第88話 真夏のお墓参り
「…美幸。これ、ここに置いておくわよ?」
運んできた水桶を地面に置きながら、遥は美幸にそう呼びかける。
桶の中には柄杓と共に、既に半ばまで水が入っている状態だった。
「あ、はい。ありがとうございます、遥」
「花の方は私が換えておくわ。
だから、あなたはそのまま掃除を続けていてくれて構わないわよ」
「え? そうですか? ありがとうございます。
それでは、お言葉に甘えて…そちらはお願いしますね?」
「ええ」
遥の言葉を受けて、美幸は持参した小さい箒での掃き掃除を続ける。
それからは、黙々と自らの担当作業を続ける2人。
容赦なく降り注ぐ夏の日差しにジリジリと肌を焼かれる感覚を感じながら、
墓石とその周辺を一通り綺麗にしていく。
「…ふぅ。大体、こんなものでしょうか?」
「ええ、そうね。
随分綺麗になったみたいだし、もうこのくらいで十分じゃないかしら」
「それでは、このまま咲月達が来るまで待ちましょうか?」
「そうね……別に待たなくても構わないんじゃないかしら。
さっき確認した限りでは、莉緒達は『少し遅れる』という話だったことだし…。
先に私達だけでもお線香をあげておかない?」
「…そうですね。では、そうしましょう」
遥の提案に同意した美幸は、目の前の墓に線香をあげ、手を合わせる。
隣では美幸に倣い、遥もその墓に向けて手を合わせて目を閉じていた。
―――その墓石には『夏目家之墓』という文字が刻まれている。
ここには、生前に2人の友人でもあった由利子と…今ではその夫であった洋一も
共に眠っている。
由利子が亡くなった際に、洋一の故郷にある先祖代々の墓に入るかたちで弔う…
という案も一度は出たものの、結局は高齢の洋一が通いやすい土地にということに
なったため、この墓はこの2人のために新たに建てられたものだった。
数十秒間、洋一達に手を合わせた美幸達は、ゆっくりとその目を開ける。
「…そういえば、由利子さんとはよくお話をさせてもらったけれど…。
所長さんとは、あまりお話しさせてもらう機会は多くなかったのよね…。
美幸は亡くなるまでによく話をしていたのよね?」
「…はい。体調を崩されてからは、特に。
…由利子さんとは、生前に満足行くまでお話することが出来ませんでしたし…。
あれ以降は、もう同じような悔いが残らないように…と思いまして。
…ですから、あれ以降は相手が高齢だったり、重篤な状態ではなかったとしても、
誰かが入院…ということになれば、なるべく時間を作って、よくお話しするように
心掛けていましたからね。
…今、考えてみると、そういう意味では由利子さんには本当に感謝…ですね」
「…そうだったの」
由利子が亡くなった当時のことを思い出しているのだろう…。
美幸は少しばかり声に寂しさを滲ませながら、空を見上げていた。
アンドロイドである彼女の『記憶』は、“忘れる”ということを許さない。
楽しいことや嬉しいことを細かくはっきりと思い返せる反面、悲しみや苦しみも
その瞬間の感情ごと、色褪せること無く反芻出来てしまう…。
…しかし、通常の人間である遥には、どうしてもその感覚を共有してあげることは
出来ない。
実際、遥自身も由利子の葬儀の時の記憶を思い出してはみたのだが…。
遥は、もう涙が溢れてくる程の悲しみまでは覚えなかった。
“人と同じ感情を持つアンドロイド”として生まれた美幸は、その素晴らしさから
研究者達に『完璧だ』と絶賛された。
そんな美幸にとっての唯一の欠点とは…案外、この『忘れられないこと』だった
のかもしれない…と、長い時間を共に過ごした遥は考えるようになっていた。
「…ねぇ、美幸? 今までは改まって尋ねたことなかったけれど…所長さんとは、
どういう話をしていたの?」
無言で流れる雲を見つめ続けている美幸をなんとか元気付けようと、遥は雰囲気
を切り替えるように、明るい調子でそう尋ねる。
美幸も、遥とは長い付き合いだ。
その言葉に励ましの意味が含まれていることにはすぐに気が付いていたので、心の
中でそんな遥に感謝しつつ、自身も明るい口調で返答することにした。
「そうですね…。
所長さんとは、あの人のお話をしていることが多かったように思います。
亡くなる直前にも、『あっちに行ったら、佳祥君の小学校の入学の様子を真っ先に
由利子に教えてやることにしよう』と言って、笑っていらっしゃいました」
「ああ、なるほど。
確か、佳祥君が小学校3年生くらいの時に亡くなったのだったわね…」
「…ええ。所長さんからすれば、あの人は孫みたいなものでしたから。
随分、可愛がってくれていましたよ」
「あら、それを言うなら、あなただって孫娘みたいなものだったじゃない?」
「ふふっ…そうですね。
ええ。勿論、私も十分に可愛がってもらっていましたよ?」
「……由利子さんに、所長さんか。
なんだか、思い返すと楽しいことばかりで…懐かしいわね」
「…ええ、本当に」
墓石を見つめながら、しばし思い出を振り返る美幸と遥。
2人がそうして昔を懐かしんでいた…ちょうどその時だった。
「お~い! 2人とも、おまたせ~!」
少し離れた所から、聞きなれた声が聞こえてきた。
「ごめーん、少し遅れちゃったよ~。
ちょっと家を出る時に手間取っちゃってさぁ…」
遥が声のした方を顔だけ振り返ると、莉緒がこちらに手をぶんぶん振りながら
歩いて来るところだった。
…これで、あと2、30歳も若ければ勢い良く走って来ていることだろう。
「はぁ…。あの子は、本当に相変わらずね…。
本当に幾つになっても、ずっと騒がしいままだなんて…」
「ふふっ…別に良いじゃないですか。元気なのは、良いことですよ」
遥がいつものように呆れを孕んだ溜め息をつく中、莉緒が家族を連れて美幸達の
傍までやって来る。
「いやー…ゴメンゴメン。
出発前に孫娘達と遊んでたら、気付いた時には予定の時間を過ぎちゃっててさ」
「別に、それは構わないのだけれど…その孫娘達は?
ここには一緒に来たのではないの?」
莉緒の『孫』という言葉に反応して、軽くその後ろを確認した遥だったが…。
ぱっと見たところ、莉緒の他にはその息子の京介の姿しか見当たらなかった。
「あ~…『曾お爺ちゃんと曾お婆ちゃんのお墓の分のお水を自分で運びたい』って
言い出してきかなくてさ…。
今は、それを姉妹2人で一緒に運んで来てる最中なんだよ。
だから、まぁ…もう少ししたら、来るんじゃないかな?」
「水を? それは…2人だけで大丈夫なの?」
所詮は桶…とはいっても、水を入れれば子供には結構な重さになるはず。
上の娘の小百合は12歳だが、下の娘である月子は、まだ8歳なのだ。
小百合が一人で運んでいるのならまだ安心だが、『一緒に』という言葉の通りに
2人で持っているのなら、身長差も考えると少々注意が必要かもしれない。
しかし、そんな遥の心配に対して、莉緒は軽い調子で答える。
「あー、それなら大丈夫だよ。
今日は咲月ちゃんも来てるから、ちゃんと傍で見てくれてるし。
転んだりとかの心配なら、問題は無いと思う」
「ああ、そうなの? それなら、良いのだけれど…」
莉緒の言葉を聞き、ひとまずは安心したはずの遥…だったのだが…。
その表情は、何故か依然として不満顔のままだった。
「はぁ…。『咲月ちゃん』か…。
2人が小さかった頃から何となくは予想していたけれど…。
やっぱり、京介君に咲月を取られちゃったわね…」
「遥さん…。いい加減、もうその話は勘弁してくださいよ…」
遥が溜め息混じりに漏らした言葉に、途端に京介は困り顔になった。
莉緒の息子である京介と、美幸と佳祥の娘の咲月が結婚したのは、もう15年
近くも前の話だ。
…にもかかわらず、いまだに遥に会う度に京介がこういった嫌味を言われ続けるの
には、理由がある。
「…ええ、分かってるわ。
でも、咲月は親友の愛娘というだけじゃなくて、私の一番弟子でもあるの。
それは、あなた達が小さい頃から仲が良かったのは、確かだけれど…」
遥がそう言いながら、再び溜め息を吐くのと同時に…不敵な笑い声が響く。
「ふっふっふ…遥ちん、良いでしょう? 羨ましいでしょう?
今や、遥ちんの大好きな咲月ちゃんは……私の義理の娘なのだよ!」
『どうだ!』と言わんばかりのしたり顔で、腰に手を当ててふんぞり返る莉緒。
こういう発言が、息子が遥に嫌味を言われ続ける理由だとは分かっている。
だが、莉緒が遥に対して優位性を得られる数少ない話題であることもあって、
ついこうして自慢してしまうのだった…。
「ちょ…ちょっと母さん! いい加減、勘弁してくれよ!
そうやって毎回毎回煽るから、遥さんがずっと納得してくれないんだろ!?」
これが遥達なりのコミュニケーションだというのは解っているつもりだが…毎回
のように遥に渋い顔をされる身としては、そろそろ何とかしたいところだった。
「…ええ。京介君が咲月の旦那なのは、別に構わないのよ。
ただ、やっぱり“莉緒が義理の母”っていうのが、微妙に腹腹立たしいのよね…」
自慢気な表情の莉緒をナチュラルに無視しながら、遥は京介に向き直る。
「…ねぇ、京介君。
養子にしてあげるから、今すぐ莉緒と縁を切って私の義理の息子になる気は無い?
私が死んだら、笑えるくらいの遺産が手に入るでしょうし…物凄くお得よ?」
「いやいや! 遥ちん!? ちょっと目が本気だよ!?
私にからかわれるのが嫌だからって、いくら何でも親の目の前で息子を強奪とか、
それってどうなのっ!?」
「クスッ…莉緒?
世の中はね、手段を選ばなければ大体のことは何とかなるものなのよ?」
「ええっ!? 今度はなんか悪役っぽいこと言い出した!?」
それから、暑さを忘れたかように、わいわいと盛り上がる莉緒達…。
そんな、ここが霊園の中だということを忘れるくらいの大騒ぎをする遥達を見た
美幸が、今度は1人…額の汗を拭いながら溜め息を吐いて呟いた。
「ふぅ…。全く…いつまで経っても変わらないのは、遥も同じじゃないですか…」
騒ぐ3人の間に美幸が割って入ることで、やっとその場が静かになった頃。
莉緒達の後ろから、更に元気な声が美幸の耳に飛び込んできた。
「お父さーん! ほら、お水! 持って来たよー!」
「あっ…こらっ! 月子! そんなに急ぐと、また転ぶわよ!」
父親の姿が見えて、嬉しくなったのだろう。
妹の月子の方が、姉と一緒に持っていた手桶から手を離して、京介の元まで走り
寄って来た。
一方、姉の小百合はというと、月子が途中で手を離すのが予想出来ていたのか、
冷静にその手桶を持ち直しつつも、転ばないように月子を声で制している。
活発で元気一杯の月子を、冷静で落ち着きのある小百合が面倒を見る。
元々仲の良い姉妹だが、性格的にも良いコンビだった。
それが、(姉と妹の立場が逆ではあるが)美幸には暴走する美咲を諌める美月に
似て見えて…なんとも微笑ましい限りだ。
「ごめんなさい、母さん。
今日は特に暑いからかな…。道路が込んでて、ちょっと遅れちゃった」
「いいえ。こちらは遥と一緒でしたし、退屈というわけでは無かったですから、
別に構いませんよ」
顔を合わせてすぐに謝ってくる咲月に、美幸はそう言って返す。
すると、咲月はそんな美幸に改めて『ありがとう』と礼をした後、今度は遥に
向き直った。
「先生も、本日はお忙しいのにわざわざ来て下さって…ありがとうございます」
「それは構わないわ。
私としては、ゆっくりできる分、むしろありがたいくらいよ?」
遥はそう微笑みながら答えると、咲月を振り返って言葉を続けた。
「それよりも、先に掃除を終わらせてしまいましょう?
由利子さん達のお墓はもう済ませたけれど、残りの2基はまだこれからなのよ」
「ああ、夏目さんのところのお墓参りはもう済ませられたんですか」
「ええ。お線香もあげて、美幸と先に手を合わせておいたの。
そうね…私達は先に始めておくから、あなた達もそちらにご挨拶しておきなさい」
「はい、そうですね。わかりました。では、そうさせて頂きます」
そんな会話をする遥の背後で、莉緒と京介が夏目家の墓に手を合わせる。
京介に比べて落ち着きが無い莉緒の方が、手を合わせている時間が長かったのは
よく知らない他人が見れば、少々意外な光景なのだろう。
そんな、静かに手を合わせて目を瞑っていた莉緒がゆっくりと立ち上がったのを
見計らって、遥が声を掛ける。
「さて、莉緒。
咲月達が由利子さん達にご挨拶している間に、私達は掃除に取り掛かるわよ?」
「うん、了解! 見てて、2人とも!
鏡面仕上げみたいに、ピッカピカにしてあげるからさ!」
「ふふっ…。
莉緒さん、張り切るのは良いですけれど、程々にしておいてあげて下さいね?
皆さん、あまり目立つのは得意ではなかったんですから…」
必要以上に気合を入れる莉緒に、美幸は笑いながらそう言って注意を促した。
頑張ってくれるのは嬉しい限りだが、莉緒ももう若いという歳ではない。
…それこそ怪我でもしようものなら、逆に墓の主達が悲しむだろう。
夏目家の墓の向かい側…寄り添うように並んで建てられた、2基の墓石。
そこには―――
『高槻家之墓』、『原田家之墓』という文字が、それぞれ刻まれていた。




