第24話 即席指揮官
“ピーンポーン……”
ドアホンの簡素な呼び出し音が住宅街の隙間に小さく響く。
今日、隆幸は先日急遽決まった美幸の試用試験の打ち合わせのため、佐藤運輸を
訪れていた。
「………どちら様?」
ボタンを押してから数秒後、少し面倒そうな声色の女性の声が返ってきた。
「ごめんください。
先日お話させて頂きました、人材の臨時雇用の件で伺わせて頂いた者です」
隆幸は機密情報であることを意識して、あちらに理解が及ぶ最低限の言い回しで
用件を伝える。
「…は? 臨時雇用? …あぁ、国家機関の依頼がどうのってヤツね。ハイハイ」
「………はい、そうです」
隆幸が言葉を伏せたにもかかわらず『国家機関の依頼』と軽々しく口にする。
…事前に聞いていた通り、相手は相当ユルい考えの人物らしい。
そんなことを考えていると、ガチャリという音と共に40代半ばの女性が勝手口
の隙間から首から上だけを、ぬっ……と覗かせてきた。
「…初めまして。佐藤運輸様の責任者の方でしょうか?」
そう笑顔で切り出した隆幸にその女性が視線を向けると、それまでは面倒そうに
していた表情が、瞬時にパッと笑顔に変わる。
「えっ!? ええ、そうですそうです。初めまして。
この佐藤運輸の代表、佐藤道彦の妻で副社長の安恵と申します。
近くに雰囲気のいい喫茶店がありますの。打ち合わせはそちらで致しましょう?
外出の準備をして参りますので、少々お待ちくださる?」
安恵社長夫人は一方的にそう宣言して、いそいそと屋内に引っ込んでいく。
…ほんの数秒の会話だったが、その視線はずっと隆幸の顔からつま先までを舐める
ように観察していた。
外出の準備をしていなかったということは、喫茶店での打ち合わせも、今さっき
思いつきで急遽決めたのだろう。
…というより、裏口から訪ねてくるように指定してきたのも、秘匿性を重視したの
ではなく、ドアから首だけ出して応対してきた先程の態度も併せて考えれば、ただ
単に適当にあしらって追い返そうとしていたと見るべきだ。
訪ねて来たのが自分好みの色男だったので、咄嗟に喫茶店での打ち合わせを提案
した……といったところか。
安恵のそのあまりにもあからさまな態度に、隆幸は対面から僅か1分程度で頭を
抱える事になった。
…これは、美咲が念を押してくるはずだ。
溜め息を漏らしながら、隆幸はつい2日前のやり取りを思い出していた。
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「高槻君、明後日は問題の佐藤運輸へ打ち合わせに行ってもらうんだけど……。
その事について、ちょっと説明しておきたい点がいくつかあるんだよ」
そう言って美咲に研究室を連れ出された隆幸と美月は、普段は会議等に使われて
いる別室で顔を突き合わせて話し合うことになった。
…ちなみに美幸は研究室で洋一と一緒に雑談をしている為、ここにはいない。
「…まず、初めに言っておくけれど、今回の試用試験は美幸に精神的な負担……
辛い経験をさせる事を前提にしているっていう事実を踏まえて聞いていてくれ」
話し始めて数秒……美咲のその台詞に、美月は早くも溜め息を吐いた。
「はぁ……。結局9月からになってしまったんですね……。
必要な事だとはいっても、あまりにも立て込み過ぎです。
結果を急ぎ過ぎて、美幸ちゃんに悪い影響が出なければ良いんですけれど……」
「美月……私の方が余計に不安になるから、滅多な事は言わないでくれよ。
ただでさえ、詳細な資料に目を通してから、私も頭が痛いんだからさ……」
ウンザリとした顔で、美咲が美月にそう抗議する。
そして、その会話の中に出てきた『資料』の内容が気になった隆幸は、早速それ
を聞いてみることにした。
「あのチーフ、その問題の詳細な資料って、例の企業のものですか?」
「いいや、それ自体は別に良いんだ。
…いや、基本的にブラックだから、別に良い環境ってわけじゃないんだけど……。
そうじゃなくて、私が『頭が痛い』って言ったのはむしろ人間……経営者の方さ」
「経営者? たしか、中年の夫婦で経営してるって話でしたよね?」
「ああ。名前は社長が佐藤道彦、その妻が安恵。年齢は共に44歳。」
「それで……その2人のどういった所が問題なんです?」
「いわゆる仮面夫婦ってヤツらしい。
…まぁ、それだけならまだ良かったんだが、問題はその内容なんだよ」
「内容……お互い不倫でもしてるんですか?」
その隆幸の質問を隣で聞いていた美月は、思わず眉を顰める。
…そういった不義理な人間は、美月の最も嫌うところだ。
「姉さん。もったいぶっていないで、早く内容を教えて下さい」
「…わかったよ。
…でも、美月……本当、怒んないでね?」
美咲が発言前に上目遣いで恐る恐る美月をそう牽制する。
「それは内容によります。
仮にも美幸ちゃんを預ける事になるんですよ?
あまりにもあんまりな内容でしたら、その保障は致しかねます」
「…………」
その、既に冷たい声色の美月の言葉を聞いて……美咲が固まった。
…だが、その美咲の反応で、隆幸には何となく問題の方向性が判ってしまった。
詳しくは分からないが、美月が特に嫌いそうな内容……しかも相当のものらしい。
「チーフ、事前に知っておかないと僕も困るので、宜しくお願いします」
「…じゃあ言うよ?
まず、副社長の安恵夫人なんだけど……旦那の浮気の証拠を掴んだ上で、それを
見逃す事で、自分と離婚出来ないようにしてるらしい。
それで、本人はブランド狂いにホストクラブ通いと贅沢三昧の日常を送ってる」
「…? ええっと……それがチーフの言う『頭の痛いこと』ですか?」
こう言っては何だが、それは良く聞く類の話だ。
時間と金を持て余しているのなら、予想できる範囲の内容だ。
「…いいや。問題はその旦那……社長の方なんだよ」
「社長の方ですか……具体的には、どういった人物なんです?」
「この社長……そうして妻に見逃されてることを良い事に、金にものを言わせて
片っ端から女に手を出してるらしくてね。
社員がすぐ辞める一因には、社長が言い寄って来るからというものもあるらしい。
まぁ、それだけならまだ、セクハラ親父ってだけで済むんだけど――」
そこで美咲は言葉を切って、チラリと美月を盗み見る……。
…どうやら問題の部分はこの先の部分らしい。
「この社長の周辺で『婦女暴行の疑い』で捕まってる奴が不自然に多いんだ。
…しかも、その中の何件かの示談金を……何故か、この社長が出してやってる」
“ガタンッ”
突然、音を立てて美月が勢い良く立ち上がった。
「ふふっ……姉さん。
私、今から夏目所長と……少々、お話をして参ります。
…一旦、失礼しますね?」
薄く微笑を浮かべながら、美月はそのままゆらり……と、立ち去ろうとする。
「わー! わー!! 待て待てっ! ダメだって、美月っ!!
流石にパイプ椅子はマズいよ! おじさんが死んじゃうって!!」
何故か近くのパイプ椅子を無造作に掴んだまま退室しようとしていた美月を、
慌てて美咲が止めに入る。
…アレで殴られたら、確かに色々とマズい事になりそうだ。
「だ、だからさ!
今回、私達は佐藤運輸には接触しないって話になってるんだよ!!」
「それなら尚更、美幸ちゃんも駄目に決まっているでしょう!?
姉さんもおじさんも、一体何を考えてるんですか!!
あんな純真な子、恰好の的じゃないですか!!」
「だから、今回は厳戒態勢なんだって!
私のゴリ押しで、スタッフに銃器の装備も認めさせたんだから!」
「……………はい?」
美咲の『銃器』という台詞に、ピタリ……と、見事に美月の歩みが止まる。
「…はぁ、危ない危ない。
もうちょっとで所長が血塗れになるところだったよ……」
やっと歩みを止めた美月に安心した美咲が、今度は隆幸に向き直って言う。
「そういう事だから……高槻君、君にはこの試験が終わるまでの間、護衛に就く
特殊部隊の人達の指揮官役をやってもらいたいんだ」
「へぇ……僕が特殊部隊の指揮官……って、ええっ!? 本気ですか!?」
「うん、ホント。
あー、良かった……。やっと本題に入れるよ」
美月を連れて隆幸の所へ戻って来て再び席に着いた美咲は、疲れた表情で脱力
していた。
…だが、そんな姉に、美月が妙に落ち着いた声で質問してくる。
「クスッ、それでは……姉さん?
結婚して半年の……新婚の妹の夫を危険な仕事に就かせる説明をお願いします。
ああ……当然ですが、出来る限り詳しくお願いしますね?」
満面の笑みの美月が、そう言ってじっと美咲を見つめる……。
…しかし、表情は笑顔なのにもかかわらず、その目の奥は一切笑っていなかった。
どうやら、大人しくなったのは納得して落ち着いたのではなく、『銃器』発言で
驚いたところに更に新事実を聞かされた事で、単純にターゲットが美咲へ変わった
というだけだったらしい。
…何故か美月の隣に置かれている誰も座っていないパイプ椅子を見て、美咲が冷や
汗をダラダラと垂らして再び固まる。
「う、うん……。あ、あのね? 基本的にはね? 指揮官って言ってもね?
そんなに危険ってワケじゃね? ないんだよ? ホント! ホントだよ!?」
…その後、恐怖で口調がおかしくなった美咲を見かねて、隆幸が時間をかけて美月
を宥める展開になってしまった。
…だがその間、美月は一切視線を逸らさずに冷めた視線を姉に送り続けていたが。
「…高槻君、ありがとう。君が私の義弟で、本当に良かった」
「いえ、もうそれは良いですから。
それでチーフ、先ほどは『指揮官』って言ってましたけど……。
具体的に僕は何をすればいいんですか?」
一連の流れで脱線しかけた話を、隆幸が多少強引に戻しに掛かった。
「うん。基本的には美幸の安全を確保するために現場に待機して、何かあったら
すぐに現場に駆けつけられるようにしてもらおうと思う。
周辺にいくつか前線基地を用意してるから、研究所から佐藤運輸まで美幸を車で
送った後、そのまま帰るフリをしてその用意した場所に待機、現地スタッフと合流
して、美幸の視覚情報等を参照して、彼らと一緒に監視してくれ。
そして、特に何も無ければ、終業時間に美幸からの連絡を受けて迎えに行って、
こっちに帰ってくれば良い……ただそれだけだよ」
美咲の説明に特別な要素が特になかったため、少し拍子抜けする隆幸だったが、
すぐに美咲が真面目な顔になったため、続く言葉を待った。
…そして、隆幸が聞く体制を取ったのを確認した美咲は、本題を話し始める。
「さて、ここからが問題なんだけど、相手は人格的に問題があるだけじゃなくて、
どうやら相当な考え無し……ぶっちゃけ、かなり頭が悪いらしい。
こちらの正体が良く分かっていない状態なのにいきなり脅してくるなんて、
普通に考えてありえないだろう?
そこでね? こっちの本気度とその重要度を事前に思い知らせて欲しいんだ。
…間違っても美幸に余計なちょっかい掛けられないように……ね?」
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ガチャリというドアの開く音で、隆幸は2日前の記憶から現実に意識を戻した。
「お待たせしてごめんなさい。それでは付いて来て下さいます?」
隆幸は、そう言って先を歩いて行く安恵の後に続いた。
安恵自慢の高級外車に5分ほど揺られて、目的の喫茶店に到着した2人は、店員
の案内で人目につきにくい最奥の席へと腰を下ろす。
「改めて、初めまして。私は東条康之と申します」
そう言って、『東条康之』とだけ書いた名刺を差し出す、隆幸。
それは、通常あるべき社名はおろか、役職名も、連絡先すら書かれていない。
ただ、白い紙に『東条康之』の文字が書かれただけの、異様な名刺であった。
…当然だが、これは偽名であり、研究所の関係者には存在しない適当な名前だ。
「東条康之さん……ね、こちらこそ、宜しくお願いします」
差し出された名刺を、チラリと見た安恵は、それをすぐにバッグへと仕舞うと、
その手で自らの携帯端末を取り出してきた。
「…ところで先程の名刺、連絡先が書いてありませんでしたし……あなたの連絡先
を教えて下さいません?」
その発言に内心呆れた隆幸だったが……努めてにこやかな表情のままで返す。
「申し訳ありませんが、今回の依頼は非常に秘匿性が高いものとなります。
私の個人的な情報を含めて、開示する情報の全てはこちらで判断、決定させて頂く
ことになります。
…ですので、どうかその点のご理解と、ご了承をお願い致します」
そう言って、軽く頭を下げて丁寧にお断りを入れる、隆幸。
…だが、安恵はそんな返答には構わず、更にこちらに食い下がってきた。
「それなら、仕事とは別の……あなたのプライベートな方の連絡先を教えて頂戴。
そちらなら、構わないでしょう?」
「いえ、ですからそれは……」
「ねぇねぇ、この後2人でどこかに出掛けましょうよ?
ああ、お金は全部こっちで持つから、大丈夫よ。
…私、一目見てあなたの事を気に入っちゃったわ。
打ち合わせなんて、つまらない話はまた今度にしましょ。
…それに、今後もおばさんの話し相手をしてくれるっていうことなら、一生お金に
困らなくしてあげられるわよ?」
ニヤニヤ顔でこちらに愛想を振り撒きながら放たれた安恵のその低レベルな発言
に、隆幸も流石に頭痛がした。
先の情報では、問題があるのはむしろ社長の方だと聞いていたのだが……。
夫が夫なら、その妻も妻……という事らしい。
「………はぁ……仕方ないか……」
その本当にどうしようもない安恵の態度に、隆幸は念のためにと用意しておいた
最終手段に出る事にした。
…前触れなく、無言で隆幸は左手をスッと垂直に挙げた。
その瞬間、店内に流れていたBGMが突然止まったかと思うと、店内に居た客と
店内スタッフ数人が、隆幸達の座る席に集まって、周囲を取り囲んできた。
「! なにっ!? なんなの!?」
突然の事にうろたえて、軽くパニックに陥る安恵。その疑問に――
「お伝えするのが遅れましたが……この店はこちらで既に抑えておきました」
…と、隆幸は事前に予約でも入れていたかのような気軽さで安恵に答えた。
「ふぅ……。
あなたがスムーズに打ち合わせにお付き合い頂けるような理解のある方なら、
こういったことはしなくて済んだのですが……本当に、残念です」
そう言った隆幸の表情は笑顔のままで、まるで変化がない。
「ひっ……!」
ここにきて、やっと安恵は仮面のように全く変わらない、その貼り付けたような
笑顔に言い知れない不気味さを感じ始めた。
「…な、何のつもり!? 私をどうしようっていうのよ!?」
混乱し、恐ろしいものを見るような目でこちらを見てくる安恵に対して、隆幸は
少し不思議そうにしながらも答える。
「どう……って、打ち合わせするんですよ?
そのために、わざわざここまで来たんじゃないですか」
「なっ……打ち合わせって……じゃ、じゃあこの状況はなんなのよ!?」
「簡単ですよ。
これは、あまりにもあなたの勘違いが激しいようですので、こちらの話を聞いて
いただけるよう、環境を話し易いものにさせて頂いただけです」
無表情で、隆幸達を囲むように並ぶ店員達は、安恵に恐怖しか与えない。
周りの人にキョロキョロと首ごと視線を動かしてうろたえ続ける安恵に構わず、
隆幸は更に続けた。
「まず、あなたは根本的な勘違いをされているようですが……。
今回の件は、国のちょっとした“お願い”程度の案件ではありません。
今の状況である程度は把握されたかもしれませんが、打ち合わせを一度するという
だけで、あなたと社長さんの行きつけの店を調べ上げ、その全てをあらかじめ確保
しておく程度には、慎重に扱うべき案件なのです」
…隆幸はこう言っているが、実際は貸し切っていたのはここだけだ。
あの時間に訪れれば安恵が応対するだろう事は事前の調べで分かっていたし、
会社の周辺で打ち合わせに使えるような適当な店舗は、実はここしかない。
予定では場所の移動をこちらから提案して、連れて来ることになっていたものを
たまたま向こうから言い出した……というだけだった。
…しかし、こう言っておけば、ハッタリとしての効果は十分にあるだろう。
「ふふっ、少しはご理解頂けましたか?
我々はこの程度のことは簡単に出来る規模の組織であり、今回の件は打ち合わせに
ここまでする程には、私どもにとっても重要な案件なのです。
あなたも副社長を勤めていらっしゃるような頭の良い方ですから、ここまで言えば
お分かりになるかと思いますが――」
説明の途中、隆幸はいかにも何か重要な事を思い出したような素振りを見せて、
言葉を止めて……最後にこう付け加える。
「あぁ、そうだ。
ところで話は変わりますが…………長生きは、お好きですか?」
発言の最後、不自然に尋ねられた脅迫ギリギリのその質問に対して、青い顔を
した安恵は、ぶんぶんと音がしそうなくらいに首を縦に何度も振る事になった。
そこまでして、やっと大人しくこちらと真面目に話し合う体勢になった安恵。
…隆幸はその様子を見て、数日前、美咲の口から零れた『先が思いやられるよ』と
いう愚痴を思い出し、心の中で深く同意することになった。




