幕間 その26 美咲の片想い
「…それでは、姉さん。洋一おじさんにも、このことをお伝えしてきますね?」
「原田先輩。改めて、これからもよろしくお願いします」
「…うん。まぁ…2人共、これからも仲良くね」
2人並んで交際の報告にやってきた美月と隆幸を散々からかった美咲は、その後
そう言ってニッコリと笑いながら見送った。
研究室の扉がバタンと音を立てて閉まってから、数秒後。
美月達が立ち去ったことを確認した美咲は『ふぅ…』と小さく溜め息を吐いた。
「ダメだなぁ…。あの美月に限って、気が付いてない…ワケがないもんなぁ…」
冗談を言う度に叱られたり、呆れられてばかりの美咲だが、それでもやはり美月
は大事な妹であり、それは美月から見ても同じだろう。
早くに両親を亡くしたということもあり、寄り添うように生きてきた2人。
勿論、洋一達を始めとして周囲には助けてくれる人達は沢山居たし、そんな人達
には美咲も感謝している。
ただ、そうは言ってもやはり美咲にとって美月を守るのはあくまで自分であり、
今までも姉妹で助け合い、支え合ってやってきた。
そして、だからこそ美咲は、世間の普通の姉妹よりもお互いをよく見てきたし、
その分、相手をよく知っているつもりだった。
…そんな妹が、自分の心情を見抜けていないはずがないだろう。
「まったく…どうしたもんかね…」
ドカッと音がするほど勢いよく来客用のソファに腰を下ろした美咲は、手の平を
目蓋の上に乗せて、天を仰ぐ。
これが屋外なら、指の隙間から差し込む眩しい太陽の光が、若干ながら爽やかな
心持ちにしてくれるのかもしれないが…生憎ここは研究室内。
ちらちらと指の隙間から差し込んでくるのは、無機質な蛍光灯の光だけだった。
そんな罪のない蛍光灯にすら理不尽な怒りが僅かに湧いた美咲だったが…すぐに
それも馬鹿馬鹿しくなって、また小さく溜め息を吐く。
「はぁ…。そりゃ、恋愛小説なんてあんまり読んでこなかったけどさ…。
それでも、創作で聞いていたのとは随分と違うじゃないか…」
別に“恋に夢見る少女”のつもりはなかった美咲だったが…それでも、自分が恋を
した時には、よく聞くような『全身に電気が走ったよう』とか『鼓動が早くなって
相手を直視できなくなった』という表現があるのだから、はっきりと自覚が出来る
ような何かが実際にあるのだろうと思っていた。
「それが…こんな“何となく振り返ったらあった”みたいなのがそうだなんて…。
…こんなの、ドラマチックさの欠片もないだろ。
まったく…勘弁してくれ」
美咲がその感情を自覚できたのは、つい最近のことだった。
…ちょうど美月が隆幸と過ごす時間が多くなり、あからさまに懐き始めた頃だ。
元々、境遇やその心のあり方を知った時から、“美月の相手ならこういう人物で
なくては”と考えていた美咲は、美月が隆幸に対する警戒心を解いた時には、内心
では喜んでいた。
『これで美月を自分が思う“世界一の幸せ”に、一歩近付けることが出来た』
そういう達成感すら感じていたくらいだったのだ。
…だが、美月と隆幸が2人で過ごす時間が増えるに連れて、どこか疎外感のような
ものを感じ始めた頃…ふと、気付かされた。
美月が姉離れしていくことに一抹の寂しさを覚えると同時に、隆幸と過ごす時間
が減ってしまうことにも、どこか寂しさを覚えてしまっている自分に。
「嫉妬心、とかさ…そういうのでもあれば、もっと早めに気付けただろうに。
…本当、本の中の恋愛なんて嘘ばっかりだね」
恋愛を題材にした物語では一度は必ずと言って良いほど出てくる、恋のライバル
に対する…嫉妬心。
そんな感情でもあれば、少しはわかりやすかったのだろうが…自覚できた今でも
不思議なくらいに美月に対して嫉妬を感じたりはしていなかった。
それは、ひとえに美咲が美月の幸せを願う心が大きすぎるが故のものではあった
のだが、それが今回に限っては逆効果だったらしい。
勿論、美咲は美月の恋を邪魔するつもりなど毛頭ない。
…ただ、もっと早く気付けていたのなら、美月が感づく前に隠し通せたはずだ。
美月もそうであるように、美咲も美月の感情をある程度、察することが出来る。
…時折、自分の前では隆幸と仲良くすることを遠慮しているように見える時がある
ことからも、ほぼ確信を持てるレベルで気付かれていると見て良いだろう。
「はぁ……それにしても、嫉妬心は無いのに、こういうのはあるんだなぁ…」
今、美咲の自覚している心情は、複雑そうに見えて実に単純なものだった。
『もっと自分を見て欲しい』とか、『好きになって欲しい』とか、そういった感情
が入り混じっているワケではなく…ただ1つだけ。
ただひたすらに…『寂しい』という感情だけが、何処からともなく湧き上がって
くるのだ。
「美月と高槻君が、ついに婚約…か…。
本来なら、もっと純粋に、一番に喜んであげなきゃいけないはずだろ。
まったく…本当に大馬鹿者だなぁ…私は」
美月も隆幸も、結婚したからといって自分を邪険に扱うような人物ではないと
いうことは確信を持って言える。
…美咲にだって、それくらいは分かっている。
それでも、自分だけが置いていかれるような…そんな感覚だけが、ずっと美咲の
心に留まり続けていた…。
そんな感情に苛まれながらも、平静を装いながらいつも通りの自分を演じ続けて
数日がたった、ある日の夕方。
いつものように美月と隆幸が2人揃って研究室を後にしようとしていた。
「それでは姉さん、今日はこれで失礼しますね?」
「…うん。2人共、気をつけて帰るんだよ?」
「ええ。チーフもあまり根を詰めないで、きちんと帰宅して下さいね?」
「ああ。私も適当なところで切り上げて帰るよ。
そういう高槻君こそ、美月を無事に家まで送り届けるんだよ?
疲れて帰った家に美月の手料理が無いのは、流石の私も少し凹むからね」
「ははは…それは大変ですね。ええ、わかりました。
美月ちゃんは安全運転でご自宅までお送りしておきますから、ご安心を」
「うん、よろしく」
軽く会話を交わして、美月達は美咲をその場に残して去って行く。
あの2人はここ最近、特に一緒に行動していた。
意図的に恋人らしく過ごすことで、それをお互いに自覚しようとしている部分も
あるのだろう。
あの交際宣言の後も、研究室で共にする時間がある程度あることもあって、毎日
顔を合わせて話をしているだけでも2人は満足してしまうらしく…意識しなければ
仕事の同僚以上の付き合いしかしていない日が続いていた。
そんな時、美咲から『君たちはそれでも婚約者同士なのかい?』とツッコまれた
ことで、初めてその事実に気付いたらしい。
それを切欠に、2人で話し合ったのだろう。
帰宅時間を合わせて、軽いデートを楽しんでから帰っているようだった。
まだぎこちない2人ではあったが、そうして妹の恋愛が少しずつ前に進んでいる
ことに、とりあえず美咲は安堵していた。
…しかし、一方で例の“置いて行かれたような寂しさ”の方は、依然として美咲の心
の中に居座り続けていた。
「はぁ~…。今日もなんとか、ちゃんと出来た…かな?」
ここ最近の日課になりつつある、鏡の前での表情チェックをする美咲。
「…うん。どうやら大丈夫そうだね…」
鏡に映る自分の笑顔にはこれといった違和感は無く、そこから寂しさを感じ取る
ことは出来なかった。
最近になって美咲は、表情…特に瞳の中に寂しさを含んでしまわないように気を
遣っていた。
今までの隆幸は、自らの経験から“自分が他人から好かれる”という感覚に対して
鈍いところがあった。
だが、これからは美月と付き合う中で自分が人に好かれるということに、次第に
慣れていくことだろう。
それ自体は喜ばしいことではある…が、そうなれば、僅かにでもこの感情が瞳に
表れれば、あの神がかった観察眼で即座に見抜かれてしまうはずだ。
美月に気付かれていることはもう諦めるとしても、隆幸にまで気付かれるのは、
色々と不味い。
頭の回転が早く、なんでも卒なくこなす隆幸なら、どんなことが起こっても一見
上手くかわせそうに思える。
ただ、あの男が驚くほど気障な台詞をサラリと口にするのは、純粋な心根ゆえの
ものであることを、美咲は既に知っていた。
そんな、普段の発言からは想像も出来ないくらいに純朴なあの隆幸が、実は美咲
からも恋愛的な意味で好かれている…という事実に感づいたなら…。
…きっと、どうすれば良いのかわからなくなってしまうことだろう。
実際には、隆幸に知られたところで何がどうということでもないのだが…。
少なくとも、美咲達3人の間に漂う雰囲気は気不味くなるはずだ。
だからこそ、やっと訪れた美月の幸せな時間に、そういう形で水を差したくない
美咲は、ここ最近は特に自分の表情をコントロールすることに努めていた。
「はぁ…。それにしても、何とかならないもんかね…この感覚は」
時間が経つに連れて慣れてきたのか、以前ほど寂しさ自体は感じなくなってきて
はいたものの…やはり、その感情は完全には無くなってはくれなかった。
むしろ最近では、美月と隆幸が並んで歩いている姿を見かけた時に、不意に美月
の場所に自分がいる情景を思い浮かべてしまったり…といったことすらあった。
…冷静に考えて、状況は日に日に悪化していると言って良い状態だった。
このままでは、近いうちに最も恐れていた状況になりかねない。
…なんとしても、大事な妹を相手に嫉妬することだけは避けたいところだ。
「何でも良い…どこか意識を逸らせるようなものでもあればいいんだが…」
先日、美咲は自身の嫉妬心がどういうものなのか…ということを考えてみた。
“嫉妬”とはつまり、自分より恵まれた環境に対して覚える不満…自分の方が利益
を得たいという、いわゆる利己心から来るものだ。
しかし、美咲の場合、もともと美月に対する愛情が強いこともあり、その“美月
が幸せなら”という感情の影響か、そういった不満は感じていないようだった。
それならば、何故、悪化するような事態になっているのだろう?
そう考えを巡らせる内に美咲が辿り着いた結論は、寂しさを強く覚えていること
から判る通り、自分の中の“何か”が無くなってしまったことが原因で、感情が変化
したのだろう…というものだった。
そこで思い当たったのが、隆幸との“関係性が変わるから”というものだ。
今までの美咲と隆幸の関係性は、特に親密という程のものではなかったものの、
先輩と後輩という“直接的”なものだった。
だが、そこにもっと強力な“美月”という存在が、“結婚”という形で加わることに
よって、美咲と隆幸の関係は義理の姉弟…つまり、“妹の婿と妻の姉”という、美月
を間に据えた、“間接的な関係”に成り代わることになる。
どうやら、最近になって感じているこの感覚は、その“直接的な関係性”を失って
しまうことに対してのものらしかった。
だから、何か意識を逸らせることが出来るものがあれば、この寂しさを消すこと
は難しくても、誤魔化すことくらいは出来るかもしれない。
そう…何か直接的な繋がりを保つ代替物があれば…美咲はそう結論付けていた。
「………ん?」
そんなことをぼんやりと考えていた時だった。
不意に美咲の目に『新型AIアンドロイドの識別コード案』と書いた書類が目に
飛び込んできた。
書類と言っても、これまで研究室内で挙がったネーミングの候補を簡単に纏めた
もので、中身はさほど重要なものではない。
几帳面な性格の美月がきちんとした書類にしたというだけであって、内容的には
走り書き程度のレベルのものだった。
その書類には今までに挙がった幾つかのコード名の案が羅列されていたのだが…
その中にある1つのコードに、赤いペンで丸印が付けられている。
それは『MI-STY』という識別コードだった。
当初は、既に決定している『美幸』というその名前から『MIYUKI』という
シンプルなコードも考えていたのだが、『流石に情報の秘匿性が薄過ぎる』という
理由で却下されることとなってしまった。
それならば…と、コードらしい体裁も保ちつつ、尚且つ開発者の名前も、美幸の
名前も隠されている『MI-STY』というものが採用されることになったのだ。
「『美幸』…か。この子は…どういう子として生まれてくるんだろう…」
開発計画は予定通り進んではいるが、まだまだ完成までは遠い。
しかし、美咲も自分達の娘に早く会いたいと思っていたため、気が早いとは理解
していたが、先に名前だけは付けてしまっていた。
“幸せな人生を送って欲しい”という想いから付けた、その名前。
今でもその名前にして良かったと思っているし、今後も変えるつもりはない。
だがその名前は、決めた後から改めて見てみれば、美月と隆幸の文字を1つずつ
とって付けたようにも取れるものだった。
しかも、そのAIの内部も、あの2人の経験をメインに開発しているのだ。
…そう考えれば、このまだ見ぬ『美幸』という存在は、“3人の娘”というよりも、
むしろ“美月と隆幸の娘”と言った方がしっくりくる。
確かに、美咲にも“美”の文字が含まれているし、美咲と隆幸の文字を取ったのだ
と考えることも出来るが…。
やはり、隆幸と夫婦になる美月の方が、当然ながらイメージしやすかった。
「ああ…ダメだなぁ…本当」
そこまで思考が及んだところで、美咲は頭を抱えて自己嫌悪に陥った。
ここでも隆幸と“直接的な関係性”ではないことが気になってしまった。
「あーっ! もう!!
いっそのこと、コード名だけでも『MISAKI-TAKAYUKI』にでもして
やろうか!」
美咲も思い入れのある、この『美幸』に付ける予定の個体識別コード。
その中ですら『T』の文字の意味を共有している美『月』と『隆』幸。
それに何とも言えない悔しさを覚えた美咲は、そんな言葉を口走った。
もしも、自分にとっても大切なこのコードが、その“直接的な関係性”を表すもの
だったなら…少しは気も紛れたかもしれないのに。
そう思った美咲は、深く考えることもなく―――
『MI-STY → MISAKI-TAKAYUKI』という文字を、その書類
に書き加えた。
「…………ん? んんっ!?」
『自分は何をやっているんだろう…』そう思って、急に冷静になった美咲は、書き
加えた文字列をよく見てみたのだが…。
「ぷっ…くくっ……ぶぁっははははははっ!」
その事実に気付いた美咲は、心底馬鹿馬鹿しくなって大笑いすることになった。
何故なら、先ほど気付いたほんの些細な事実で、ついさっきまで頭を悩ませて
いた嫉妬心が、嘘のように綺麗に無くなってしまったからだった。




