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第97話 妻の監督不行き届き

「ううっ……良かったね、隆幸さん…」


「全く…これも歳のせいかしらね…。

昔に比べても、随分と涙脆くなったわ…莉緒は」


「ふふっ…そう言う遥は、昔と変わらず…相変わらず優しいんですね?」


「……うるさいわよ」


 そう言って美幸に睨みを利かせる間も、莉緒の背を優しくさすり続ける遥。


 その様子を微笑ましく見守りながら、美幸は莉緒にハンカチを差し出す。


「……ありがと。美幸ちゃん」


 渡されたハンカチで、そっと涙を拭う莉緒。


 遥の言う通り、歳を重ねるに連れて、莉緒はどんどん涙脆くなったように思う。


 だが、相変わらず美幸達以外が居る場では、周囲に気を遣って涙を堪えることが

多いことも、2人はよく知っていた。


 そんな莉緒が、こうして2人の前でだけは素直に涙を流せるようになったのも、

由利子のあの日記を読んでからのことだ。


 実は美幸よりも感動屋で、すぐに涙が溢れてくる莉緒。


 そして、それがよく解っている美幸達は、黙って泣き止むまで待ってやるという

のが、あれ以降の2人の間の通例となっている。


…こういう風に莉緒に我慢させないのは、今では暗黙の了解だった。


「………ごめん。もう大丈夫」


「そう…。本当に…もう良いのね?」


「…うん。ありがとう、遥ちゃん」


 いつも通りに抑揚の乏しい口調の遥だったが、僅かに声色が優しい。

その微妙な違いが判る程度には、美幸達は長い付き合いだった。


「…美幸ちゃんもごめんね? ハンカチ、改めてありがと」


「…いいえ。私の方こそ、ありがとうございます。

隆幸さんも、きっと喜んでくれていると思いますよ…」


「………ふふっ……うん。それなら、良いかな」


 目は未だ赤いままだったが、やっと笑顔が戻った莉緒。


 それを確認して、心なしか遥の表情にも安堵の色が浮かんだように見えた。


「それにしても…素敵な話よね。

交際を始めてから、最期の瞬間までずっと両想いだなんて…。

本やドラマではよくある話だけれど、現実にそういう話を聞いたのは初めてよ」


「ふふっ…。はい。正直、少し嫉妬してしまうくらいです」


「あははっ! 美幸っちのその嫉妬は、ちょっと可愛いね。

でも、まぁ私も遥ちん言うことは分かる気はするよ?

美月さん達って2人ともこっちが驚くくらいに、ずっと仲良かったし」


「ええ。本当に羨ましいです。お2人とも」


 莉緒の口調が『美幸っち・遥ちん』に戻ったことを切欠にして、その場の雰囲気

に明るさが帰ってくる。


「あら…それなら、美幸達もそうなれば良いだけじゃない。

夫婦仲、安泰なのでしょう?」


「それは、そうなんですけれど……。

私の場合、お2人とは少し違う感じになりそう…と、申しますか…」


「…ん? 違う感じって? 具体的にどういうこと?」


 いまいち美幸の言っている意味が分からない莉緒は、思ったままそう尋ねる。


…すると、美幸は少し困った顔になって、その疑問に答えた。


「美月さんも隆幸さんもお互いを想い合って…といった様子でしたでしょう?

ですが…私の場合、仮に先に逝くことになったら、想いよりも心配の方が勝って

しまいそうでして…」


「……ああ、そういうこと…」


「あー…うん。私にも、美幸っちが言わんとすることが理解出来たよ」


 あれから…美幸と交際を始めてから、夫の佳祥は良く出来た大人に育った。


 良識、常識をわきまえていて、それでいて人を思い遣れる優しい人間になってくれた。


…しかし、生まれてからずっと、ある程度は厳しくしていても、やはり全体的には

甘やかしていた感のある美幸とそのまま一緒になったことで、本質的にはいまいち

頼りない人物になってしまっていたのだ。


 今でも“母と姉の中間のような感覚”が残っている美幸としては、自分に依存して

いるような部分は、むしろ“必要とされている”という意味で嬉しいくらいだ。


…だが、近しい人達の冷静な目で佳祥を評価するなら…。


 一言、『ヘタレ』と断言され、一蹴されてしまうことだろう。


 優しく穏やかな部分は隆幸の息子らしくて好感が持てるのだが…。


 結局、美幸の中でどこか『弟』の感覚が抜けきらなかったらしい。


「はぁ……。

穏やかな者同士、見ていて微笑ましかったのだけれどね…。

私の予想以上に、性根が“甘え性”だったみたいね……佳祥君は」


「あはは……。いい人なのは間違いないんだけどねー?

まぁ確かに、今際の際に思い浮かべたら、愛情よりも心配が勝っちゃうかな~…」


「ふぅ……そうでしょう? 

その反省を踏まえて、咲月には少し厳しくしたつもりですから、そういう意味では

咲月の方は全く心配ないんですが…」


「あはははっ! それで気付けば旦那より娘の方がしっかりしちゃってたか~」


 そう笑い飛ばす莉緒の言葉に、困った顔のままで答え返す、美幸。


…ただ、何故かここで今度はその顔を遥の方へと向ける。


「…ええ。それでも、その咲月があの人の傍に居るのなら、まだ良かったんです。

…ですが、遥の弟子として、海外を含めてあちこち飛び回る生活ですからね。

咲月の方は、長く家を空ける予定の時には、京介君も付いて行ってくれますから、

心配いらないんですよ?

ただ…そうなると、その間はずっとあの人は家で一人きりになるわけで…」


「…それについては、もう暫くは我慢してもらうしかないわね。

咲月本人も、ゆくゆくは日本を拠点に活動するのを望んでいるわ。

でも、当然だけれど国内の会場も一箇所というわけではないし、やはり海外の著名

な人物や催しに招待された場合には、応じないと。

…私も、もう70代でしょう?

だから、自由に動ける間に、ある程度は弟子の顔を売っておかないといけないって

いう理由もあるから」


 咲月が3歳になった時に遥が気まぐれでピアノを教えることを提案して、美幸は

それに賛成した。


…しかし、2人にとって予想外だったのは、咲月に思っていた以上の才能が眠って

いたことだった。


 それにいち早く気付いた遥は、より真剣に教えるためにと、美幸に許可をとって

正式に咲月を弟子にすることにしたのだ。


 当時は、国を代表するピアニストの唯一の弟子ということで、少し話題になった

くらいだ。


 そんな咲月も、今では“国内でも屈指のピアニスト”と称されるほどの実力を身に

付けている。


 更に莉緒の息子ということもあり、幼い頃から共に過ごしていた京介も、そんな

咲月を支えようとマネジメントの仕事を覚えて、今では咲月の専属マネージャーに

なっていた。


 そういった環境もあって、現在の娘夫婦は一年を通して美幸よりも遥と共に居る

時間の方が多いくらいになっている。


「…流石に『父親が寂しがるから行けません』と、某国の女王陛下の誕生式典から

の招待を断るわけにはいかないのは、美幸にもわかるでしょう?」


「うわぁ……それはそうだろうね…。

そんなことになったら『どんなレベルのファザコンだよ!』って叫びたくなるし」


 そんな遥の言葉を遥の隣で聞いていた莉緒は、思わず美幸よりも先に同意の声を

上げる。


…そして、その感覚は正しい。


「それでも、最近では相手方も私の歳に気を遣ってくれていてね…。

海外へ行く頻度は、かなり下がってきているのよ?

だから、それくらいは我慢させておきなさい」


「ええ。そこは、私も分かっていますよ?

今は私があの人の傍に居ますから、特に気になりませんし…。

…ですが、万が一にでも、私が『思っていたより随分と先に…』ということにでも

なったら、きっと……とても面倒なことになるのだろうな…と」


「あ~…美幸っち、“心配”というより、むしろ“面倒”なんだ?」


「それはそうですよ。

私の場合『仕様がないですね…』と言って、慰めてあげれば良いだけですけれど…

それを娘の咲月の立場になって考えてみると…」


「…父親とはいえ、50代半ばのオジサンが『寂しい!』ってごねるワケだ…。

うわぁ……それは…ホントに面倒極まりないね…」


 莉緒のその呟きで、3人の間に何ともいえない沈黙が訪れる…。


 その場の誰もが、その『面倒極まりない』という部分を否定出来ない。


「…も、もう美幸っちが長生きするしかないね…これは。

よしっ…ガンバッ! 美幸っち!」


「…そうね。

ただあなたが長生きすれば良いだけなのだし…頑張りなさい」


「うっ……。

…やはり、それしかないのでしょうか?」


「そんな顔をしなくても大丈夫よ。

あと10年…いいえ、あと5年もすれば、小百合ちゃん達も親に付いて行かなくて

よくなるだろうから…。

それ以降なら、可愛い孫達が寂しさを紛らわせてくれるようになるでしょう」


「そうだよ! それに、ただでさえ美幸っちは私達より15歳も若いんだし。

あと5年くらい、楽勝じゃん!」


 5年後には小百合は高校生、月子も中学生だ。


 そこまで大きくなれば、親が海外へ行くとしても、自分達だけで留守番くらい

は出来るようになっているはずだ。


 それなら、その日本に残った孫達に咲月達が帰ってくるまでの間、佳祥と共に

居てもらえれば良いだろう。


「…旦那が孫に頼らないといけないくらい頼りない人だなんて…。

…私、やっぱり夫の教育を間違えたのでしょうか?」


「『夫の教育』って…。ぷっ…あははっ!

事情を知らなかったら、とんだ鬼嫁発言だね! それ!」


「ふふっ…! 事ある毎に、美幸が佳祥君に怒鳴りつけるのかしら?

でも…そうなったら、今頃は頼りないどころか泣き虫になっていたのかもね?」


「ああ、もうっ! 2人とも笑わないで下さいよ!」


 声を上げて笑う2人に、そう言って抗議する美幸。


 今日も研究所でアンドロイドのボディ研究をしているであろう佳祥。


…だが、まさか今まさに両親の墓前で笑い話のネタにされているなどと、考えても

いないだろう。


 こうして佳祥が『どこか頼りない』という評価を受けるのは初めてではない。 


 だが、美幸は口では『教育を間違えた』などと言っているが、その接し方を本気

で後悔したことは、実はほとんど無かった。


 “甘やかす”とは、つまり“愛情深い”ことの裏返しでもある。


 美幸は、大好きだった2人の遺した『佳祥』という存在に、どういう形であれ、

そこまでの愛情を注いで育て、妻として寄り添ってきてあげられたということを、

今でも誇りに思えるのだった。

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