兄、徐如林(サイレント)に相談するゆかな
ゆかなはとてつもない速さで駅まで走ると電車に飛び乗った。
あの男に完全に気配を消し全力で移動するゆかなを目で追えるはずがなかった。
電車の中でゆかなはさっきまでの夢のような時間を思い出していた。
自分がアイドルになれるなど考えてもいなかったし、もしかするとあのおじさんに騙されているのだろうかとも考えるのだけれど、あんなにも家族以外に自分のことをかわいいなんて言われたのは初めてで、それだけでもゆかなにとってステキな時間だったのだ。
ずっと目立たないように育てられてきたゆかなにとって、自分の住む世界とは真逆の世界であるアイドルは憧れのお仕事であった。
ゆかなの頭の中には自分がアイドルになった時の楽しげな未来がどんどん浮かんでいった。
テレビに出てくるような一流のアイドルになれなくても、自分のことを応援してくれるファンのために頑張って歌う自分を想像していた。
それで何人かの人達が喜んでくれるなら、どんなに素晴らしいことだろうか。
だがしかし、問題は父、率然者がそれを許すはずがないということである。
殺し屋の強みは、常に暗殺者側であり、正体さえバレなければ復讐される可能性は低い。
急に襲いに行くから殺しが成功しやすいのであって、いかにゆかなが優秀な殺し屋だとしても、逆に24時間狙われ続けたら日常生活は崩壊し命を落とすであろう。
ステルス エージェントであるゆかなの強みはここにある。
見つけることが不可能なわけだから、殺しの間だけではなく日常生活も安心して送れるのである。
世間に顔を晒し有名になるということは、殺し屋として死を意味するわけだ。
それはゆかなにもよく分かっていたし、殺し屋としての誇りもゆかなは持ち合わせていた。
殺し屋は殺し屋でゆかなは続けて行きたかったのである。
ゆかなにとって殺し屋は正義であり、一生かけて正義を守り続けると決めていたからである。
これには兄、徐如林からの教えが影響しているのであろう。
強い意志と的確な判断力で、臨機応変に即断し数々の修羅場を乗り越えてきたゆかなにもこれからどうして良いのか判断がつかなかった。
その夜のことであった。
学校のフェンシング部の練習を終えた徐如林はシャワーを浴び自分の部屋でくつろいでいた。
しかし徐如林は部屋のドアの前に誰か立っている気配を感じ椅子を座り直した。
間もなく「ゴンゴン」と外から部屋のドアをノックする音が聞こえた。
「お兄様、ゆかなです。入ってもよろしいでしょうか?」
それはゆかなの声であった。
普段はめったに入ってくることがないゆかなが何事か?と思ったが、長年一緒にいる妹が何を考えているかはおおよそ察しがつくものである。
徐如林はゆかながなにか相談したいことがあるのでは?ということを察知していた。
徐如林は立ち上がり傍にあった木刀を2本手に取ると自ら部屋のドアを開けた。
そしてそこにはどこか悩みを抱えたようなゆかなが立ち尽くしていた。
「ゆかな、それでは外へ稽古に行きましょう」
徐如林は自然に木刀を1本ゆかなに手渡すと、ゆかなもさも当たり前のようにそれを受け取り一礼した。
「はい、お兄様。よろしくお願い致します」
それは徐如林の気遣いであった。
この家の中ではどこで率然者に盗聴盗撮されているか分かったもんじゃないからである。
稽古の名目で外に出る分には問題ないので、ゆかなの悩みを聞くときは外に出ることにしている。
外に出たとしても率然者に見張られていない保証はないのだが、最低限の危険を回避するためにもこういうふうに装うのだ。
徐如林はやはり何か相談したいことがあるのだなと悟ると、いつものように優しい笑みを浮かべながらゆかなと外に出た。
どうでも良い話をしながら広い公園まで歩いて行くと、真っ暗な誰もいない広場の中央でお互いに木刀を握り向き合った。
それは2人してみれば軽い動きであったものの、何も知らない人が見たら「どうして怪我をしないんだ?」と驚いてしまうくらいに機敏な動きであった。
様々な相手が繰り出す木刀での攻撃を、身を最低限に翻しながら自分の木刀で相手の攻撃を受け流すということをお互い交互に繰り返しているだけなのだが、あまりにも洗練されすぎていて素人には2人の木刀の動きを追うことはできなかった。
何十万回、何百万回と繰り返してきたその動きは、人を殺すための動きだと思わなければ美しいとさえ感じてしまう。
木刀を交えながらも優しく微笑んでいる徐如林は動きを止めずにゆかなに切り出した。
「ここなら大丈夫ですよ。少なくともここなら音声を拾われる可能性は少ないです。一体何があったのですか?」
徐如林はゆかなに優しく問いかけると、ゆかなも手を止めずに受け流された自分の木刀を切り返し徐如林に打ち込んでいく。
「お兄様!私!アイドルになりたいのです!」
迫真の表情でそう言いながら打ち込むゆかな。
それを全く予期していなかったのだろう。
めずらしく徐如林は真顔になると、ゆかなの切り返しを受け流せずに木刀を叩き落とされた。
徐如林は痛そうに自分の左手首を押さえると、殺し屋の習性で素早く低い姿勢で自分が落とした木刀を拾った。
何の冗談を言っているのかと徐如林はゆかなの顔を見たが、いつも通りゆかなは真剣な眼差しで徐如林を見ていた。
そうなのだ。常に正義の炎が心に燃え上がっているゆかなが、わざわざつまらない嘘をつくわけがないのだ。
馬鹿正直と言っていいくらいのゆかな。
何があったのか分からないが、真剣にアイドルになるかどうかということで悩んでいるのだろう。
でも徐如林にはゆかなの悩みが理解できなかった。
そもそもアイドルという大人の操り人形、悪く言えば人間が人間を売るような商売、ゆかなも悪い人たちがどんな商売をしているのか見てきたはずなのに、何故そんなものになりたいと言い出したのか?
それに顔が世間に知れれば、それだけ復讐される可能性も高まる。
そして何よりも父、率然者がそんなことをゆるはずがなかった。
大事なゆかなが欲にまみれた男たちに囲まれていたら、率然者が絶対にそいつらを皆殺しにすると思った。
徐如林はまた優しそうな笑みを浮かべ始めた。
まずはゆかなの話を聞いてから、それからのことを考えようと思った。
「ゆかなは死にたいのですか?何があったのかゆっくり話してごらん」
徐如林が優しくゆかなに問いかけると、ゆかなは真剣な眼差しを熱く向けたまま強く頷いた。
「わかりました。私もどうして良いのかわからないのです」
誰もいない公園は静まり返り、2人を暗闇に隠していた。
ゆかなは徐如林に悩みを打ち明け始めた。