後は脱兎の如く、敵拒(ふせ)ぐに及ばず
ドアが開き僅かな隙間できた瞬間。
ゆらりと倒れるように少女の体が傾いたかと思うと、瞬時に少女の体がドアの前から消えた。
男達が取り押さえる間もなく、少女はドアの隙間から初老の男性を突き飛ばしながら中に入り込むと、ドアを閉め鍵をかけた。
ただの素早い動きではない。
複数の相手を観察し、緩急、虚実を交えた動作で、男達と初老の男性の気が緩んだ所を突っ込んだのだ。
狼に追われ茂みに逃げ込んだ兎はただ一心不乱に走るわけではない。
ある程度走ると、立ち止まり周りの状況を確認し、一気に方向転換し走りだす。
それはあまりにも突然で、誰もが兎を捉えることができない。
兎は知っている。
本能的にどうしたら自分が捕まらずに駆け抜けることができるのかを。
少女は知っている。
人間がどんな時に思考が止まり、何もできない状況に陥ってしまうのか。
少女は仰向けに倒れた初老の男の体を片膝で床に押さえつけ、左手で初老の男性の左手を掴むと同時に右手で背中にくくりつけてあった「妖刀兎丸」抜き手に取った。
あまりのことに怯えた声で初老の男は叫んだが、ここは密室、助けがすぐに来るはずがない。
震えた男の顔を確認するように少女を見た。
「鴨志田文人さんですね?」
少女が初老の男の眼前に兎丸を突きつけると、男は観念するかのようにガタつきながら息を飲んだ。
絶望。心の底から死を意識した人間は、どうにもならない現実を前に身動きが取れなくなる。
ここに至るまでの自分の人生を男は呪った。
男は自分以外に殺されるべき人間はいくらでもいると思った。
しかし、そんなことをいくら考えたところで、この最悪な状況が変わるわけではない。
ただ自分を「殺せ」と命を受けた少女は、殺し屋としてただ指示を受けた人物を殺すだけだ。
「お前誰だ?誰に頼まれた?」
男は最近自分の身の回りでおきていた不穏な事件を思い返していた。
誰が…誰が自分を殺そうとしているのか…
自分に恨みを抱いているやつ、自分の存在が邪魔なやつ、何人も浮かんでくるが、絶対的にこいつだというやつが浮かんでこない。
「それは言えません。しかし名前くらいは名乗るのです。私はウサギ。ウサギが来たと言えば、外の男達も分かるのです。ですがご心配なく。鴨志田さんはここで死ぬのですから」
こんな状況には慣れているのだろう。
少女は落ち着いてそう言うと、右手の兎丸を迷わず男の首元に振り下ろした。