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第96話 どうか幸せな夢を

 美月が亡くなってからというもの、ただでさえ病気の話を聞いてから元気を無く

していた隆幸は、すっかり食欲も無くしてしまい、それにつれて体力が落ちた身体

は急速に病魔に蝕まれていった。


 特にここ最近では不意に深刻な状態になることもあるため、常に誰かが傍に居る

ように心がけている…。


 今では、主に定年を迎えて時間を取り易い美咲と莉緒を中心にして、休みや時間

が取れれば、そのタイミングで美幸や佳祥、咲月達が様子を見る…という流れが、

日常になりつつある。


 そして、この日は朝から美幸が傍につくことが出来る日であったので、美咲達は

必要な日用品の買い物に皆で連れ立って外出することになっていた。


 穏やかな空気が漂う正午過ぎ。

音を立てないようにゆっくりと開いた扉の先では、ちょうど隆幸が目を覚ました

ところだった。


「……ああ、おはよう…美幸」


「あっ……はい。おはようございます。

…今日のお身体の調子はどうですか?」


「…うん。今は大丈夫そうだ。あ…でも少しだけ喉が渇いた、かな?」 


「あ、はい。わかりました。ええっと、お水で良いですか?」


「うん。…すまないね」


「…いいえ。これくらいのこと、お気になさらないで下さい」


 美幸は用意しておいた吸い飲み器に水を注ぐと、飲み口を口元に持っていく。


 つい昨日から…隆幸はもう自力で起き上がることすら出来なくなっていた。


 しかし、流石に水の入った容器を持つくらいはが出来るのだろうが…。


 万が一、腕の力が抜けて落としてしまうと布団を交換する手間が増えてしまう。


…下手に虚勢を張る方が逆に迷惑になりかねないと考えた隆幸は、大人しく美幸に

任せることにした。


「………(ゴクッ)…」


 そうして一口だけ水を含んでゆっくりと飲み込むと…心なしか話がし易くなった

気がする。


「…うん、ありがとう。少し、楽になったよ」


「それは良かったです」


 言葉の通り、少し軽くなった隆幸の口調に、ひとまずホッと一息吐く美幸。


 先ほど本人も言っていた通り…本当に今日は体調が良さそうだ。


「日が高いね…今は、何時頃なのかな?」


「お昼を少し回った頃です。

隆幸さん、今日の昼食はどうしますか?」


「ごめん…あまり、食欲が湧かないんだ…」


「…はい。

では、代わりに点滴、させて頂きますね?」


「うん。お願いするよ…」


 食欲が無いからといって、何時までも食べないままでいるわけには行かない。


 ただ、正しい医療知識と技術を備えた美幸が居ることで、点滴での栄養の補給も

問題なく可能であり、そのお陰で自宅での療養でも不自由は少なく済んでいた。


「今日は静かだね…。美咲お義姉さんは…今、どうしてるかな?」


「ああ、美咲さんは皆さんと一緒にお買い物に出ていますが…何か御用でも?」


「いいや…ちょっと、聞いてみただけさ」


「ふふっ…そうですか」


 そう答えながら点滴をセットし終えた美幸は、隆幸に何かしたいことが無いかを

尋ねる。


…最近では起きている時間もそうだが、今日のように調子が良い日も少なくなって

きていた、隆幸。


 だが、こうして差し支えなく会話が出来ているのは、本人も言っているように

大丈夫な証拠だろう。


 今なら、多少の雑談くらいは特に問題ないはずだ。


「したいこと、か…。

それなら、美幸? 少し僕の話し相手になってくれるかい?」


「ええ、勿論。では、何の話をしましょうか?」


「そうだね…。それじゃあ…“もしもの話”をしようか」


「? 『もしもの話』…ですか?」


「…うん。

もしもこうだったら…っていう、ありえたかもしれない可能性の話さ」


「なるほど…。

では、どういう『もしも』にしましょうか?」


 要するに、空想の話ということだろう。

『もしも空を自由に飛べたなら』といったような話だと美幸は解釈した。


…しかし、隆幸の提案した“もしも”は、美幸の予想とは…少し違っていた。


「それじゃあ、まずは―――

『もしも美月が生きていて、僕もこの病気じゃなかったら』かな?」


「……ぁっ………それ、は……」


 その台詞せりふ一つで、隆幸の言う『もしもの話』の意図を理解した美幸。


 そして、最初に決められたその設定は、あまりにも切ないもので……。


 美幸は思わず、次に返す言葉に詰まってしまった。


「…美幸。この話に、そんな暗い表情は似合わないよ?

こんな幸せな『もしも』なんて、そうはないはず。そうだろう?

だからさ…どうせなら、明るい話は笑顔でしないと。……ね?」


「…っ……はい。

ふふ…そうですね。隆幸さんの言う通りでした」


 隆幸のその言葉を受けてハッとなった美幸は、切なさで流れだしそうになった

涙をなんとか堪えると、すぐに気持ちを切り替える。


 そう言われてみれば、その通りだった。


…“幸せな空想の話”にまで、わざわざ“悲しい現実”を投影する必要は無い。


「それでは―――そうですね…皆でお出かけすることにしましょうか?」


 意識的に明るくそう言ってきた美幸の声に、隆幸の笑顔の優しさが増した。


「ああ…良いね。じゃあ、皆で何処に行こうか?」


「それなら、近くの自然公園にしましょう。

あの公園には綺麗な芝生の広場がありますから、今日みたいな天気の良い日なら

とっても気持ちが良いでしょうし」


「なるほど…公園か。

簡単な昼食も用意して、ピクニックに行くような感覚で向かうのも良いかもね」


「あっ…それは良い案ですね!

いかにも美咲さん辺りが『よし、ピクニックだ!』とか、突然言いそうですし」


「あはは…確かに。

美月は逆に『突然、何を言い出すんですか…』って、言いそうだね」


「ええ。

そうしたら、今度は莉緒さんが『面白そう! 私も行きたい!』って、美咲さん

に同調するんです」


 美咲には相変わらず、思いついたことを突然、提案したりする癖があった。


 更に莉緒も似たようなところがあるため、咲月と京介が結婚して、親戚同士に

なってからというもの、2人が揃って突飛な発言をしては、美月に注意されると

いうのが、日常だった。


…ほんの半年ほど前までは当たり前だったその光景が…今ではひどく懐かしい。


「ふふ…それじゃあ、次は僕が『たまにはそういうのも良いかもね』って言って、

そんな美月を説得することにしよう」


「それなら、私もそれに続いて、『折角ですから、遥達も呼んで良いですか?』

と言って、美咲さんの案に更に乗っていきますね?」


「あはは…そこまで行ったら美月も『もう…仕様がないですね』って言いながら、

渋々ながら認めてくれるだろうね」


「はい。何だかんだ言って、最終的には美月さんは美咲さんに甘いですから」


 話が進むに連れて、どんどん楽しくなってくる美幸…。


 こうして実際に考えてみると、皆の反応が瞬時に頭に浮かんでくる。


 その空想は―――まるで、かつて本当にあった思い出話のようだった。


「そうなると、一気に大所帯になるね…。

遥ちゃんが来るのなら、その弟子である咲月ちゃんも当然、来るだろうし。

どうせなら、旦那さんの京介君も呼ぼうか?」


「ふふっ…それは小百合ちゃん達に会うための口実…ですね?」


「あははっ、やっぱり見抜かれたかい?

でも、可愛い曾孫達に会える機会は逃さないようにしないとさ」


 莉緒と京介が来るのなら、当然その娘達も連れて来ることになる。


 莉緒や美幸から見て孫に当たる小百合姉妹は、今や皆の人気者だった。


「それでは…やはり、あの人も呼んであげないといけませんよね?」


「佳祥かぁ…相変わらずメンタルが弱いからなぁ…。

呼んでおかないと、『自分1人だけ誘ってもらえなかった…』って言って一週間は

凹むだろうね…」


「ええ、確実に。ですが…ふふっ。 結局、勢揃いですね?」


「あはは…。そうだ、それならもういっそのこと、夏目さん夫妻も呼ぼうか?

折角なんだし、ここはお2人ともご健在ということにしてしまおうよ」


「ぷっ…あははっ! そうなったら、お2人はお幾つになるんですか?」


「ええっと、130歳くらい…かな? ご長寿の新記録レベルだね。

勿論、お2人とも物凄くお元気で、ノリノリで賛成してくれるんだ」


「騒がしい一団になりそうですね。

公園に居る他の方達が、驚いて逃げてしまうかもしれません」


「それも良いじゃないか。

もしそうなったら、公園が貸切になって、のんびり出来そうだし」


 美幸の頭の中で、その楽し気な光景が浮かぶ―――


 美咲が先陣を切って突き進むのを注意しながら、すぐ後ろについて行く美月。


 そして、その隣をいつも通りの笑顔で歩く隆幸。


 その後には、美幸に遥、莉緒に由利子という、親友4人組が続く。


 はしゃぐ莉緒が遥に怒られている光景が、1つ先の美咲と美月の姿にそっくりで

美幸と由利子が顔を見合わせて笑う。


 更にその後ろには、佳祥が孫の小百合の手を引いて歩いており、京介が多少気を

遣いながら、義父の佳祥と穏やかに談笑している。


 そして、最後尾には、最年少である月子を連れた咲月が歩いていて、その月子に

気に入られようと、必死になってひょうきんな動きをしている洋一の姿がある。


 どこを切り取っても楽しげであり…まさに、“理想的な休日”だった。


「でも、もしそうなったらきっと、由利子さんから『また皆で歌を歌って欲しい』

って、催促をされてしまいますよ?」


「あ~…それは大変だね。

小百合ちゃんや月子ちゃんが一生懸命に歌うのは、可愛らしいけれど…。

ふふっ……美月にとっては、かなり辛いことになりそうだ」


 音痴であることが唯一、美月が周囲に隠しておきたい欠点だった。


 皆で歌うとなれば、恐らくは頑なに歌うのを拒むのだろうが……。


 美咲にここぞとばかりに追い詰められて、結局は歌う破目になりそうだった。


「ふふっ…。美月さん、しばらくは落ち込んでしまいそうですね?」


「ははは……うん、そうかもね。

でも、多分、その場の全員にとって、最高の思い出になる一時ひとときになると思うよ?

美月も…きっと家に帰る頃までには笑顔になっているはずさ」


「ふふっ…そうですね。

それに、美月さんはやはり大人の女性ですから。

もしダメージが残っていても、何時までも沈んでいると周囲に迷惑が掛かるからと

考えて、明るく振る舞っていそうですし」


「ははは…。流石は美幸、良く解ってるね。

…でもね? 実はああいう時の美月は、僕と2人きりになったらちょっといじけて

またすぐに落ち込んだりするんだよ?」


「へぇ…そうだったんですか? ふふっ…なんだか、少し可愛らしいですね」


 静かな寝室に美幸と隆幸、2人の穏やかな笑い声が響く。


 今日の隆幸は本当に調子が良い。

ここまで饒舌に話が出来たのは、数日ぶりだった。


「…すごく楽しそうな休日だね。退屈とは無縁そうだ」


「女性陣は皆さん個性が強いですからね。

…一方で、男性陣は肩身が狭そうではありますが…」


「はは…それは耳が痛いね」


 女性陣に圧倒されて縮こまる自分達の姿を想像したのか、隆幸が苦笑する。


…ただ、その顔も含めて先ほどから隆幸が浮かべる表情にわざとらしさは無い。


 ここまではっきりと本心から楽しそうなのは、美月が亡くなってから初めてかも

しれない。


「……ありがとう。美幸」


「はい? ええっと…何がでしょう?」


 ひとしきり笑った後、隆幸は静かな声で美幸にそうお礼を言った。


「こういう話は、美幸としか出来ないからね。

…皆のことをよく知っていて、それでいて僕が美月のことを話しても、きちんと

こうして笑ってくれる。

…佳祥やお義姉さんを相手には……ちょっと、ね」


「ああ…。はい、確かに、そうかもしれませんね…」


 美月が亡くなってから、まだそう経ってはいない現在。


 精神的にあまり強くない上に真面目過ぎる佳祥は、ノリに付いて行けずに涙を

堪えきれない可能性が高く、逆に美咲は、無理をしてでも話には乗ってくれそう

だったが…今度はこちらが美月の話を振ることに遠慮を感じてしまうだろう。


…そういう意味では隆幸の言う通り、話し相手は美幸が適任だった。


「夢のような話でさ、本当に楽しかった。

…これなら、久しぶりに良い夢が見られそうだよ」


「あ……眠くなってきましたか?」


「…うん。少しだけね…」


「それなら、私のことはどうかお気になさらず。

眠くなったなら、遠慮なく眠って頂いて構いませんからね?」


「うん、わかった。ありがとう。

でも……眠る前に1つだけ、良いかな?」


「え? ええ、私は大丈夫ですよ? 何でしょうか?」


 眠そうな隆幸の言葉に、軽い調子でそう答え返す美幸だったが…。


 美幸の予想に反して、隆幸は少し間を置くと、真剣な口調で尋ねてきた。


「僕は―――美幸にとって、良い家族になれていたかな?」


「はい。勿論です」


 眠そうにしていた隆幸の目が、そこで一瞬だけ、大きく見開かれる。


 少しは思案する時間があるか、と思っていた隆幸だが…。


 予想よりも遥かに早い美幸の返答に、隆幸は純粋に驚いたのだ。


「…そっか。

ふふ…やはり、こういうことに即答してくれるのは、嬉しいものだね」


「『どういう存在か?」という質問でしたら、少しは考えたかもしれません。

ですが、『良い家族か?』ということでしたら、もう考える必要がないくらいに

間違いないことですからね」


「へぇ…。“どういう存在か”では迷うんだね?」


「はい。

隆幸さんの場合、お兄さんのような、それでいて父親でもあるような…。

どちらの印象が強い、というわけではないので…。

少し、考えてしまいますね」


「ははは…そっか。言われてみれば、それは僕の方も似たような感覚かなぁ」


 美咲は姉というより生みの親という感覚が強く、逆に美月は姉という印象の方が

強い傾向があった美幸。


 しかし、そこに関して言うと隆幸に対する感覚は、父と兄のちょうど中間くらい

に位置していた。


 以前は兄のように感じていた部分が強かったのだが、佳祥と籍を入れて、正式に

“義理の娘”となってからは、不意に父親のように感じる場面も増えていった。


 隆幸の年齢的な変化もあるのだろうが、普段は自分達夫婦を優しく見守ってくれ

ていて、困った時には相談にも乗ってくれる…というその接し方が影響していたの

だろう…と、美幸は自己分析している。


「…僕はさ、実は自らの人生の中で3つの目標を立てていたんだ」


「3つの目標、ですか…」


「うん。

1つ目は『疑いの無い愛情の獲得』、2つ目は『疑い深い性格の改善』、3つ目は

『諦め癖の克服』…この3つ」


 天井を見つめて仰向けになっていた隆幸は、数秒だけ目を閉じる。

…口調は依然としてはっきりとしているが、少し眠いというのは本当らしい。


「正直に言うとね?

2つ目と3つ目の目標は…自分で思うほどには上手くいかなかった。

子供の頃の自分の環境を考えれば、良い人ばっかりで…。

特に、さっきの話に出て来たメンバーなら、疑う必要もない。

その人との関係性を諦めることもないっていうのは、十分に解っていたんだ。

でも……何て言うのかな…

頭では解っていても、やはり美月以外は…心の底からは信頼し切れなかった」


「…こういうことを聞くと困らせてしまうのかもしれませんが、私や美咲さんでも

…駄目でしたか?」


「そうだねぇ…美幸に関してのみ、ちょっとだけ複雑なんだ。

美幸は素直で、真っ直ぐだからね。

疑ってもいないし、仲違いで自分との絆を諦めることになるとも思ってない。

…でも、僕らの場合は、立場的に美幸の試験結果次第では突然の別れも想定出来た

だろう?

だから、心の何処かで別れが来ることを警戒していた。

…だから、その名残でね。

そういう経緯での諦めをする心の準備をしていたのが、少し残っているんだ」


「そう、ですかぁ…」


 隆幸の言葉に、納得と同時に…少しの安堵を覚える美幸。


 物理的に別れが来ることを諦める意識はあったとはいうが、逆に言葉を反せば、

『関係性という意味では、きちんと美幸を信頼出来ていた』ということだ。


…隆幸の今までのあり方を考えれば、十分な評価だろう。


「…では、美咲さんはどうなのでしょう?」


「お義姉さんか…こちらも違った意味で、少し複雑だね。

本質的にはとても良い人だと思うし、そういう意味では信頼出来るんだけど…。

ただ、あの人は、きっと本当の奥底の心情は見せていないんじゃないかな?

たとえ本心を語ってくれたとしても、その更に裏側に、隠した感情がある。

そんな気がするんだよ。

勿論、それは相手を思い遣ってのことだったりするから、決して悪い意味という

ことではないんだけれど…ね」


「ああ…なるほど。それはそうですね…。

はい、その予想は…確証はありませんが、私も当たっていると思います」


 美咲は、恐らく美幸の身近な人物の中でも、トップクラスに感情を誤魔化すのが

上手い人物だった。


…そもそも、考えてみれば、自分の感情すら自分で誤魔化しきれる人物なのだ。


 それを他人が完全に読みきるというのは、至難の業だろう。


 ましてや、隆幸の目すら誤魔化せるのなら、ほぼ不可能と言って良い。


「そういう理由で、2つ目と3つ目は駄目だったわけだけれど…。

1つ目は、もう文句無しに達成出来たって言える。

美月からは“夫婦愛”っていう愛情を、そして…美幸からは“家族愛”っていう愛情

を与えてもらった。

…これに関しては、美幸の感情も疑いようがなかったからね」


「…隆幸さん、それは少し違いますよ?」


「…ん? 何か…間違えていたかな?」

                     

「はい。

隆幸さん、愛情は一方的に与えるものではなく、与え合うもの・・・・・・です。

私も“家族愛”という形で隆幸さんから受け取っていましたし、美月さんだって夫婦

として、その“疑いようの無い純粋な愛情”を、きちんと受け取っていたはずです。

…そんなことを言うと、向こうで美月さんに本気で叱られてしまいますよ?」


「……………あはは……そっか。

…僕にも、気付かない内に、きちんと出来ていたのか…」


 点滴の繋がっていない方の手で目元を押さえて、静かに笑う隆幸。


…その手の隙間から流れる雫を、美幸は黙って見ない振りをした。


「ふふ…美月も言っていたらしいけれど、やっぱり僕の方も同じだね…。

美幸のお陰で、僕もこの人生を悔いなく終われそうだ」


「…そうですか。

それは、本当に……本当に、良かったです」


「うん。

まだ、先になるんだろうけれど…お義姉さんのこともよろしく。

きっと、僕達開発チーム3人にとって、美幸にこうして見送ってもらえるのは…

最高の贅沢だと思うからさ」


「…ええ。任せてください。

美月さんにも頼まれましたし、絶対に美咲さんも笑顔で見送って見せます」


「うん、ありがとう。

…美幸もいつの間にか頼もしくなったね。嬉しいよ…」


「ふふっ…それこそ、皆さんのお陰ですよ」


 その美幸の言葉とほぼ同時に、隆幸の身体から力が抜けていく。


…そろそろ眠気が限界に達してきたらしい。

呟くように、ごく小さい声で隆幸が美幸に語りかける。


「ああ…ごめん。もう…眠いや。…おやすみ、美幸」


「…はい。おやすみなさい。良い夢を…」


「ふふ…大丈夫さ……きっと、今日は良い夢…だよ……」


 掻き消えるようなその言葉を最後に、隆幸は無言になった。


 それから、数分後には規則正しい寝息が聞こえてくる。


 話をしている間に終わっていた点滴を取り外し、上布団を掛け直す美幸。


 チラリと流し見た隆幸の顔は…流した涙の後を残してはいたものの、とても

穏やかなものだった。


…最近では簡単な食事すら碌に出来なくなった隆幸。

悲しいことだが、そう先は長くは無いだろう。


 持って、あと一月…といったところだろうか。


 美幸の正しい医療知識は、希望的観測を許してはくれない。

今は、それが少しだけ…余計なものに感じた。


(どうか…隆幸さんの残り少ない時間が、良いものでありますように)


 過酷な少年時代を過ごした隆幸が、ここに来て『悔いがない』と言えるほどに

まで、やっと成れたのだ。


 せめてこのまま、心穏やかに最期を迎えられることを祈る、美幸だった。




 隆幸が亡くなったのは、この日から約2週間後のことだ。


 傍で看取った莉緒から、最後の最後に呟いた言葉は『美月…』だったと聞いた時

美幸は自然と涙よりも先に、笑顔が零れた。


 『似たもの夫婦だな…』と思うと同時に、良い最期だったのだろうな…と思える

その呟きは、深い悲しみより更に大きな安堵を美幸に与えてくれたのだった。

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