第2話 新型AI開発の発端
「はぁ~……まぁ、今回も特に目新しい状況の報告は無かったね……」
とりあえず一通り報告書に目を通した美咲は、首をコキコキと鳴らしながら一息
ついていた。
「…はい。お疲れ様です、姉さん」
すると、まるで見計らったようなタイミングで、美月が紅茶の入ったカップを、
そっと姉のデスクに置いてきた。
(…いや、これは実際にタイミングを計っていたんだろうな)
『ありがとう』と呟きながら、美咲はデスクに常備している角砂糖に手を伸ばす。
美月は本当によく出来た――いや、出来過ぎる程の妹だった。
周囲には『美人姉妹』などと言われ、一緒になって褒められる事はこれまでにも
何度もあった。
…だが、姉である美咲は妹と自分の“出来の違い”をよく知っている。
こういった普段の行動の細やかな気遣いに気付く度に、いつも『敵わないな』と
思わされるのだ。
他人にはシスコンと思われるかもしれないが、美咲は美月以上に人の出来た人間
を見たことが無い。
紅茶に角砂糖を3つ放り込んで、息を吹きかけながらカップを傾ける……。
猫舌の美咲は、いつも両手で包み込むようにカップを持って、手の平に紅茶の熱
を逃しながら、ゆっくりと飲むようにしていた。
「…うん。今日も甘くておいしい」
満足気にそう呟いて、少しずつ紅茶を飲んでいる姉を微笑ましく見つめながら、
美月は背後に回り込んで、凝り固まったその肩を優しく揉み始めた。
「それだけ砂糖を入れたら、それは甘いに決まっています。
…でも、甘い紅茶をそうやってゆっくり冷ましながら飲んでると、何だか少しだけ
可愛いらしいですね?」
「ただでさえ肩こりだなんて年寄りっぽいことになってるんだ。
可愛いくらいがちょうど良いんだよ。私は」
「…でも、可愛いといっても小動物っぽい可愛らしさですけどね?」
「むぅ……姉を愛玩動物扱いとは、生意気な……」
勿論、実際は美月は生意気とは無縁の性格の持ち主だ。
だが、真面目一辺倒ではなくユーモアを交えての会話もきっちりとこなす。
その透き通るような涼やかな声と、美しい容姿も手伝って、嫌味な印象を相手に
感じさせ難い。
そして、それを自然体で出来る美月だからこそ、美咲は今回のプロジェクトに
協力してもらえるように頼み込んだのだ。
そう……あくまでも“協力”だ。
研究所内での美月は、美咲のサポート役員をしているという認識をされている節
があるが、実際は正式な所員というわけではなく“協力者”という立場になる。
現在、美月が通っている大学も、アンドロイドのAI研究に関する学部である
ため、本人も必要な知識は一通り持ち合わせている。
更に、卒業後の内定も既にこの研究所からもらっているので、一応は卒業後には
正式な所員になる予定ではあった。
…しかし、今のところはあくまでもまだ善意の協力者。そのはずなのだ。
だが、穏やかで人当たりも良いからなのか、助手の立場にある隆幸が不在の際は
美咲宛の重要書類であっても、何故か目の前の本人にではなく、横の美月に手渡す
所員が後を絶たない。
一応はこの研究室の責任者である自分が目の前に居るのに、部外秘の重要資料を
“責任者の身内ではあるが、ただの協力者”であるはずの妹に、迷いも無く手渡して
去って行く所員達を見ると――美咲はいつも思ってしまう。
…現状で、所内の何割の人間が美月の立場を正確に覚えているのだろう……と。
美月に研究の協力を正式に願い出たのは7年前……美月が13歳の時だった。
当初はその年齢もあって本当に“お手伝い”という認識だったはずなのだが……。
気が付けば、何時の間にかこうなってしまっていた。
当時からよく気が付く大人びた性格ではあったのだが、容姿がそれに追い付くに
従って、発言や所作に説得力が付いてきたことも理由の一つだろう。
普通なら上司の身内であり、子供のうちから長年かかわっていれば、同僚からは
身内贔屓などと言われて陰で反感を買ってしまいそうなものなのだが、本人に秘密
で好感度調査をしたところ、美月は驚くほど好感度が高かったのだ。
昔から頭の良い美月は、変に出しゃばるようなこともせずに、相手を立てながら
陰で支えるように動くのが上手かった。
…謙虚な物腰と気配り上手な性格は、やはり万人受けするようだ。
こうした調査の結果も、(美咲の目論見通りに)今回の開発の中心人物の1人に
美月を採用したことを、皆に納得させる材料となった。
そもそも、その全く新しいAI形式とは、一体どういったものなのか。
美咲がこのプロジェクトを立案したのは入社後すぐのことだった。
新人所員の仕事として、美咲が例の“アンドロイドAI報告記録”を書類に纏める
作業をしていた時の話だ。
当時はアンドロイドもまだ試用段階であり、決まった就労場所で働くのではなく
色々な場所を担当者と共に散策させ、その記録をとっているような段階だった。
そういった運用の準備段階だったということもあり、その資料の物量も膨大で、
ちょっとした辞典ほどの量が一人分の担当となっていた。
そんな状況から、他の所員がそれこそアンドロイドのように時間優先で簡潔に
報告記録を纏めていく中……美咲は、とある報告に目に留まった。
その案件とは『アンドロイドAIの学習機能の方向性の問題に対応して欲しい』
という、いわゆる改良の要望でもあった。
それは、夕暮れ時で信号の無い、片側一車線の細い道路での出来事。
状況は、お年寄りが杖を突きながら一人で横断歩道を渡ろうとしているのを目撃
した、というものだ。
まず、そのアンドロイドは“必要と判断した場合には子供や老人は優先して自ら
積極的に助ける”というプログラミングに従い、そのお年寄りに声を掛けた。
その道路は、該当時間帯には帰宅する会社員の車が多く見られる場所だった。
ただ、ビル街と住宅地を繋ぐだけのその道路では、その時間にはビル街へと続く
方の車線に車はほとんど見られない。
つまり、安全に渡り切るには、交通量の集中する方の車線の車の流れが落ち着く
まで待っていれば良いだけ……というような状態だったらしい。
通常、こういった場面では、人間の場合は他愛ない世間話などをしつつ間を埋め
ながら渡れるタイミングを待ち、車の流れが途切れてから念の為に反対車線に気を
配りつつ、お年寄りの手を引いてゆっくりと渡る……といった判断をするだろう。
…だが、このアンドロイドは、待つのではなく車の流れを止めてしまったのだ。
正確には、通りかかったタクシーを見て“タクシーは手を上げれば停めることが
出来る”という知識を元に、手を上げてそのタクシーを止めて、その後にお年寄り
を横断させようとしてしまったらしい。
当然ながら、タクシー運転手はこの行動に対して『性質の悪いイタズラだ!』と
腹を立ててしまった。
幸いこのお年寄りはこちらでアンドロイドの対応を試すために用意したスタッフ
であったため、状況を説明して謝罪することで、事無きを得られた……のだが。
問題として報告されてきたのは、実はその後のことだった。
そのアンドロイドには、その後、適切な対処法を担当者が指導したのだが、それ
以降、同じように困っているお年寄りを見かけても、助けるどころか避けるように
なってしまったというのだ。
そこで、その原因を究明するためにも、そのアンドロイドに理由を確認すると、
次のような回答が返ってきたという。
『確かに、前回の私の解決手段が間違いであった事と、そして本来すべき適切な
対処法も教えていただきました。
…ですので、同ケースの問題には対応が可能です。
しかし、私には“自らの判断が原因で関係者全てにご迷惑をお掛けした”という前例
があります。
その上で、総合的に考慮した結果、“お年寄りの手助け”は最重要の案件という事
ではありませんし、私はこういったケースの処理を行うのは適切ではないと判断し、
重要性が低い場合に限っては、私個人は高齢者への手助けは見送るべきだと、結論
付けました』
アンドロイドらしい、実に理論だった解答ではあったものの、その内容を簡潔に
言えば、『やり方は教わったけど、自分で色々考えたら、きっと人助けは自分には
向いていないと思ったので、止めた』という解釈だった。
この報告者は、先に失敗例を経験した場合、学習機能がマイナスに働いて消極的
になってしまうという可能性を指摘。
対処依頼として失敗を糧にするような思考構造や、苦手意識を持たない学習機能
のAI開発を新たに提案してきていた。
それは、報告としては十分な内容あり、解決策として提示された案も至極真っ当
なものではあった。
…だがこの時、美咲が引っ掛かったのはそういったことではなかった。
美咲が気になったのは、アンドロイドの回答の中の『最重要の案件という事では
ありませんし』という部分だったのだ。
…確かに、必ずしもすぐに命にかかわるような話ではないだろうし、多少の時間は
掛かるかもしれないが、放っておいてもいずれ自分で解決するのだろう。
しかし、ここで問題なのは『助けた方が効率が良いかどうか』や『自分が向いて
いるかどうか』という事ではなく、単純に『そのアンドロイド自身が“助けたい”と
思うかどうか』だ。
類似の状況を含めて、プログラム内の“人助けの重要度レベル”を上げてやれば、
このアンドロイドも再びお年寄りに声を掛けるようにはなるだろう。
…だがそれは、困っている人を見た時に『助けてあげよう』と、どこからともなく
湧き上がってくる感情などではなく、ただ単にプログラムされた指示に従っている
というだけだ。
まぁ、それはアンドロイドなのだから当然といえば当然なのだが……。
ふと、美咲はこの『湧き上がってくる感情』をAIで再現出来ないだろうか?
と考え始めた。
駆け出しとはいえAIの研究者として開発に携わる身である以上、アンドロイド
を『より人間らしくしたい』という志は、当時から持っていたからだ。
こうして美咲は、この件を切欠に『より人間味のあるAIを作り出す』を目標に
して、その感情を再現する方法を模索し始めた。
まず、美咲はこの人間らしさを再現するために、この『湧き上がってくる感覚』
をアンドロイドに正しく理解させることが大前提だ、と考えた。
なら、この感覚はどういった感情から来るのか……。
何故、自然と“助けてあげよう”と自分達、人間は思うのだろうか。
『困っている老人』を見て、“憐憫”を感じるから?
それとも“同情”するからだろうか?
あるいは“倫理的な通念”といったものが理由なのだろうか?
(…この感情の根源は、一体どういうものなのだろう?)
色々な感情が入り混じっているようにも感じられるし、自分でも気付いていない
だけで、何か1つの感情なのかもしれない。
何にせよ、指示としてプログラムに組み込んでいくために、まずは自分が正しく
理解出来ていなければならないだろう。
そんな風に色々と考えを巡らせていた美咲だったが……。
結局、その日は明確な答えが出せないまま、帰宅することになってしまった。
そして、帰宅した美咲は、ちょうど夕食の用意をしてくれていた当時中学生に
なったばかりの美月に、何気なくこの難題の解決策を尋ねてみることにした。
…すると、すぐに少し呆れたような溜め息と共に――こう答えが返ってきた。
「はぁ……姉さんはちょっと難しく考え過ぎです。
そんな感情に、そもそも根源なんて初めから無いんです。
それに、敢えて答えるならそれは感情と言うより、むしろ衝動でしょう?
そして、その『助けたい』と思う衝動を覚えるかどうかは、それまでのその人の
人生経験や感性に左右されるんです。
…だから、そんなことはいくら考えたとしても、永遠に答えなんて出ませんよ。
だってそれは、当の本人にも自覚出来ないものなんですから」
美月は美咲に対しては、いつも遠慮なく意見を言ってくれる。
そして、色々なことによく気が付く美月は、その度に美咲が見逃している様々な
大切なものに気付かせてくれていた。
「…そうか、そういうことか……なるほどね。
うん。ありがとう、美月」
美咲はその年齢からは考えられないような聡明な妹に感謝した。
今回も美月の答えから、美咲は色々な“勘違い”に気付くことが出来たからだ。
「うん、ホントに助かったよ。
これからも私が困った時にはこうして助けてくれ、私の可愛い妹よ!」
「はぁ……まぁ、もちろんそれは構いませんが……。
代わりに、毎日きちんと決まった時間に帰って来て下さい。
不規則な生活は病気の元なんですからね?」
「えっ……あー……ま、前向きに検討し、善処するよ……うん」
そんな姉の“何かの釈明会見のような玉虫色の回答”を聞いて、再び美月は深い
溜め息を吐いた。
…結局、不規則な生活を続ける姉を心配した美月が研究所に通うようになるのは、
この僅か一週間後の事だった。