最終話 虹の海
「お姉ちゃーん! この辺りで良いかなー!」
柄杓が入った手桶を地面に置きながら、月子は後ろをゆっくりと歩いて来ていた
小百合に大声でそう呼びかける。
…その手桶の中には、溢れんばかりに水がなみなみと入っていた。
「月子…張り切るのは良いことだけれど、怪我の無いようにしなさいよ?
ただでさえ、あなたの指は“商売道具”なんだから」
「そういうお姉ちゃんだって、こんな日差しの強い日に外に出てるじゃない。
これで日焼けの痕なんて残したら、撮影に支障が出るんじゃないの?」
「ああ…それなら大丈夫よ。
日焼け止めとか、対策はきちんとしているし…。
何より、もうそこまで若い子の役を演じるような機会なんて無いから、多少なら
問題はないのよ」
「そう? お姉ちゃんなら、まだまだ20代でも通ると思うけどなぁ…」
「身内からのお世辞はいらないわ。
…というより、そういうのは美幸お婆ちゃんみたいな人にこそ言うべきよ」
「あー…いや、あれはもうなんていうか…人間のレベルじゃないでしょ?」
そう言って、月子は母のアルバムを見せてもらった時のことを思い出した。
幼稚園の入園式から高校の卒業式まで、母の咲月は目に見えて成長しているのに
対して、隣に立つその母親の美幸の姿が、まるでコピーでもしたように衰えが全く
見られなかったのは、驚きを軽く越えて、ほとんどホラーだった…。
「…ねぇ、お姉ちゃん。
確認なんだけど…あの時の美幸お婆ちゃんって、もう私達と同じ人間の体になって
たんだよね?」
「ええ、そうらしいわよ?
…まぁ、私もついこの前に研究所の方から詳しい話を聞いたばかりだから、今だに
信じられないのだけれど…ね」
「まぁ、娘の母さんすら全然知らなかったみたいだし、私達が知ってるわけがない
んだけどね…。
それでも、いまだに驚きしかないよ…」
小百合達の祖母、美幸が亡くなったのは去年の初夏のことだった。
祖父の佳祥が亡くなったのが、そのまた一年前だったのだが…美幸は先に夫を
看取ることが出来たことに、本当に安堵している様子だった。
そして、その美幸は『もうやるべきことは全てやり終えた』と言わんばかりに、
佳祥の後を追うように、翌年亡くなったのだ。
80歳という年齢はそう長くも短くも無い寿命だったのだが…。
美幸本人は自らの人生に満足している様子で、最期は周囲の者達もそんな美幸を
心穏やかに見送ることが出来た。
…今、思い返しても、本当に幸せな最期だったように思う。
本人にも、遺族にとっても。
…しかし、美幸が亡くなってすぐに、その元勤務先だったアンドロイド研究所から
咲月に連絡があったのだ。
用件としては実にシンプルで『美幸さんのアンドロイドの機械部分を回収しない
と騒ぎになる可能性があるため、一旦、ご遺体を預からせて下さい』という内容の
連絡だった。
実の娘の咲月すら何も知らされていなかったので、突然の話だったこともあり、
初めは半信半疑だったのだが…。
事前に美幸が残していた映像付きのメッセージ記録を見せられたことで、結局は
信じざるを得なくなった。
何でも、極秘の情報だったために、万が一にでも危険な目に遭わないようにと、
家族にも隠していたのだという。
そして、美幸の生体反応が完全に無くなった地点で、研究所には信号が送られる
ようになっていたので、すぐに連絡できた…という事情だったらしいのだが…。
…とりあえず、娘である咲月がショックのあまり“パタリ…”と漫画のように倒れた
ので、その場は一時的にてんやわんやになった。
「…まぁ、確かに冷静に考えてみると、おかしいところはあったのよね…。
遥先生とか莉緒お婆ちゃんとか…随分と歳も離れているはずなのに、『同級生だ』
とか言っていたから」
「あー! そういえば、それは私も聞いた覚えがあるかも!
師匠から『美幸とは一緒の学園で知り合ったのよ』とか、何とか…」
「…もう今更だから良いけれど、その時に月子は何も疑問に思わなかったの?」
「えー…それは仕方ないよ…。
師匠って基本的にはスパルタだったから…。
レッスンの前の雑談の時に感じたちょっとした違和感なんて、仮にあったとしても
帰る頃にはもう忘れてるって」
「ああ…そう言われてみれば、そうだったわね…。
基本的には優しくて、コンクールの結果が振るわなかったら、怒るどころかむしろ
慰めてくれるくらいの人だったけれど…。
…根が真面目な分、レッスンの時間だけは厳しかったわね」
中学校に上がるまでの間は妹と一緒に遥にピアノを教わっていた小百合も、その
教え方がどういうものなのかは知っていた。
遥はいつも、遊ぶように一緒に楽しく演奏する時間と、ストイックに技術を習得
させるレッスンの時間の2つに分けて教えてくれていた。
そして、雑談するのは、大体はその前半の楽しくピアノを弾く時間だったため、
その後の厳しいレッスンタイムが終わる頃には、その厳しさから前半の話を忘れて
しまっていても、別段おかしくはなかった。
…ただ、そんな厳しいレッスンを受けた後も、帰り際に優しく頭を撫でられながら
『また、いらっしゃい』と微笑みながら言われると、次のレッスンの日が楽しみに
なってくるのだから、不思議なものだった。
「遥先生…格好良い女性だったわよね。
…私も将来はあんな風になりたいものだわ」
「ふふっ、でも師匠っていつも莉緒お婆ちゃんと仲良く喧嘩してたよね?」
「喧嘩…と言うには、あまりに一方的だったような気もするけれど…。
まぁ…お互いに楽しそうだったのは確かね」
「うん。2人ともとっても楽しそうだった。
だから……莉緒お婆ちゃんが亡くなった時は、ちょっと見ていられなかったな…」
その時の光景を思い出したのだろう。
基本的に明るい月子の表情に、僅かに影が差した。
「遥先生はいつもクールなイメージだったから、もっと静かに泣くものだと勝手に
思っていたのだけれど…。
……まぁ、それだけ大切な友人同士だったということでしょうね…」
「まぁ…でも、それは美幸お婆ちゃんも同じだったけどね。
私だって莉緒お婆ちゃんのことが大好きだったけど、正直、あの2人が泣いてるの
を見て、もらい泣きしたようなところもあったし…」
「ふふ…月子はどちらかと言うと、美幸お婆ちゃんよりも莉緒お婆ちゃんと仲が
良かったわよね?」
「うんっ。
…でも、それで『また莉緒に性格が似てきたわ…』って言われて、師匠には何度も
溜め息を吐かれてたんだよ?
しかも莉緒お婆ちゃんが亡くなってからは、今度は私が師匠の毒舌の標的になる
ことも増えたし…」
「でも、月子をからかってる時の遥先生、楽しそうだったから良いじゃない。
あれはあれで、少し羨ましかったのよ?
私はあんまりそういう風に扱ってもらえなかったから」
「…生前に師匠が言ってたけど、お姉ちゃんって師匠の憧れの人だったっていう、
私達の曾お婆ちゃんに似てるんだってさ…雰囲気とかが。
だから…“何となくからかい辛い”ってのが、理由だったらしいよ?」
「あら、そうなの? 別に遠慮してくれなくても良かったのに…」
そう言いながら頬に手を当てて、上品に残念がっている姉の姿を見て『きっと、
そういう反応だからやり辛いんだと思う…』と密かに思う月子。
月子は師匠である遥には度々『プロのピアニストとして上品に振る舞うように』
と言われていたものだが、品があるから良いことばかりでもないのだなぁ…と実感
した瞬間だった。
「でも、遥先生は凄く長生きされて…良かったわ。
美幸お婆ちゃんも、遥先生に会う度にとっても喜んでいたもの」
遥が亡くなったのは今から3年前。
93歳という年齢を考えれば、大往生と言って差し支えないレベルだろう。
「これもチラッと聞いた話なんだけど、師匠と美幸お婆ちゃんってどっちが長生き
するかで勝負していたらしいよ?」
「あら、それなら私も知ってるわ。
それに2人だけじゃなくて、利緒お婆ちゃんも一緒に競い合っていたから、実際は
2人じゃなくて3人勝負なのよ?」
「えっ? お姉ちゃん、いつの間にそんな話聞いてたの!?
私、最近まで知らなかったよ!?」
「ふぅ…あなたもその場に居たわよ。
ほら、これを初めて見せてもらった…あの時に一緒に聞いたの。
なんでも、勝者にはこのペンダントを自由に出来る権利が得られるとか…。
…まぁ、私はもう6年生だったけど、月子はまだ2年生だったから、覚えていない
のも無理はないけれどね…」
小百合は胸元に輝く、銀製の沈丁花のペンダントを軽く持ち上げながら、月子に
そう答え返した。
「うー…今日はお姉ちゃんの番だから仕方ないけどさ…。
美幸お婆ちゃんの墓前で着けて見せられるのは、ちょっと羨ましいなぁ…」
「何言ってるの…。月子なんて公演がある度に着けているじゃない。
たまには私にも譲ってもらわないと、割に合わないわ。
美幸お婆ちゃんも『2人に』って言って、私達姉妹にくれたんだから」
「むぅ…。
そう言うお姉ちゃんだって、この前の映画の時に着けてたじゃない」
「ふふっ…そうね。
あれは私も特に気に入った役だったから…。
監督さんを説得して自分で許可をもらったのよ? 凄いでしょう?」
「可哀そうな気もするけどね…。
向こうは有名ブランドのアクセサリーとかを着けさせたかったでしょうに…」
月子は、その小百合に頼み込まれたという監督に同情して、遠い目をしていた。
大御所…とまではいかないまでも、決して新人とは言えないキャリアと知名度の
俳優に頼まれては……さぞかし、悩ましい決断だっただろう。
「あら、良いじゃない。遥先生も言っていたでしょう?
『それで誰かが不幸にならないのなら、使えるものは金でも権力でも、好きなだけ
使えば良いのよ…』ってね?」
「……師匠って、本当に根が良い人で良かったよね…。
あれで性格が極悪人だったら、色んな意味でヤバイことになってたと思う」
口ではそう言っているが、心では『なるほど』と納得する月子。
遥の一番弟子として今もピアニストとして活躍している母、咲月も『今だに師匠
の背中には追い付けない』と、時折、零している。
…世界的な存在になるためには、それくらいの気概も必要なのかもしれない。
「でも、師匠って美幸お婆ちゃんのことが大好きだったよね…。
レッスンの時はともかく、プライベートの時は私達にも凄く優しい人だったけど…
美幸お婆ちゃんに対しては、もうそのレベルが全然違ってたでしょ。
言葉遣いこそ容赦なかったけど、傍から見ると…もう激甘だったし」
「まぁ…その美幸お婆ちゃんは私達に激甘だったけれどね。
…というより、美幸お婆ちゃんの場合は周りの皆、全員に甘かった…って言うべき
なのかしら?」
「あははっ、そうだね。
確かに、ずーっと穏やかに笑ってるイメージだったし。
あの何とも言えない『ほっこりオーラ』は、見てるだけで幸せな気分になったよ」
そこまで話したところで、会話を交わしながら進めていた墓掃除も一段落する。
小百合と月子は『原田家之墓』と刻まれたその墓前に、静かに手を合わせた。
本来なら美幸は隣の『高槻家之墓』へ入るはずだったのだが、遺言に従ってこの
『原田家之墓』へと入ることになったからだ。
美幸曰く『お母さんも1人きりだと寂しいでしょうから』とのことだ。
「…よしっ! それじゃ、最近はお姉ちゃんと一緒することもあんまり無いし、
この後は2人でご飯でも食べてから帰ろうよ!」
「月子…大人しく手を合わせたのは良いけれど、直後にその態度はどうなの?」
眉間に皺を寄せて、妹にそう抗議する月子。
少々軽過ぎるとも取れる、その月子の切り替えの早い態度は、小百合の感性から
見て許容し難いものだったらしい。
だが、月子は姉の小言など何処吹く風で、反省した様子も見せずにそんな小百合
に明るく答え返した。
「別に良いんじゃないかな。
美幸お婆ちゃん、いつも私達に言ってたでしょ?
『私は家族の笑ってる顔を見るのが、何よりも大好きなんです』って。
真面目なのも良いけど、きっとこの方が美幸お婆ちゃんも喜んでくれてるよ」
「……はぁ。仕様がないわね、まったく……わかったわよ。
…本当、月子のそういうところは、莉緒お婆ちゃんにそっくりね」
「ふふっ、羨ましい?」
「いいえ、全く。
…それで? 何処のお店に行くかは決めてあるの?」
「あ、良いの? やった!
近くに面白い味のデザートを出す喫茶店があるらしいから、そこにしようよ!」
「…それは良いけれど、今度はきちんと一人で全部食べきりなさいよ?」
「そ、それは………前向きに、検討する」
「……ふぅ…まぁ、良いわ。
そろそろ暑くなってきたし、行くのなら早く行きましょう?」
月子が張り切り過ぎて余ってしまっていた手桶の中の水を、打ち水のように墓石
の周りに撒いた後、小百合は空になった桶を片手に、月子の隣に並んで歩き出す。
「♪~♪♪~♪~…」
「…あら、またその歌? 本当に月子はその歌が好きなのね」
ご機嫌に鼻歌を歌い始めた月子に、そう尋ねる小百合。
その歌は月子が個人での公演の際には、必ずと言って良いほど演奏する曲だ。
元々は100年以上前の歌手の歌だったらしく、月子にとっては遥から教わった
唯一の“クラシックではない曲”だった。
「…うん。確かに古い歌だけど、いい歌だと思うし。
それに…この歌だけは美幸お婆ちゃんだけじゃなくて、師匠も私達と一緒に歌って
くれてさ…。
歌い終わると、いっつも本当に楽しそうに笑ってくれてたんだよ…。
…お姉ちゃんも皆で一緒に歌った時のこと、覚えてるでしょ?」
「ああ…そう、だったわね。
ふふ…ええ、楽しかったわ」
小百合が懐かしそうにそう答えると、月子は再び鼻歌を歌い始める。
…そして、今度は小百合もそんな月子に合わせるように、隣で一緒に歌い始めた。
笑顔を浮かべながら並んで歩く2人の脳裏には、一緒に歌ってくれた大切な人達
との色々な思い出が過ぎっていく…。
「♪~♪♪~♪~…」
初夏の陽射しが眩しく照らす、静かな霊園―――
2人分の楽しげで明るくて、どこか優しい歌声が爽やかに響き渡っていった。
ここまで読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
とりあえず、本編はここまでで終了となります。
ただ、ストーリー進行を重視してカットした部分を番外として今後も投稿するかも知れないので、完結扱いには設定しないでおくことに致しました。
改めまして…私の小説を読んで頂き、本当にありがとうございました。
真月正陽




