘違いしたらしい。
横柄な態度はそのままに、目に見えて機嫌が良くなった。
「おぅ、なかなか物分りが良いじゃないか。
まぁ、仕方ねぇから、さっきの無礼な態度は特別に勘弁しといてやるよ。
んじゃ、俺はこれから実由ちゃんに職場を案内しなきゃならんからな。
用の無いニーチャンは、さっさとお家に帰りな?」
道彦はニヤニヤして、おもむろに美幸の腰に手を回そうと手を伸ばす、が――
“バシンッ”
次の瞬間、隣の安恵が道彦のその手の動きを察知して、勢いよく弾き飛ばした。
「…っ……痛ぇな! 何してくれる!」
「うるっさい! この子の案内なら私がするわ!!
あんたこそ、黙って得意先への挨拶回りにでも行ってなさいな!!
文句があるなら、世間にあんたの浮気やら何やら知ってること全部バラして、
ありとあらゆる信用を一瞬で失くさせてやるからね!!」
夫の考えなしの発言、態度にハラハラし過ぎて限界が来てしまったらしい。
その時の安恵は、完全に冷静さを欠いて、半狂乱になってしまっていた。
しかし、隆幸はその安恵の行動に少しばかり感心していた。
…どうやら、この安恵の方がまだ頭が回るらしい。
こちらの影響力というものがどの程度まで及ぶのかが、全く予想出来ない事に
今更になって怯えているのだろう。
『よく分かっていない相手だからこそ、本当に恐ろしい』
そうきちんと思えているのならば、まだこの夫よりは利口な証拠だった。
ただ、激しい口論が始まるかと隆幸は思ったのだが……そうはならなかった。
一応、表面上では近隣住民相手にも“仲の良い夫婦”という体で暮らしているから
なのか……それとも、それ以外の『何やら』が余程危険なネタなのか。
道彦は、安恵のその大きな声に周囲を見回して、誰にも聞かれていない事を確認
した後、『チイッ!』と大きく舌打ちしただけで、その場から去っていった。
「あ、あの……私が社内に居る間は、ちゃんと見張っていますので……。
どうか、今回は勘弁してやって下さい……」
安恵は、そう言って隆幸に過剰なほど頭をペコペコ下げてきた。
…どうやら、前回の『長生きするのは……お好きですか?』が相当堪えたらしい。
そんな安恵に『いえ、構いませんよ』と簡単に答えた隆幸は、先ほどから黙って
いる美幸に、改めて正面から向き直った。
「じゃあ実由、初めての職場で大変なことも沢山あるだろうけれど……とりあえず
頑張ってきなさい」
「…はい。わかりました」
普段よりも真剣で強い意志のこもった目で隆幸を見返してきた、美幸。
先ほどの道彦とのやり取りでも、美幸は一切介入して来ず、状況を見極めている
様子だった。
…以前までの美幸なら『喧嘩しないでください』と言って来そうなものなのにだ。
そういえば、原田姉妹から色々と心構えを教わったらしい事も言っていた。
恐らくは、今の美幸はそれをしっかりと守っているのだろう。
安恵に連れられて社内に去っていく美幸を見届けて、すぐに現地スタッフと合流
する為に、前線基地である近所の一軒家へと向かう、隆幸。
対面して改めて思い知った相手の低レベルさに、頭が痛くなる思いだったが……
『だからこそ、自分が守らなければ』と、自らに喝を入れる隆幸だった。




