第21話 世界で一番幸せな演奏
「…ご清聴、ありがとうございました」
全ての演奏が終わり、舞台上で遥が客席側へゆっくりと礼をする。
初めに数人分のパラパラと拍手が聞こえてきたかと思うと、それはすぐにクラス
メイト達全員の大拍手に変わっていった。
「富吉さん凄い! カッコよかった!」
「ピアノ詳しくないけど、なんか感動した!」
「いつもはクラシックとか苦手だけど、今日は楽しかった!」
いつものように口々に感想を言い合って、再びその場が騒がしくなる。
…だが、その言葉が好意的なものであり、更にそれが自分自身へと向けられたもの
であったためか……不思議と遥も気にならなかった。
決して良いとは言えない態度で接してきたクラスメイト達に、こうして手放しで
褒めてもらえる事が遥には予想外で、同時にその一つ一つの言葉に感激を覚える。
何より、美幸の一生懸命に拍手をしてくれている姿。
その嬉しそうな表情が、遥にとっては最も価値のあるものであった。
美幸は笑顔のままで、ぽろぽろと大粒の涙を流してくれていた。
隣の美月がその涙を拭ってやっていたが、なかなか泣き止めないようだ。
(相変わらず泣き虫なのね……。でも……よかった)
美幸のその様子を見て、自分のピアノに込めた思いが、確かに美幸の心に届いた
のだと確信して、遥は舞台上で一人、ホッとした思いだった。
そして、拍手が落ち着いた頃合で、莉緒達がこの後の予定を話し始める。
せっかくみんな居るのだからと、遊びに行く計画を立て始めるクラスメイト達。
すると、そこに美月がスイーツの美味しい店に連れて行くことを提案する。
…これから始める“本題”のために、美月がクラスメイト達を先導して連れ出す事は
事前に美咲が提案していたのだ。
その突然の美月の提案に喜んだクラスメイト達は、満場一致でそちらに向かう
流れになった。
てっきり一緒に行くと思っていた美幸達が、その場の片付けを理由に残る事を
伝えると、残念がったり手伝いを申し出る生徒も現れ始めたが……。
最終的に美幸も次の機会に一緒に行くことを約束して、今日のところは彼女達
だけで向かってもらうようにお願いした。
その後、皆が出て行くまでの間、しばらくはガヤガヤとしていた講堂だったが、
退室直前の莉緒の『富吉さ~ん! また今度聞かせてね~!』という声を最後に、
突然、会場内に静寂が訪れる。
そして、静まり返った講堂には、舞台上に遥、客席に美幸と美咲、少し離れた
場所に遥の母、という4人を残すのみとなった。
途端に静かになった講堂……。
その静寂の中で勇気を振り絞って、遥は口を開く。
「母さん、今日はこれからもう一曲だけ演奏するわ。だから、それを聴い――」
「遥、まさかとは思うけれど……。
さっきの演奏……当然、コンクール向けのものじゃないわよね?」
『聴いて欲しいの』と遥が続ける前に、遥の母はその台詞に割って入ってくる。
…その表情は、先ほどまでとは打って変わって、とても冷たいものだった。
流石は親子と言うべきか、それは美幸が初めて見たときの遥の横顔と似ていて、
まるで何処かに感情を置いてきたかのような……そんな無感情さだった。
「音の強さも、テンポも、ころころと変わって……。
途中には、客の反応に合わせて弾いていた場面もあったわね?
それは、確かにクラシック慣れしていない素人の聴衆を楽しませるならあれで良い
のかもしれないけれど……。
あんな演奏じゃ、コンクールでの入賞なんて、とても無理よ?」
「…あんな……演奏……?」
母親に責めるように言われた遥が、舞台上でそう呟いて、俯いてしまう。
その様子が心配になった美幸が傍に駆け寄ろうとすると、不意にガシッと美咲に
腕を掴まれて止められてしまった。
美咲のその行動に振り返る美幸だったが、当の美咲はこちらを見ていなかった。
その視線はじっと……舞台上の遥に注がれている。
「……………」
…とりあえず今は見守ろう、ということらしい。
美咲の雰囲気からその意図を読み取った美幸は、再び遥達へと視線を戻した。
「ええ、そうよ?
絶対とまでは言わないけれど、コンクールでの演奏は譜面に忠実な弾き方の方が
審査員の方々への受けが良いのは、貴方もよく知っているでしょう?
…それとも何?
そこに立っている美幸って子と仲良くなって、何か悪影響でも受け――」
「…っ! ふざけないでっ!!」
あの遥が……講堂に響き渡るような大声で叫んだ。
ここにきて初めて顔を上げた遥の瞳には、はっきりと“怒り”が浮かんでいる。
「その子は……美幸はね! 私の親友なの!
みんなに酷い態度を取ってた私をわざわざ追いかけてきてくれて……
私の我が儘にずっと笑顔で付き合ってくれて……
私なんかのために本気で泣いたり、笑ったりしてくれる……
大事な大事なっ! 私の親友なのよ!!」
そう叫ぶ遥の目には、僅かに涙が浮かぶ……。
その涙を見て、美幸の目からも再び涙が溢れ出してくる。
「それに何よ! 『あんな演奏』って!
今日の演奏は、美幸のために弾いたのよ! 親友への感謝を込めて!
美幸は喜んでくれてた! 涙を流して感動してくれてたっ!!
だから、私も嬉しかった! 今まで弾いた中で一番楽しかった!!
私にとっては……“一番幸せな演奏”だったのよ!」
そこまで言った頃には、遥の涙は止まらなくなってしまっていた。
そして……涙声になった声は、そこで一旦、落ち着きを取り戻し始める。
「…あの日、私がコンクールで賞をもらった時から……ずっと、そう。
母さんはいつだって……コンクール、コンクール。
始めのうちは、賞をもらったら母さんも喜んでくれてたから、私も頑張ろうって、
そう思ってた。
…それなのに、いつの間にかそういうのも無くなっていって……私がどんな賞を
もらっても、何にも言ってくれなくなった。
いつもいつも『油断するな』『次のコンクールも頑張れ』って。
その頃には母さん、私と一緒にピアノを弾いてても、全然笑わなくなってた。
私のピアノ聴いても、全然っ! 笑ってくれなくなった!!
ねぇ! 母さん!!
私、頑張ったんだよ!? いっぱい練習して上手くなったんだよ!?
だからさぁ! あの頃みたいに『がんばったね』って褒めてよ!!
『うまくなったね』って、一緒に喜んでよ!!
前みたいに、2人でピアノ弾いて……『たのしいね』って、笑ってよ!!」
そこまで言って、ついに遥は堪えきれずに泣き崩れてしまう。
掴んでいた手を離して『行ってやりな』という美咲のその言葉に反応して、美幸
は弾かれたように遥に駆け寄って行く。
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舞台上で座り込みながら親友と抱き合って泣いている娘を、遥の母は呆然と……
ただ眺めていた。
そのあまりの無反応さに、心配になって近づいてきた美咲に――
「…あの子のあんな泣き顔……何年ぶりに見たかしらね……」
…と、ぼそりと呟く。
声からは先ほどまであった力強さが嘘のように抜け落ち……。
今はただ、口から言葉が漏れている……といった印象になってしまっていた。
「…私ね、若い頃はピアニストを目指していて。
遊ぶ時間も、クラスの子達と過ごす時間も、寝る時間さえ惜しんで……ずうっと、
家でピアノばっかり弾いていたの。
誰かに言われたからとかじゃなくて、自分がプロになりたくて、認められたくて。
…でも、ダメだった。
私なりに一生懸命練習したけれど、一度だって報われることは無かったのよ。
どれだけ頑張っても……私には、そのチャンスすら巡って来なかった」
黙って聞いている美咲に、遥の母は視線を下に向けて……話し続ける。
「あの子がコンクールで初めて入賞した時はね? 本当に、ただ嬉しかった。
帰りにケーキを買って帰って、家族みんなでお祝いしたくらいに。
私も……まるで自分の事のように、喜んでた。
でも、今思えば……きっと、それがいけなかったのね……。
遥が何度も入賞していくうちに、まるで自分が認められているような気になって。
もし遥がプロになれたら、私のあの頃の頑張りも報われるんじゃないか……って」
スッ……と、首だけで美咲の方を振り向いた遥の母は……自嘲気味に笑った。
「あの子がクラシックだけじゃなくて、歌手のバックバンドもやってみたいって
言った時は気でも触れたのかと思ったわ。そんなの冗談じゃない……って。
…でも、きっと気が触れてたのは、私の方だったのね……。
娘と碌に話し合いすらしないで、勝手に自分の挫折した夢を押し付けて、その姿に
昔の自分を重ねて……。
…遥からすれば、それこそ“冗談じゃない”って話よね?」
そこまで話して、遥の母は舞台上の二人に目を向ける。
そこには、遥に駆け寄って慰めるつもりだった美幸が、逆に遥に頭を撫でられて
慰められている光景があった。
「あんなにあの子の事を想ってくれる友達が、いつの間にか出来ていたのね……。
そんなことにすら、気付いてあげられなかった……。
自分が友人をほとんど作ってこなかったからって、あの子の友達を勝手に軽く見て
否定するなんて、何様のつもりだったのかしら。
……本当、自分が情けない」
そう言って二人を見つめる横顔は、教え子に向けた厳しいピアノ講師の顔から、
優しい一人の母親のものに……いつの間にか変わっていた。
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「ごめんなさい、美幸。見苦しい姿を見せてしまったわね」
落ち着きを取り戻した遥が、美幸にそう謝罪する。
「…私の方こそ、慰めるつもりが泣いてしまって……ごめんなさい」
「本当よ。
隣であんなに大泣きされたら、こっちはおちおち泣いていられないわ」
そう呆れたように返してくる遥に頬を膨らませて恨めしそうな顔をする美幸。
…だが、いつも通りの遥のその態度に……つい、笑ってしまう。
そして、そんな美幸を見て、遥も笑顔を浮かべていると……舞台の上に遥の母
と美咲が、2人揃ってゆっくりとした足取りで上がってきた。
「遥……その、ごめんなさい。
私、いつの間にか自分の考えをあなたに押し付け過ぎてしまっていたのね。
貴女がクラシックを嫌いなら、もう辞めてしまっても構わない。
コンクールの方も……もういいわ。
出たくないなら、私から断りを入れておく。
将来の事だって、あなたが望むようにしなさい。
…私もこれからは、それを応援することにする」
遥の母はそう言って、『ごめんなさい』ともう一度、頭を下げた。
これまでの遥への言動、行動全ての許しを請うように丁寧に……深々と。
「ううん。母さん……もう良いから、頭を上げてよ。
それに私、別にクラシックが嫌いなんじゃないの。
だから、母さんの言ってた通り、コンクールにはこれからも出るようにする。
でもね……やっぱり、私は自分のピアノで誰かが笑ってくれるのが好きなの。
だから、母さん……これからは昔みたいに楽しく一緒にピアノ、弾こう?
結果も大事かもしれないけど、私は今日みたいにみんなが笑ってくれた方が良い」
今日、遥の演奏を聴いていたクラスメイト達はみんな笑顔だった。
遥の母は、今になってその笑顔を“素人”と切って捨ててしまっていた自分が
無性に恥ずかしくなった。
今思えば、そこには確かに、コンクールでの結果よりも大切な“何か”があった。
「…ええ。ありがとう。
私もこれからは、遥とのピアノの時間を楽しむようにするわ。
だから……これからも私に、あなたのピアノを聴かせてくれる?」
「…ええ、勿論。 ありがとう、母さんっ…! …って、そうだ!」
母と和解出来たことが嬉しくて、つい声が大きくなった遥だったが……。
その母の放った『聴かせてくれる?』という台詞で、とても大切な事を……今日の
メインイベントを思い出した。
「…あの……母さん。実はね? 今日、聴いて欲しい曲がまだ一曲残ってるの」
『♪♪~♪、♪、♪~♪…』
講堂に遥と美幸、二人の『虹の海』の合唱が響き渡る……。
遥は先ほど叫んだ時に、喉を軽く痛めてしまっていたらしく、一人では上手く
歌えそうになかった。
そこで急遽、美幸に頼んで2人で一緒に合唱することにした、のだが――
「ふふっ、酷い歌……。音程もテンポも、もう滅茶苦茶ね」
実際に歌ってみると、美幸もついさっきまで泣いていた影響で、いつもと違い、
ほとんど声が出ていなかった。
流石にアンドロイドと言うべきか、声が出た際の音程は見事に合っていたが……
歌声が途切れ過ぎていて、それが返って不協和音となってしまっている。
そんな2人の不揃いの歌声を、遥の母は笑いながら聴いていた。
今までの彼女なら、きっと今頃は叱りつけて演奏を止めさせていたことだろう。
しかし今日、その音程の外れた娘の歌を、涙を浮かべながら聴く彼女は……
「ふふっ……ふふふふっ……」
最高に――幸せそうだった。




