第25話 隆幸先生のやさしい就職説明会
「それじゃあ、美幸。
今から僕が、明日から始まる試用試験の詳しい説明をしていくけど……。
話を聞く心の準備は良いかい?」
「あ……はい、宜しくお願いしま……す? あ……え? 良いんですか?」
“♪♪~♪♪♪~♪~”
室内にはピアノの生演奏が響き渡っていた。
今日は夏休みの最終日ということで、遥が研究室に遊びに来ているのだ。
『原田AI研究分室』は、その人数に対して随分とスペースに余裕があった。
そこで、美咲が『グランドピアノがあれば、休みに遥ちゃんが朝から来られる
ようになるんじゃない?』と提案した事から、ここには今、使われていなかった
デスクを撤去して出来た空間に真新しいピアノが設置されていた。
「あ~……良いの良いの。
今回は、ただでさえめんどくさい就業場所への赴任になるんだ。
美幸にとって辛いと感じる事がある程度は起こると思うからね……。
友達に色々と愚痴りたかったり、相談したかったりする時に事情を隠したままだと
難しいし、大変だろう?
まぁ、遥ちゃんなら他言はしないだろうし、構わないさ。
それに、今回に限っては、もしも何か問題が起こったら、こちらの所長サマが全部
何とかしてくれるって言ってるからね」
「…いや、美咲ちゃん。
確かに、全力のフォローは約束したがね……。
いくら何でも、それは丸投げし過ぎなんじゃないかい?」
美幸への詳細説明をすると聞いて、それに同席するために美咲の研究室まで足を
運んでいた洋一は、そのあまりにもあんまりな発言に思わず口を挟んだ。
「別に良いじゃないですか、それくらい。
…ということで、美幸? 遥ちゃん以外には、言っちゃ駄目だからねー?」
いつも通り甘い紅茶を飲みながら、ピアノの旋律に耳を傾けてゆったりしていた
美咲は、だらけた態度でそう美幸に呼びかけた。
その言葉に美幸は『は、はぁ……わかりました』と口では答えながらも、『本当
に良いのでしょうか?』といった表情で、曖昧に頷く。
「ええ。友達同士の方が話し易い事もあるでしょうし、いい提案かと思います。
…構いませんよね? 洋一おじさん?」
美月がにこやかな表情で確認すると、『は、はい!』と、洋一は一瞬で大人しく
なり、縮こまってしまった。
…ついでに、何故か少し離れた場所で、美咲も同時に動きを止めていた。
「……………」
先日の話し合いの後、美幸と楽しく話をしていた洋一は美咲と共に美月に所長室
へと連行されていった。
その間中、洋一に代わって美幸と話をしていた隆幸は、あの日3人で交わされた
会話の詳細は、一切知らされていない。
まぁ、洋一が無傷で帰って来たことを考えれば、あの日、最も危惧されていた
パイプ椅子による攻撃は無かったのだろうが……。
…ただ、ついさっき『美咲ちゃんの方が怖いなんて、やっぱり勘違いだった』と
いう洋一の呟きが聞こえてきたのは……きっと、気のせいなのだろう。
…隆幸はそれを聞かなかったことにして、一瞬で『うん、忘れよう』と思った。
「えーっと……じゃ、じゃあ許可も下りたことだし、説明を始めるよ?」
「あ、はい。お願いします」
若干ドモリながらも軌道修正した隆幸に頷いた美幸は、真剣な面持ちになった。
美幸にしてみれば、初めて本格的に誰かの下で働くことになる、今回の試験。
真剣に隆幸を見つめ返すその瞳の奥には、僅かに緊張が見て取れた。
「まず、勤務時間は12時から21時の9時間。そのうち休憩は1時間。
休みは週休1日制……これは日曜日だね。
業務は主に電話対応で、稀に来る個人客への応対。後は、配達荷物の回収手配」
「回収手配? 配送の手配ではなく……ですか?」
「うん。この運送業者は大手の運送業者からの荷物の代送も請け負っていてね。
…というか、配達のほとんどがそこから来た荷物なんだよ。
朝昼夕の一日3回、大きなトラックで届く大手業者の荷物に、自社で請け負った
荷物を一緒にして方角別に分けて、配達員が手分けして配送しているんだ。
それで、その時に『荷物を送りたいけれど、わざわざ店舗までは運べない』って
いう顧客の自宅まで、ついでにその荷物を受け取りにも行くらしい」
「なるほど……だから“回収”なんですね」
「うん、そういうこと。
だから、美幸は事務として個人客から電話依頼された荷物の配達伝票を発行して、
それを現場の人間に渡せば良いだけらしい。
後は、現場の責任者がそれぞれの方角の担当者に、配達の合間に伝票の依頼人の
住所を頼りにその自宅に寄って、配達する荷物を回収するように手配するらしい
から、美幸自身はその采配まではしなくても良いらしい」
隆幸はそこまで説明した後『ここまでで、何か質問ある?』と美幸に尋ねた。
「はい。配達伝票の依頼人の住所を頼りに荷物を取りに行った配達員の方達は、
その荷物をどうなさるんですか? そのままそれも配達されるんですか?」
「いいや、依頼者から荷物を受け取ったら、その荷物に発行された配達伝票を貼り
付けて、次に荷物を運んできた大手業者のトラックに回収してもらうんだ。
朝に回収した荷物は昼に来るトラックに……といった具合にね。
この会社は、その訪問回収サービスの手数料を依頼主から、そして大手からは配達
の依頼を受けた件数分の割当も、それぞれ受け取って収入にしているらしい」
隆幸の回答に『なるほど』と答える美幸だったが、ふと思ったことがあった。
「あの…隆幸さん。
今、聞いたどの部分が、美咲さんの言う『めんどくさい』になるのでしょう?」
美幸には今さっき聞いた説明に、特別おかしな所は無いように思えた。
美幸としては電話対応と簡単な事務作業をすれば良いだけだったからだ。
だが、隆幸に向けられたその質問に答えたのは、少し離れた所でくつろいでいた
『めんどくさい』と言った当の本人だった。
「あー…美幸。
それは要するにね? 今、聞いたのはあくまでの基本的なルールであって、実際は
そのルールに沿わないような事態が頻繁にあるだろうって事さ」
「ルールに沿わない、ですか……?」
美咲の説明に“よく解らない”といった表情を浮かべる美幸。
解答の意味がいまいち掴めなかった美幸が、更に追加で質問をしようとすると――
「…まぁ、その辺りは説明されるより、実際に体験してみたら嫌でも解ってくると
思うよ。
そ・れ・よ・り・も……他にも言うべきことがあるよね? 高槻君♪」
…と、いう美咲の発言に話題が打ち切られてしまった。
そして、同時に美咲の顔がニヤニヤしたものに変わっていく。
あれは美咲が他人をからかって遊ぶ時の表情だ。
『こういう時の姉さんには気をつけてね?』と以前に美月から教わっていた。
「あ、ええ。まぁ…そうですが…。
何度も言いますが、これは僕の趣味じゃなく、本当に必要な対処なんですよ?」
隆幸はそう言って弁明してみたものの、美咲のその表情は変わらなかった。
『解ってるって!』と言っているが、ちっとも解ってはなさそうだ。
「はぁ……まぁ、良いか。
…美幸、これはとても重要なことなんだけどね?
佐藤運輸ではアンドロイドであることを隠して働いてもらう必要があるんだ。
そこで、経営者の佐藤夫妻に、美幸は“とある資産家の娘”で、僕は“その身辺警護”
だってことにしてある」
隆幸の『重要』という言葉を受けて、美幸が真剣な表情で頷く。
今回は正体を隠したまま働くという話は、事前に聞かされていた。
学園の時とは逆で、絶対に正体がバレないように細心の注意をしなくては。
「そこで、明日から美幸は『東条実由』という名前を名乗ってもらう。
間違えないように、今からそう登録しておいてくれるかい?」
美幸は『はい』と答えて、自らの名前の認識を条件付きで『実由』に変更する。
設定条件は“佐藤運輸の勤務、及び通勤時のみ”にすれば良いだろうと考えて、
そう設定することにした。
「次に、経営者以外の社員に対してなんだけど……。
こちらには、僕達の間柄は兄妹ということにしてあるんだ。
だから、僕の名前の認識も一時的に『東条康之』にしておいてくれるかな?」
美幸は先ほどと同じように、隆幸の名前を条件付きで『東条康之』と登録する。
…そこで、隆幸は依然としてニヤニヤ顔の美咲をチラリと盗み見て……続けた。
「それと、一応は兄弟って設定だからね……。
佐藤運輸の関係者が居る場では、僕のことは『兄さん』って呼んで欲しいんだ」
そう、隆幸が言った瞬間……美咲が『ブフッ…』っと噴き出して笑い始めた。
…美月は何故だか少し羨ましそうに美幸を見ていたし、洋一に至っては悔しそうに
している。
その周囲の空気の急激な変化に美幸は戸惑った。
兄妹という設定なら『兄さん』の呼称は特におかしくはない、むしろ自然だ。
隆幸の発言は理に適っている。
…不思議な所は……特に無いはずだった。
「あはははっ! 高槻君、なんか言い方が変態っぽくて、最高だったよ!」
隆幸はその発言に少し傷ついた様子で、『へ、変態……』と呟いている。
「え? えっ!? な、何が変なのでしょう?」
そう言って周囲を見回し、若干混乱し始める美幸。そこに――
「別におかしな所は無いわ。
美幸、あなたはこの件に関して、何も気にしなくて良いのよ……」
と、いつの間にか演奏を終えていた遥が、美幸の肩にポンと片手を置いてきた。
「…良いのですか?」
「良いの。むしろ、あなたは知らない方が、きっと幸せだと思うわ」
遥は小さな声で『これは山本さんが喜びそうなネタね』とも呟いている。
その口ぶりから遥自身はその理由を知っているようだったが……。
とりあえず、美幸は遥を信じて自分は特に気にしない事にした。
「それにしても、改めて思うけれど……ここ、全然研究所っぽくないわよね」
「え? そうですか?」
機材も最新の物が揃っているし、人材もその道の第一人者が集まっている。
他の研究施設は知らないが、間違いなくここはアンドロイド研究の最前線だ。
そんなことを思っていた美幸の様子を、表情から察した遥は―――
「美幸、そうじゃないわ。私が言ってるのはね……ここの雰囲気の事よ」
…と、美幸に補足しながら、美咲達に視線を向ける。
そこには、笑われて落ち込む隆幸と、それを慰めながらも美咲を注意する美月。
そして、叱られながらも尚もからかい続ける美咲と、美月が爆発しないようにと
宥める洋一……という、いつもの騒がしい4人の姿があった。
わいわいと楽しそうにしているその様子は、以前美幸から聞いた通り……。
研究員達というよりも『美幸の家族だ』と言った方が、しっくりくる。
実際に訪れるまで、静かにキーボードを叩く音が響く中で色々な反応を観察する
ために、様々な実験を受ける美幸の姿を想像していただけに、初めて目にした時の
この研究室の雰囲気は、遥にとって別の意味で衝撃的だった。
少し前に初めて訪れた時にも、用意された高級ピアノに驚き、皆で雑談しながら
お菓子を食べて、その後には演奏も披露して……。
…ただ、本当にそれだけだった。
途中で美幸が呼び出されて、実験のために席を外すといった事も、特に無い。
しかも『今日は偶々こうだったの?』と尋ねると、『定期的にメンテナンスは
受けますが……基本はいつもこんなものですよ?』という回答が返ってきて、更に
驚いた。
美咲の話では『自然に日常生活を送れることこそが重要』らしいのだが……。
それにしたって、この環境はあまりにも“普通”過ぎる。
「あれだけ仲の良い……温かい家族がいるのなら、私も安心なのだけれど……。
まぁ、家族に話し難い事があったら、何でも相談に乗るわ。
…まぁ、一度も働いた経験の無い私が聞いて、解決できるかは分からないけれど」
そう言って携帯端末を手に持って振ってみせる遥に、美幸も自分の端末を片手に
持って振り返す。
今回、佐藤運輸で働くに当たって、美幸には初めて携帯端末が支給されていた。
その一番初めの番号登録には、目の前の親友の番号が入っている。
その後、『面白そうだから言ってみたら?』と遥に提案され、試しに『兄さん』
と美幸が隆幸に呼びかけると、室内が更に騒がしくなってしまった……。
やはり不思議そうにしている美幸を眺めながら……遥は思った。
『当初の想像とは随分と違ったけれど……ある意味、美幸の家族らしいわ』と。




