第101話 あなたの人生に美しい幸せを
その日――病院から連絡を受けた美幸は、大急ぎで美咲の元へと駆けつけた。
ただ、あまりに急ぎ過ぎていたために、まだ他の人達に連絡をしていないことに
気が付いた美幸は、院内の廊下を急ぎながら、すぐさまインターネットにアクセス
して、素早く『美咲の容体が危ない』という旨の連絡を飛ばす。
普段は、意識的にアンドロイドとしての機能の使用は避け、なるべく普通の人間
らしく振る舞うようにしよう…と心がけていた美幸だったが、こういう時に手間と
時間が掛からないのは、正直ありがたかった。
…今は、そんな1分1秒が惜しかった。
やっと辿り着いた病室のドアに手をかけ、開くと同時に声を上げる美幸。
「美咲さんっ!」
今までも、こうして誰かの病室に駆けつけることは何度もあった。
だが、由利子の時も、美月の時にも、こちらが拍子抜けするくらい元気な様子で
答えが返ってきていた。
――だから、だったのだろう。
美幸は心の何処かで『やぁ、美幸。思ったより早かったんだね!』という美咲の
元気な声が返ってくることを期待していた。
…しかし、実際は医師と看護士が美幸の声に反応してこちらに振り返っただけで、
病室は不気味なほどに静まり返っていた。
その雰囲気に、一瞬、美幸は『間に合わなかったのだろうか?』と焦る。
危篤状態だという連絡を受けて、出来る限り急いできたつもりだったのだが…。
焦る気持ちを抑えつつ、目が合った医師に容体を急いで確認する。
「あ、あのっ…美咲さんは!? 無事なんですかっ!?」
「…ええ。ただ…かなり衰弱していらっしゃいます。
幸い、今のところは意識がある状態ではありますが…。
…ご連絡した通り、依然として大変危険な状態にある状況です」
「っ………美咲さん…」
答え返してきた医師の向こう…美咲の姿を目視でも確認する美幸。
その胸が上下に動いているのを見て、とりあえずはホッと息を吐き出した。
そして…そんな一時的に落ち着いた様子を見せた美幸を確認して、冷静に自分の
話を聞ける状態になったと判断したのだろう。
担当医師は、冷静な口調と静かな声で、現在の美咲の病状を説明してきた。
「こういった場合、本来ならば延命のために解熱剤等の投与を行うのですが…。
患者さんがご高齢ということもあり、体力の方が限界に来つつあります。
…ですので、もう投薬での治療は難しいため、現在はご本人の気力で持っている…
といった状況です」
「…はい」
「それでも、患者さんのために最後まで全力を尽くす…というのが、我々、医師の
責務……ではあるのですが…」
「……?」
何故か突然、説明の途中で言葉を詰まらせた医師に、不思議そうにする美幸。
そんな美幸を前に、一瞬だけ、迷っているような素振りを見せた医師だったが…
ひと呼吸置いた後、そんな美幸に視線を合わせて、その続きの言葉を口にした。
「…今回は患者さんの個人的な希望で、私達は…ここで退室させて頂きます」
「…え? あの…それは、一体どういう…」
一瞬、何を言っているのか分からなかった美幸は、もう一度、ベッドの上の美咲
へと視線を移す。
すると、冷静な態度を保ったまま、医師はその言葉を美幸に伝えてきた。
「『最後は医者じゃなくて、家族とだけ過ごしたい』と、原田さんが私に以前から
そうおっしゃていまして…。
…ですので、あなたが到着し次第、『2人だけにするように』と、原田さんご本人
が強くご希望されていたんです」
「美咲さんが……そんなことを…」
医師が美幸の横をすり抜けるように通り過ぎると…今日、初めて美幸ははっきり
美咲と目が合った。
先ほど医師から聞いた通り、まだ意識自体はあるようだったが…。
その眼差しは、普段の美咲とは思えないほど、酷く弱々しいものだった。
「…っ………」
一目でわかる弱った美咲のその眼差しを前に、美幸は一瞬、自分が何を口にして
どうすればいいのかが、わからなくなった。
しかし、そうして固まっている美幸に対して、扉の前に立つ医師は静かな口調の
ままで諭すように声をかけてきた。
「これは、余計なことなのかもしれませんが…。
恐らくは…体力的にそう長くは持たないかと思います。
ですので、どうか…その時間を大切になさって下さい」
そう言い残すと、医師達は一礼して病室を後にしていった。
…すると、元々静かだった病室内は、もう2人の呼吸以外は聞こえなくなる。
「っ……美咲さんっ!! 私です! 美幸です! わかりますか!?」
医師の言葉にハッとなって、硬直していた身体が動かせるようになった美幸は、
すぐさま傍へ駆け寄り、ぼんやりとした様子の美咲に話しかける。
やはり焦りもあったのだろう。
思いの外、その声は大きくなってしまい、病室内に響いてしまっていた。
『………』
すぐ傍で両手で自分の右手を握り締めながらそう呼びかける美幸の瞳を、美咲の
虚ろな目は見つめ返してくる。
その薄く開いた眼差しは、今までのような力強さこそ無かったが、きちんと認識
自体は出来ているようで…しっかりと、その美幸を見つめ返してきていた。
『み、ゆ、き』
だが、反応を示した美咲は…唇こそ動いていたものの、呼吸音しか発することが
出来ないらしく、その言葉は声になっていなかった。
しかし、美幸は瞬時にその唇の動きから、発されるはずだった単語を読み取って
その問題を解決してみせる。
「はいっ! 美幸です! 美咲さん、しっかりして下さい!」
『ご、め、ん、ね』
「…ぇ……ぁ……ああ…………そう、ですか…………はい、わかりました……」
美咲の返答の意味を理解した美幸は、唇を噛み締めて、何とかそう返す。
…焦りからか、つい先ほどまでほとんどまともに働いていなかった思考が、急激に
機能し始めるのが、自分でもわかった。
頭の中でついさっき医師から助言された『時間を大切に』という言葉が響く…。
その“大切に”の意味が、ようやく正しく理解出来てきた美幸。
そう……今は無理矢理にでも、冷静にならなければならない時だった。
そうして、冷静になって―――
最後の……別れの言葉をきちんと交わさなければいけない。
「…美咲さん。
私は、美咲さんと過ごす時間は、いつだって楽しかったです」
『…(コクリ)』
その言葉を肯定するように、美咲は僅かに頷いた。
美幸もそれを確認して、満面の笑みでニッコリと微笑み返す。
「…ですが、イタズラ好きの美咲さんには困らされたことも沢山ありました。
美月さんが亡くなられた後になっても、何度も困らされましたからね…。
その追加分は、向こうでまとめて美月さんに怒られて下さい。
きっと天国の美月さんも、美咲さんを見守りながら、その時が来るのを楽しみに
しているでしょうから……ね?」
『こ、わ、い、ね』
「あははっ! 仕方がありませんよ、自業自得です。そこは諦めて下さい!」
不自然なくらい、底抜けに明るい美幸の笑い声が、静かな病室内に響き渡る。
だが…場違いなくらいに騒がしくしているにもかかわらず、医師も、看護士も…
誰も、そんな美幸を注意しに来たりはしなかった。
「あと、向こうに行っても、あまり隆幸さんをからかい過ぎてはいけませんよ?
折角、美月さんとお2人で夫婦仲良くしていらっしゃるんですから…。
いくら自分も構って欲しいからって、お2人の邪魔のし過ぎは禁物です」
『い、や、だ』
僅かに笑みを浮かべながら、今度の美咲はそう返してくる。
すると、美幸は大げさに困った表情を浮かべながら、小さな子に言い聞かせる
ような口調で、更に続けた。
「もう…駄目ですよ? あまり美月さん達の邪魔ばかりしていては…。
それでも『どうしても退屈だ!』というなら、洋一さんと由利子さんに話し相手
になってもらって下さい。
…あのお2人への土産話なら、それこそ沢山あるでしょう?」
『…わ、か、っ、た』
今度は少しだけ不満そうに、そう口を動かす美咲…。
そんな美咲の様子に笑いながら、『是非、そうして下さい』と付け足す美幸。
「あ、それから私のことは別に心配いりませんよ?
今の私には、親友も、夫も、娘も…可愛い孫だって居るんですから。
それにこの通り、身体も健康ですし…これからも私は幸せに暮らしていけます。
…ですから、どうか安心してくださいね?」
美幸のその言葉に、美咲は再び笑みを浮かべると…小さく頷いた。
そして…今度は美咲の方から美幸に話しかけてくる。
『み、ゆ、き』
「…はい? 何でしょう?」
『な、い、て、も、い、い、よ』
「…っ……ふふっ、嫌です。今日は絶対に泣いてあげません」
そう言いながらも、ポタリ…と美幸の頬を流れる雫がまた1つ、美咲のベッドに
落ちていく……。
『な、み、だ』
「…ふふっ……一体、何のことでしょうね?」
…随分前から、ずっと涙が頬を流れ続けていることに、美幸は気付いていた。
しかし、美幸はそんな自分の状態などまるで知らない振りをして、目の前の
美咲に向かって、笑顔を浮かべ続ける。
「…いつか、私の親友が言っていましたから。
涙は流れていても顔が笑っているなら、泣いていることにはならないそうです。
だから……これは笑顔なんですよ?」
美幸はこうして自分でやってみて、初めてあの時の遥の心情が解った気がした。
別れに笑顔を浮かべるのは、きっと相手が本当に大好きだからだ。
大好きな相手が不安がらないように
大好きな相手に笑顔を覚えていて欲しくて
そして――
大好きな相手にも笑顔になって欲しくて……全力で笑うのだ。
「実は、美月さん達とも約束していたんです。
美咲さんのことは、絶対に笑って見送ります……って。
でも、美咲さんは自分のためには涙を流してくれた方が嬉しいのでしょう?
それなら……これでちょうど良いじゃないですか?」
『い、じ、っ、ぱ、り』
「ふふふっ……」
狙い通りに微かに浮かべられた、美咲のその笑みを見つめながら、そう指摘する
声無き声を、無理矢理の笑顔のまま受け流して見せる美幸。
…そう。これは美咲の言う通り、ある意味では意地だった。
但し、美幸にとって絶対に曲げられない…そんな『意地』だ。
「…美咲さん。
美咲さんは、いつも事ある毎に『今、幸せかい?』って……。
私が幸せに生きて居られているかどうかを、尋ねてくれていましたよね?」
握った両手に込めた力を、ほんの少しだけ強める美幸。
しかし、もうそこまで力が出せないのか……。
美咲の手は、そんな美幸の手を握り返してはくれなかった。
「私は……幸せでしたよ?
美咲さんにこの“美しい幸せ”という名前をもらってから、ずっとずっと……
美咲さん達が一緒に居てくれたから――とっても、幸せでした」
感謝の意思を込めて、横になっている美咲の顔を覗き込むようにしながら、
心を込めて……精一杯の笑顔を浮かべる。
「ねぇ、美咲さん? 美咲さんは……どうでしたか?
私と居た時間は、美咲さんにとって……幸せでしたか?
私は、いただいた名前の通りに――美咲さんの人生に“美しい幸せ”を……。
きちんと届けることが……出来ていましたか?」
『も、ち、ろ、ん』
「…そう、ですか。
ふふっ……良かったです。それは、本当に……良かった……」
…その返答が返ってくることは、美幸にも何となくわかっていた。
しかし、『万が一にでも、否定されてしまったら』という思いから無意識に緊張
していたらしく、気付けば美幸は大きく息を吐いて安堵していた。
…そうして、美幸は緊張を緩めたことで気が付いた。
――いや……気が付いてしまった。
美咲が先程よりも少しだけ、眠そうにしていることに……。
意識を無くしてしまいそうになっている、ということに……。
急がなければいけなかった。
美咲には伝えたいことが、まだ残っているのだ。
「……………スゥ……」
…美幸は深く息を吸い込んで、その表情を笑顔から一度、真剣な顔に戻す。
「…美咲さん。今まで、ありがとうございます。
…私、忘れませんから。
美咲さんと過ごした時間も、交わした言葉も……その思い出の、何もかもを。
私はアンドロイドですからね?
何もしていなくても、いつまでだって覚えていられるのかもしれません。
ですが、それでも――自分の意思で……一生、忘れませんから」
『………(コクリ)』
今にも眠りそうにしながらも、美咲はその言葉に確かに頷いてくれた。
…良かった。まだ、聞いてくれている。
美幸は再び優しく微笑んで、世界で一番自分を愛してくれていたであろう人に、
その想いが全て伝わるように…その言葉に精一杯の愛情を込めて――
最後の別れを――――告げる。
「さようなら……お母さん。
ずっとずっと、大好きでした…………おやすみなさい」
美幸がその言葉を口にした――次の瞬間。
まるで、その最後の言葉を聞き届けるのを待っていたかのように、美咲はスウッ
と目を閉じてしまった。
「………っ……」
握っていた美咲の手が、僅かに重くなったように感じる。
…意識を失って、完全に力が抜けてしまったのだろう。
美幸がその手の平に気を取られ、再び美咲の顔を見つめた――その時だった。
美咲の瞳から一滴の涙が、ツーッと……静かに零れ落ちてきたのだ。
「………ふふっ」
美幸は、その最期の涙を見て……確信できた。
自分の言葉は、意識を失う直前の美咲に、きちんと届いていたのだ……と。
「…ありがとうございました。美咲さん」
最期の最後まで、自分のために頑張って意識をつなぎ留めてくれていた美咲に
改めて感謝を口にする、美幸。
その言葉は、きっともう美咲の耳には届いてはいないだろう。
…だが、美幸の心は少しだけ、確かに軽くなったのだった。
美咲は、その後もただ穏やかに、まるで昼寝でもしているかのような様子で、
弱弱しい呼吸を続けていた。
美幸からの連絡を受けて駆けつけた家族達が傍に来て、その名を何度も呼んで
みたりもしたが……。
やはりと言うべきか……それ以降、美咲の意識が戻ることは二度となかった。
だが、美幸はそんな状態でも、ずっと黙ったまま、美咲の手を両手でしっかり
と握り、その傍らに居続けていた。
ぽろぽろとずっと涙を零しながら、それでもやはり、笑顔を絶やすこと無く。
ただただ……そのどこか穏やかな寝顔を見つめ続けていた。
そんな美幸の様子を目にした家族達は、1人、また1人と病室を出て行く。
そして……病室内は再び美幸と美咲の2人きりの空間になったのだった――。
そうして、美咲が愛する娘に見守られながら、静かに息を引き取ったのは、意識
を失ってから約1時間後のことだった。
2人きりの静かな病室で、美咲の命の灯が消えた……まさに、その瞬間。
美幸は確かに『おやすみ、美幸……我が娘。私も大好きだったよ』という美咲の
優しい声を聞いた――そんな、気がした……。




