第92話 美しき月のように
美月が最初に倒れてから、更に一月半が過ぎた頃。
通院で治療を受けていた美月が、再び自宅で倒れてしまった。
そして…そこからは、慌ただしかった。
病状から『あまりにも危険度が高すぎる』として、病院から出そうとはしない
医師を説得し、なんとかその日のうちに自宅のベットの上の隆幸に会いに戻った
美月は、美幸との約束の通り、自らの口から病気の事実を告白したのだった。
その後、すぐに入院するために再び病院へと舞い戻ることとなる。
ただ、美月本人の希望もあり、半ば強引に押し切ったまでは良かったが、病状
が悪化している状態で倒れたその日に無理をしたことが影響したのか…。
病院へと戻って来た美月は、すぐに再び意識を失ってしまう。
結局、回復した美月と落ち着いて話せるようになったのは、その3日後…。
それは―――美月が亡くなる、ちょうど一週間前の会話だった。
「先日は突然、倒れてしまって…お騒がせしました」
「お騒がせって…そんなこと、お気になさらないで下さい。
それで…今日は、お加減はよろしいんですよね?」
「ええ、それは問題ありません。
今日はお薬もちゃんと効いてくれていますし…とりあえずは大丈夫ですよ」
「そうですか…それなら良かった。
私としては、美月さんが無事に復調されて、安心しました」
美幸がそう答えると、美月は顔をこちらに向けて微笑む。
…しかし、美幸はそんな美月を見て、何とも言えない複雑な感情を覚えた。
元々、スリムな体型を維持していた美月に余計な脂肪は付いていなかったが…。
今の美月は、一目で分かるくらいに痩せ細った、“病人の顔”をしていた。
骨と皮…とまではいかないが、不健康に痩せて見えるその姿からは、その身に
否応無く近付く、濃厚な『死』の香りを感じ取れてしまう。
「ふふ…。
ごめんなさい…やはり、また驚かせてしまいましたか?」
「それは……はい。
今回も、突然でしたし…
…それに、最近は特に元気にしていらっしゃるように見えましたから」
「クスクスッ…そうですか。
美幸ちゃんの目も誤魔化せていたのなら、我ながら名女優ですね…」
そう言って、可笑しそうに笑う美月。
『誤魔化せて』と表現しているということは、ここ最近の元気そうな様子はただの
痩せ我慢だったらしい。
美幸としては、無理をして元気そうに振る舞おうとするよりも、周囲の人を心配
させてでも、安静にしていて欲しい…というのが本音だ。
しかし、当の美月はというと、アンドロイドの美幸の目を誤魔化せていたほどの
演技だったということは、人間である美咲や隆幸のことも騙せていたのだろう…と
いたく満足そうだった。
「ああ…でも、思い返してみると、美咲さんは少しだけ疑っていたような…。
先日も『なんだか、美月が妙に元気過ぎる気がする…』って呟いていましたし」
笑顔を浮かべる美月を相手に、自分も暗い表情で居てはいけないと思った美幸は
明るい口調になるよう意識をしながら、そう返した。
…回復したとはいえ、恐らくは万全とは言えない体調であるはずにもかかわらず、
今もこちらに明るい笑顔を向けてくれている目の前の美月も、自分とは楽しく会話
することを望んでくれているだろうから。
「へぇ…それは、やはり姉妹だから判ったのでしょうか?
それとも……ふふっ…いわゆる“亀の甲より年の功”というやつでしょうか?」
「クスクスッ…。
きっと、今の台詞を美咲さんが聞いたら、怒られてしまいますよ?
『妹が姉を年寄り扱いしないでくれ!』って」
「ふふ…それは宥めるのが大変そうですね。
美幸ちゃん、今のは姉さんには内緒にしておいて下さい」
「クスッ…ええ、わかりました。
ですが…私は元来、隠し事は好きではないので、今回だけ…ですよ?」
「ふふふ…ええ。ありがとうございます」
ちょうど今、話題に上がった美咲は、現在は自宅で隆幸の様子をみている。
面会が可能になったという知らせを聞いて、真っ先に美月に会いに行った美咲が
この病院から帰って来たのと交代で、こうして美幸が見舞いにやって来ている…と
いうのが、これまでの経緯であり、それが今、病室に美幸と美月が2人きりで居る
理由でもあった。
前回と同じく、突然倒れるかたちで調子を悪くした美月…。
…だが、それは現在も自宅で臥せている隆幸も同様だった。
3日前に美月からその病状を聞かされてからというもの、すっかりその瞳からは
覇気というべきものが失われてしまっていた。
幸い、ショックで病状が悪化するという事態にまではならなかったが…美幸には
その眼差しが、生きるのを半ば諦めているように感じられるほどだった。
「美幸ちゃん…隆幸さんは、やはり元気がありませんか?」
会話が途切れ、何かを思い出す素振りを見せた美幸の様子から気付いたのか…
美月がその思考を言い当てつつ、そう尋ねてきた。
その美月の問いに、美幸は内心で『しまった』と思いいつつも、隠すこと無く、
ありのままを伝えることにした。
「…ええ、以前に美月さんが言っていた通りになってしまいました。
もう、見るからに元気がなくなってしまって…。
…やはり、あの時に病状を隠していたのは正解だったのかもしれません」
「ふふっ…そうでしょう?
何だかんだ言っても、隆幸さんのことは私が一番よく知っているんです。
それこそ、本人よりも…ね」
深刻な面持ちで答え返した美幸に対して、美月は依然として笑顔のままで、
そう答え返す。
美幸には、そのどこか自慢げな様子の笑顔に、長年連れ添った夫婦としての
絆が見えた気がした。
「今日、お家に帰ったら…隆幸さんに伝えておいて下さい。
『きちんと最後まで諦めないで、少しでも長く生きて下さい』って。
それから……そうですね…。
『私をきちんと、見送って下さいね』とも…言っておいて欲しいんです。
……美幸ちゃん、お願い出来ますか?」
「………っ……」
穏やかな口調で告げられた、その“お願い”の内容に、一瞬、息を詰まらせる美幸
だったが…。
数秒の沈黙の後に、美月としっかりと目を合わせてから…返答した。
「…はい、わかりました。
確かに…伝えておきますね」
いつかのように『そんなことを言わないでくれ』と、そう言いそうになったが、
なんとかその言葉を飲み込んで、その頼みを受け入れた美幸…。
あの聡明な美月が、つい先日の会話を忘れているとは思えない。
…だから、美月はそれが解っていても尚、そう言っているということになる。
つまりは―――そういうこと、なのだろう。
その穏やかに微笑む瞳の向こうに、ある種の“覚悟”を見てしまった以上、美幸は
頷くことしかできなかった。
…ここで『元気になって、ご自分で伝えて下さい』と言うことが、どれだけ残酷な
ことであるかが解らないほど、美幸ももう子供ではなかったから。
「…ええ。ありがとうございます」
いつも以上に真剣な顔で頷いた美幸を見て、安心したようにニコリと、はっきり
とした笑顔を浮かべる美月。
そして、美月は美幸から天井へと視線を移すと、ポツポツと言葉を紡いでいく。
「……美幸ちゃんとは、今まで色んなことを一緒にしましたね…」
「…はい。
お料理や、お掃除――って、すぐに思い浮かぶのは家事ばかりですね」
「ふふっ…。
ですが、私はただ家事をこなしているだけでも、楽しかったですよ?
たまに気まぐれを起こした姉さんが『私も混ぜろ』って言って手伝ってきて…
その度に、酷い結果になりましたが」
「クスクスッ…。
美咲さんが参加すると、いつも気付けばお説教になっているんですよね?」
「まぁ…姉さんは家事のセンスが全く無いですからね。
それなのに、自信と口だけは一人前で……本当、あれでは大人失格です」
「でも、私はそのお説教も含めて、とても楽しかったですよ?
あの時だけは、美咲さんも結構、美月さんに反論していましたからね」
「ええ…。
自分から手伝おうとしていた手前、引っ込みがつかなくなっていたのでしょう。
けれど、いつも“結果”ではなく、“やる気”ばかり主張してきていて…。
『いくらやる気があっても、真っ黒になった魚は食べられませんよ?』と言えば、
今度は『いや! 人間、頑張れば何でも出来る!』って言ったかと思うと、それを
自分で口いっぱいに頬張って、無理矢理食べようとしたこともありましたし」
「ああ! そういえば、そんなこともありましたね!
それで、あまりにも苦過ぎたらしくって、美咲さんがすぐに噴き出したら…近くで
料理の様子を見ていた所長さんの顔に見事に直撃したんでしたね!」
「ふふっ…ええ、そうです。
私達には甘かったおじさんも、流石にあの時は見たこと無いくらい悲しそうな顔を
していましたね」
「それで、思わず3人で笑ってしまったら、今度は所長さんが拗ねてしまって…」
「ふふふっ…はい。
あの時はおじさんの機嫌がなかなか直らなくて…大変でした」
病室に美幸達2人の、声を抑えた小さな笑い声がクスクスと響く。
つい昨日の話のように数十年前の情景が思い出されて…2人で笑い合った。
“いつまでもこの時間が続いたなら…美月はずっと居なくならないのだろうか?”
美幸の頭の中にそんな考えが過ぎって………不意に泣きそうになる。
その笑い声が途切れた時……美月が落ち着いた声で、静かに呟いた。
「ええ、本当に…楽しかったです。
全く悔いが残らないくらいに、私の人生は楽しいことばかりでした。
姉さんや隆幸さんを見送ってあげられないのは…ほんの少し残念ですけれど。
…ですが、考え方によっては『悲しい思いをする回数が少ない』という意味では、
これも幸せなことなのかもしれませんね…」
「………美咲さんは―――」
目を伏せて今までの思い出を振り返っていた美月は、その美幸の言葉に反応して
すうっ…と視線を上げる。
すると、そこにはまるで泣いた後のように目を赤くした美幸が、それでも涙を
流すことだけは堪えたまま、穏やかな表情を浮かべていた。
「美咲さんは…ずっと、美月さんを“世界一幸せ”にしたかったらしいですよ?」
「……ふふっ。
……そう、ですか。
…それは、なんというか……姉さんらしい言葉ですね…」
「それで…なのですが……。
その美咲さんの野望は、達成された…ということで良いのでしょうか?」
「ふふっ…そうですねぇ…」
美幸の質問に対して、人差し指を顎に当てて、病室の白い天井を見上げながら
じっくりと考えるような仕草をして見せる美月…。
…しかし、それはどう見ても、ただ楽しんでいるだけだった。
何故なら、美月の口元はずっと綻んだままだったからだ
「…ええ、そう言っていいと思います。
私一人の尺度では、世界一…かどうかまでは判断できませんが…。
それでも…『私は私の知りうる限り、誰よりも幸せにしてもらえた』と思います。
…姉さんを筆頭に、周囲の沢山の人達…皆の手によって」
「そうですか…。
それは……それは良かったです…本当に」
美月がまだ幼かった頃に、密かに決意したという…美咲の人生をかけた想い。
それが、美月本人の口から『成就しました』と認識されたことは、とても嬉しく
思える…。
…『このことは、必ず美咲には伝えてあげなければ…』と、美幸は思った。
「……私は、姉さんが私に対してそう思ってくれてたのと同じように、今までずっと
『姉さんにとって自慢の妹であろう』と、そう思って生きてきました…」
「…はい」
「…美幸ちゃん、そちらは…どうでしょう?
私の野望の方は、無事に達成出来たと…そう思いますか?」
「クスッ…そうですねぇ…」
その質問を受けて、今度は美幸が先ほどの美月と同じように、じっくりと考える
ような仕草をして見せるが…。
…やはり、そこには真剣に考え込んでいるような深刻な様子はなかった。
「私は美咲さんではないですから、確かなことが言えるわけではありません。
…ですが、私にとって美月さんは、ずっと憧れの存在で…。
少なくとも私が知りうる限りでは『世界一素敵な女性』でした。
だから…きっと美咲さんにとっても、美月さんは最高の…自慢の妹だったのだと…
そう思いますよ」
「…そうですか。
美幸ちゃん……ありがとうございます。
美幸ちゃんからそう言ってもらえるのなら、きっとその通りなのだと思います。
ふふっ…少しだけ、安心できました」
美幸は『世界一素敵な女性でした』と、そう過去形で口にした瞬間、微かに声が
震えてしまっていた。
別に、今すぐに美月がそうなるわけではない…。
…それでも、目を逸らしていても良い時間は…きっと、もう終わってしまっている
のだろう。
それが解っていたからこそ、敢えて意識的に過去形で口にしたのだが…。
…それが自分には、想像以上に堪えたらしい。
「私…正直に言うと、今まではあまり自分に自信が無かったんです。
そういうことを口にする度に、姉さんには『美月がそれを言うと、嫌味になるよ』
と言われていましたけれど…。
ですが…やはり、どうしても考えてしまっていたんです。
姉さんから奪った沢山のもの…それに似合うだけの誇りに成れているのか…って。
でも……ふふっ…『世界一素敵な女性』ですか…。
美幸ちゃんからそこまで言ってもらえるのなら…私も少しは、胸を張っても良いの
かもしれませんね?」
今まではずっと、他人からの評価に比べて、自己評価が低かった美月。
幼い頃に“姉の自慢であり続ける”と決意した美月は、同時に具体的な形でその姉
に直接は何も出来なかったことを、心のどこかで責め続けていた。
だが、もう残りの時間が少なくなった今になって、身近にいて、信頼できる存在
でもある美幸の口から、そうはっきりと言ってもらえたことには、美月にとっては
その言葉の意味以上の価値があった。
美幸が『ずっと』と言うのなら、少なくとも美幸が家族となった時からの、この
半世紀近い間の自分は、“姉の誇りであり続けることが出来た”ということだろう。
…それなら、あの頃、自分を守るために自分を殺してでも、ずっと頑張ってくれて
いた姉に対して、何も出来なかった自分にしては、十分な成果ではないだろうか?
ここに来て、やっと美月は“自分を許す”ことが出来そうだった。
素直に、美幸の『最高』という評価を受け入れることが出来るようになれた。
「…美幸ちゃん。
これからも、姉さんのことを…どうかよろしくお願いします。
隆幸さんには、佳祥が居ますけれど…
姉さんには、やはり美幸ちゃんや咲月ちゃんの方が良いでしょうからね…。
…出来る限りで構いませんので、今まで通りに傍で笑っていてあげて下さい。
何と言っても、姉さんは美幸ちゃんの笑顔が何よりも大好きな人ですから…」
「はい…わかりました。任せておいてください」
「ありがとうございます…。
ふふっ、良かった……これで、本当に心置きなく…“最期”を迎えられそうです」
「…美月…さん」
その言葉の通りの満足そうな表情に、美幸は何と言っていいか分からなくなる。
ただ、その優しい表情は、何処か見ていてこちらも安心出来るような…。
―――そんな、とても穏やかなものだった。
「あ…そうでした。
…ごめんなさい、美幸ちゃん。
1つだけ、きちんと言っておかなければいけないことがありました。
とても個人的なことなのですが……聞いてくれますか?」
「……えっ? あ、はい。…何でしょう?」
急に美月の雰囲気が明るいものに変わったので、少しだけ驚く美幸。
一度、息を吐いて落ち着いたところで、改めて話を聞く体制をとる。
「私…きっとその時が来たら、ですね…。
今までお世話になった沢山の人と、その想い出を思い浮かべるかと思います。
ですが…絶対に、最後は隆幸さんのことだけを想って…逝きますから」
「…え? あの……ええっと…?」
事前に言っていたとはいえ、本当に個人的な決意だったため、美幸はその宣言の
意図を読み取り切れず、反応に困ってしまった。
しかし、美月の方は、美幸のその予想通りの反応に『ふふっ…』と少し笑って…
その言葉の伝えたかった部分を、もう一度、少し分かり易く言い換える。
「ほら、いつか浜辺でお話した時に、美幸ちゃんに教わったでしょう?
結婚式で姉さんに尋ねられて誓った、あの言葉の本当の意味を。
あれを、実践したいんです。
最後の最後くらい…本当に誰にも、欠片も遠慮すること無く…ただ純粋に隆幸さん
のことだけを想って…逝きたいんです」
「……あぁ、なるほど。
そういうこと、ですか…」
「はい…だから、ごめんなさい。
最後に思い浮かべるのは…姉さんでも、美幸ちゃんでもないんです」
少しも申し訳なさそうにせずに『ごめんなさい』と、笑ってそう言ってくる…。
この数十年で、数え切れないくらいに見た、人差し指を唇に当ててウインクする
いつもの仕草と共に。
美月のその少女のように茶目っ気たっぷりに可愛らしく笑う姿を見て―――
美幸は改めて、思ったことを心の中でそっと呟いた。
(ああ…。やっぱり最後まで、美月さんには敵わなかったなぁ…)
一片の曇りも無い笑顔でそう宣言する美月の容姿は、当然ながら、もう若き日の
ような誰もが振り返る美女…というわけではない。
実年齢より若く見えるのは相変わらずだが、それでもそれなりに歳と共に容姿も
衰えていた。
更に、今ではそこに病気の影響も加わってすらいる。
…しかし、そう言って笑う美月は……最高に美しく、そして…格好良かった。
―――正しく『世界一素敵な女性』の姿が、確かにそこにはあった。
その日から一週間後、姉に看取られながら亡くなった美月。
その顔は、まるで身体の痛みなど全く無いかのように、穏やかで優しい表情を
浮かべていたらしい。
最後の最後まで、美しくあり続けようとした……美月。
そのあり方は、美幸にとってどれだけ憧れて追いかけても決して手が届かない…
その名の表す通りの―――『美しい月』そのものだった。




