第20話 友に捧げる旋律
「失礼します」
挨拶と共に遥の母が講堂に姿を現したのは13時ピッタリのことだった。
遥の横でゆっくりとこちらに歩いてくるその姿を見ていた美幸は、静かに緊張し
始める。
やがて、舞台のほど近く……客席に座っているクラスメイト達の一団の辺りまで
やって来ると、そこで一度立ち止まり、すぐに傍に居た遥へ尋ねてきた。
「…遥、こちらの方々は?」
「私のクラスメイト達よ。
ここに居る美幸が来週転校してしまうから、今日はそのお別れ会の一環として、
私のピアノの演奏をプレゼントとして披露することになったの」
「成る程……。皆様、いつもうちの遥がお世話になっております」
遥の母は話を聞くと、クラスメイト達の方向に向き直って丁寧に頭を下げた。
その表情はにこやかなものであり、美幸の想像とは少し違っていた。
本来であれば、今日は次のコンクールへの最終確認をするはずだったのだ。
最悪の場合、美幸達全員が激昂した遥の母に講堂から閉め出される可能性も想定
していただけに、少し拍子抜けしてしまう。
そして、クラスメイト達に一通り挨拶をし終えると、遥の母は再び美幸達の方に
振り返った。
…しかし、その瞳は美幸や遥よりも少しだけ上を向いている。
「それで……そちらの方々は? 学校の関係者の方かしら?」
美幸の後ろに立っていた原田姉妹を見て、遥の母は再び遥にそう尋ねてくる。
「いいえ、こちらは美幸のお姉さん達よ。
休日に生徒達だけで講堂に集まるのに問題が無いようにと、念のために保護者として
同席してくれたのよ」
遥にそう紹介されたと同時に、美咲が一歩前……美幸の隣へと歩み出た。
「はじめまして。娘さんにはウチの美幸がいつもお世話になっています。
本日はクラスで一番仲良くさせて頂いていた遥さんが私達の妹の為にピアノの演奏
をプレゼントして頂けると聞きまして……。
私達姉妹も、その演奏を聴きたくなったんです。
それで、私が学校関係者と顔見知りな事もあって、学校側にお願い致しましたら、
この場の監督役としてこうして同席させて頂くという話になりまして」
そう言って、美咲も『本日は宜しくお願い致します』と丁寧に頭を下げた。
美咲も元々は美人である事もあり、こうして真面目な顔で挨拶をすると場が引き
締まる。
こういった挨拶の場面では、逆に美月は年齢が若過ぎるので美咲に比べて、少し
威厳が足りなくなる。
…こういうところが、よくバランスの取れた姉妹だった。
「はじめまして。こちらこそ、本日は宜しくお願い致します。
ですが……成る程、そういった事情でしたか。
それでは、本日は途中で演奏を止めて指導する……というのも無粋ですし、私も
観客席から皆さんと一緒に見させてもらう事に致しますね?」
そう言って美月にも軽く会釈をしてから、遥の母は客席の方へ向かって行く。
そしてその途中、軽く遥に振り返りながら――
「遥、そういうことなら今日は最高の演奏を披露するのよ?」
…と、静かな口調でそう言ってくる。
しかし、表情こそ笑顔のままではあったが、その様子を隣で見ていた美幸には、
遥の母のその瞳の奥に、何か強い意志が見て取れた。
…だがそれは、威圧するようなものではなく、あくまで真剣に教え子を見る講師の
ような冷静で真剣な目だ。
「ええ……勿論。私もそのつもりよ」
母のその言葉に、遥がそう簡単に答えた。
…但し、珍しくはっきりと分かるくらいに、微笑みながら。
そんな遥の母の様子から、美幸は今日の本題……遥と母親との和解の件も、案外
上手くいくかもしれない……と思った。
美幸の想像では、遥の母はもっと厳しくて冷たいイメージだったからだ。
…だが、実際の遥の母は、今も遥のピアノを初めて聴くクラスメイトの質問に答え
ながら、終始にこやかにしていた。
(良かった……。思っていたよりも、優しそうなお母様で)
美幸は、そう思って安堵の息を吐く……しかし、そんな中で美咲が、
「…はぁ。これは困ったね……遥ちゃん。
君のお母さん……やっぱりちょっと強敵かもしれない」
…と、美幸達だけに聞こえる声で美咲がそんなことを言ってきた。
『…えっ?』と美幸がその言葉に反射的に振り返る中、そんな美咲に遥が、
「はい、そのようですね。
ですが…結局のところ、私には全力で気持ちを込めて歌うしかありませんから」
…と答えて、そのまま振り返ることなく舞台に上がっていった。
そんな遥を無言で見送った後、先ほどのやり取りの意味が分からずに不安そうな
様子の美幸に、美咲は自分達の席に移動しながら理由を教えてやることにした。
…このままでは、演奏が始まっても不安で耳に入ってこないかもしれない。
「美幸、さっきまでの私達の会話のやり取りをよく思い返してみなよ?
遥ちゃんとお母さん……態度が柔らかかったってだけで、最低限の事務的な会話
しかしてないでしょ?
それに……美幸、さっきから一度も自分に対して挨拶されてないのに気付いてる?
私がわざわざ途中で『クラスで一番仲良し』って言ったのに、だよ?」
そこまで言われて、美幸は自分がずっと遥の隣に立っていたにもかかわらず、
一度も遥の母と目が合っていないという事実に、初めて気が付いた。
「…ぁ…………」
それに気付いて、今度は自分の考えの甘さに落ち込んだ表情を浮かべる美幸。
…だが、そんな美幸に、美咲は言い聞かせるような口調で続けた。
「…ほら、美幸。不安だろうけれど、今はそんな顔しないの。
せっかく遥ちゃんが『君のために弾く』って言ってくれてるんだ。
あの感じだと、多分ホントに君のためだけに弾いてくれるんだと思うよ?
それは、君ならメモリを再生すれば何度でも振り返れるかもしれない。
けどね……きちんと今しっかりと見て、聴いておきなよ……ちゃんと笑顔でさ。
…でないと、きっと後で死ぬほど後悔するよ?」
そう美咲に言われて、ハッとなって咄嗟に舞台上を振り返る。
丁度、ピアノの前に座った遥が、美幸にはっきりと目を合わせて、ニコリ……と
満面の笑みを浮かべた。
遥とはそう多くの時間と言えるほどの期間を過ごしてきたわけではなかったが、
それでも、とても仲良くなることが出来た美幸。
けれど、ここまではっきりとした笑顔を見たのは、今日が初めてだった。
「…はい、そうですね。ありがとうございます、美咲さん」
その顔を見た美幸は……他に考えていた全ての事が、急にどうでも良いものに
思えてくる。
今だけは、一番の友達の自分への想いの詰まった演奏にだけ、耳を傾けよう。
他の事情はその演奏を全て聴いた後で考えれば良いのだ……。
そう思った美幸のその表情も、自然と遥と同じ……満面の笑顔になっていく。
そして、美幸に笑顔が戻ったのを確認した遥は、すぐに真面目な顔に戻った。
曲目はコンクールへの確認という意味もあったので、既に決まっていて変える事
はしていない。
しかし、そんなものは些細な事だ。
今日、この場でこれから弾く曲は、全て美幸への……“大切な友達”への感謝の
気持ちを込めて弾くだけなのだから。
母からの評価は……今日、この瞬間だけは関係ない。
絶対に後悔のないように……心を込めて。
そう決意して弾き始めた遥のピアノは……
美幸にとっても遥にとっても、人生で最高の――素晴らしいものとなった。




