迂直の計を先知する者は勝つ
「ゆかな、3日ほど時間を下さい。私も作戦を練りこまないと、縦横無尽に次々と攻撃を仕掛けてくるお父様に勝てる気がしませんので。率然者という名は伊達ではありません。ただし、お父様に悟られぬ前に、短期決戦で攻めこむ必要があるのも事実です。夕立が降りだすように、思うわぬ急な雨が降り出すからこそ人は心を乱し、そこに付け入る隙が生まれるのです。問題はゆかなが誰にも迷惑をかけずにアイドルをやるにはどうするかです。その点が解決したら、あとはゆかなの熱意次第ですよ。お父様を理詰めでロジックという名の鉄柵に縛り上げたら、お父様の気持ちをゆかなの気持ちで納得させられるかどうかなのですから」
ゆかなは徐如林の話を聞くと、ベンチからすっと立ち上がった。
ゆかなのかわいい目には燃兎眼が真っ赤に燃え上がり、熱い熱い正義のオーラがゆかなを包んでいた。
「お兄様、わかったのです。ゆかなもお父様にゆかながアイドルになりたい気持ちを精一杯伝えるのです!!!!」
ゆかなは熱く熱くアイドルになりたい気持ちを燃え上がらせ、その高まりを徐如林にぶつけてきた。
それは普通の中学生が自分の夢を語るのと似ていた。
全く良いことなどないのに、ゆかなの胸の高鳴りは止まらない。
ゆかなだけではなく、家族や関係者が全員が死ぬかもしれないというのに。
しかし、その思いは清流のように純粋で本物であった。
「そうです、ゆかな。私達は孫子の兵法を学び迂直の計がいかに大事なのかを知っています。まともに戦ってはお父様を納得させることなど死ぬまで不可能でしょう。しかし遠回りを最短の道に切り替えることこそが勝つための常道。大局的に不利な流れだとしても、それをひっくり返す所に戦術を立てる醍醐味があります。一緒にお父様が納得してくれるように頑張りましょう」
徐如林は、ゆかなが普通の中学生みたいに「アイドルになりたいのです!」と言うのを見て胸をなでおろしていた。
それは殺し屋として、早くも高みに達してしまったゆかなが、年齢にふさわしいことを言い出し、それが正常であるというか、ゆかなが元の世界へ帰ってきたような気がしたからだ。
徐如林は、やはりゆかなをアイドルになれるように応援したほうが、ゆかなが想像もできない世界に取り込まれてしまうことなく、1人の女の子として幸せな人生を送れると考えた。
徐如林にとって殺し屋とは、あくまで生活するための手段の1つで、特にそれに固執しているというわけではなかった。
もちろん家業として裏の世界で代々引き継がれてきたこの仕事に徐如林も誇りを持っていた。
篠宮家の教えや様々な殺し屋としての技術は、他と一線を画すほどレベルの高いものであるし、それを身につけているからこそ、自分にも自信があり、それらが自分自身を作りあげているのも自覚している。
先を読み、戦略や戦術を立て、現場で作戦通りことが運ぶように冷静に機会を伺い、何かトラブルがあったら臨機応変に用意しておいた別の作戦に切り替えていく。
世には出てこないが、誰かがやらなくてはならない必要悪。
徐如林は自分自身で「殺し屋とは私のためにある仕事」だとさえ考えていた。
しかし、殺し屋に全てを捧げるつもりも、徐如林にはなかったのである。
それは徐如林の中で、人間は人間らしく生きていくべきであり、そのためには人を殺さない生き方が必要であると考えていたからである。
それ故に、ゆかなが殺し屋が正義だと信じ、一直線に徐如林が想像もできない恐ろしい世界に向かっていることに危険を感じていた。
それから3日間、徐如林もゆかなも、アイドルになる話は一切口にしなかった。
何事もないようにいつも通りの生活を2人は送っていた。
絶対的に不利な状態をひっくり返すためには、緩急を交えた戦術が必要だからである。
ゆかなも徐如林も父、率然者を納得させるためには、いかにして父、率然者に気がつかれないかにかかっていると知っていた。
そして、父の虚を突くためには、できるかぎりいつも通り穏やかな日常を送ることこそが重要。
遠くで嵐が起きている浜辺で急に激しい大波が襲ってくるが如く、じっと伏せていた顔をあげたら一気に切り込まないと切り崩せない。
その緩急の差はできるかぎり激しくならなくてはいけない。
そうでないと、父に隙が生まれないのだ。
お互いにやるべきことは詰めておいて、その時が来たら直前で軽く打ち合わせ、その後は臨機応変に対応するということは、お互いに話し合わなくても当然のことなので話し合う必要がなかったというのもある。
ゆかなと徐如林は何度も共に殺し屋として活動しており、無論幼少期からの稽古に関してはとてつもない時間を共に過ごしている。
実践力とは経験である。
経験がなければ、いざという時に身動きが取れなくなる。
その点、この2人はお互いを知り尽くし、阿吽の呼吸で動くことができるのだ。
あの公園でのゆかなの告白から3日後。
夕食の前に徐如林はゆかなを部屋に呼び、何かが書かれたA4の紙を渡した。
呼ばれたゆかなも恐らく夕食の時に、兄、徐如林が動くのではと考えていた。
それは、母、景都が見ていてくれるからである。
これである程度は父の動きを封じることができるからだ。
ゆかなを渡されたA4の紙を素早く読みきった。
そこには全くゆかなが考えもしなかったことが書いてあったのだろう。
かなり感心した様子で兄を見上げた。
「お兄様はやはり天才なのです!本日はよろしくお願い致しますなのです!!!」
ゆかなは熱いオーラを浮かびあがらせながら、徐如林に一礼すると徐如林は周りを警戒するように何も言わず首を振った。
「ゆかな、声が大きいですよ…」
徐如林は優しく微笑むと、ゆかなもすぐにおとなしくなり1つ頷いた。
2人の兄妹は父という大きな壁、篠宮家という壁、殺し屋という壁に、初めて真っ向から歯向かうことになる。
それがいったいどういう結果をもたらすのか?
それについては2人とも全く予測ができていなかった。